1991年3月三島市刊行『三島市制五十周年記念全国公募論文集』佳作入選。公募論題


「これからの三島市のまちづくりについて ──市制百周年に向けて」


「水と緑の情感都市へ」      越沼正


 私の家は、広小路駅のすぐそばにあります。大通りに面していて、四十歳の今日まで、 東京の大学での四年間を除いて、 ここに暮らしてきました。私は自動車を持っていません。 免許も持っていません。広小路駅のそばという交通至便なことが 理由の一つです。 こんな私ですから、「まち」と云いましても、見聞し、身近に感じられる範囲は広くありません。 北は文教町の大銀杏の並木、東は大場川付近、南は国一バイパス周辺、西は近いので市境までです。 この生活範囲内で、 私なりのこれからのまちづくりへの考えを記述したく存じます。

 先述しましたように、私は大学が東京でしたので、友人の多くが東京にいます。その友人たちが 時折我が家を訪ねてきます。 私は車を持たないので、友人たちを先ず三島の川巡りへ案内します。 広小路駅を起点に、笑栄通りを上がり、すぐの橋を右に 折れて宮さん川へ参ります。 途中で堰き止められた水は、楽寿園の出水口へ近づくにつれて魚影が濃くなります。 大小色とりどりの鯉が、 悠々と泳いでいます。ある場所では、犇(ひしめ)いて泳いでいます。 そんな鯉の群れを、無粋な柵なんぞない道路から見下ろして 「きれいだね」と誰もが 心ときめかせ、眼を楽しませます。

 川のはじまりの突き当りを右へ折れ、楽寿園からの源兵衛川の出口を横に見て、塀沿いに 東へ向かい、信号を渡って白滝公園へ入ります。 木影が心地よく感じられます。

 「ネ、ホラそこにも湧いているでしょう。」と、私はたまに指摘するだけで、 友人たちの好きに任せます。誰もが一様に「いいわね」 「いいねえ」と感嘆します。 そして岩間からチョロチョロと湧き出る清水に眺め入ります。暫くして興奮が収まった頃を 見計らって、 プール(現在は池)の横を抜け、桜川に架かる歩行者用の橋を渡って左折し、 桜川沿いに菰池へ赴きます。この頃になりますと、 足取りはゆったりとしたリズムになります。 菰池へ着きました。ここが桜川の起点(湧水池)であることを教え、今度は踵(きびす) を返して、 市立図書館の横の遊歩道を通って再び桜川へ出ます。柵のない道路を、川の流れに沿って歩きます。 自動車がゆっくりと 追い越してゆきます。ここは、宮さんの川沿いの道と同様、道幅が狭くて 歩行者と自動車とがお互いに譲り合って進まねばなりません。 そのことは、けれども 窮屈なことではありません。人も車も謙譲の精神を突然発揮して、譲り合うことのささやかな喜びを 感じるようです。 突き当りで橋を渡り、柳の風に揺れるのを眺め乍ら、歩みを進め、 三嶋大社の正面へ廻ります。大鳥居をくぐって本殿へ参ります。見物、 参拝に後、浦島神社から 赤橋へ向かいます。赤橋を右へ折れて御殿川の眺めを楽しみます。それから細い路地を西へ向かって いくつか 抜けてゆき、広瀬橋へ至り、自宅へ戻って一服します。ゆっくり歩いても小一時間ほどの 散歩で、ほどよく身も心もほぐれ、 楽しい会食での話題は四方山に広がります。皆誰もが、 一寸見られない情景を見てきたという満足の表情を浮かべています。そして 同様の感想を述べます。
「老後は三島に住みたいねえ。」

 ひとつ残念なことに、このような案内ができますのは、水の豊かな夏場だけなのです。  私が幼少の砌(みぎり)には、こんなことはありませんでした。市制五十周年を迎えるにあたって、 三島の水の歴史を考えますに、 いくつかの時代に区分できるように思えます。

 一九五〇年代は、人々が川とともに生きた時代でした。六〇年代は、高度成長経済とともに、 人々が川から離れてゆく時代でした。 川の汚染も進みはじめた時代でした。七〇年代は、 川の汚染だけでなく、水量の減少、冬期の枯渇という事態まで至りました。人々の 心は川から完全に 離反しました。八〇年代に入って、心ある人々は、心を痛め、これではいけないと立ち上がり はじめました。行政も 動き出しました。瀕死の状態だった川は、環境整備という形で、 また宮さんの川のように、地元泉町の人々のたゆまぬ努力によって、 昔日の美しさを少しずつ 取り戻しつつあります。そして愈々(いよいよ)、源兵衛川も、整備事業が始まりました。 あと五年も経てば、 川辺の風景は、昔日とは異なった形で美しくなることでしょう。そんな未来の 光景を思い描き乍ら、私は川辺の道を歩きます。

 水と緑と文化。これが三島の合言葉であり、標語であります。しかし、と翻って反問します。 これで水と緑と文化のまちと言える でしょうか。いやいや、まだ言えない。私は、自信を持って、 胸を張っては、今はまだ言えません。文化とは、そこに住む人々の心の ありようであり、 生活(暮らしぶり、慣習、習俗等)の目に見えない形であります。立派な文化会館があるから、 図書館があるから、 美術館があるからという理由だけで、三島に「文化」がある、とは言えません。 それらの施設が、市民の生活の一部として、しっかり 溶け込んでいなければ、そこに「文化」がある とは言えません。

 市制を敷いた頃の三島は、まだ私が幼少の頃の三島は、川から水が溢れるほどでした。 生活は水とともにありました。女たちは川で 洗濯をし、子供たちは川で水遊びに興じていました。 そこには、川が生活の中心となった文化がありました。生活のありようが、川の 水抜きには 考えられませんでした。それから数十年を経て、途中、水量の減少や渇水で見棄てられたようだった 川は、今再び甦りつつ あります。けれども、これは昔の文化の復元ではありません。最早、 川で洗濯する光景は見られません。けれども、その光景に代わって、 波光きらめく川面を、 眺めて愉しみ乍ら歩く人の姿があります。人と川との親密な関係は、一度失われました。 そしてそのことによって、 川もまた病むことを人は知りました。川を病ませたのは、 川自身にあるのではなく、そこに住む人々自身にあることを人は知りました。 とうとうと流れる 川の水もまた無限ではない。限りある、かけがえのないタカラだということを、人は 無意識の裡(うち)ではあっても 悟りました。川の水量の低下や枯渇の原因が、富士山麓の 地下水の汲み上げにあることは明瞭ですが、その地下水の汲み上げへの規制等の 対策を、 三島市民がさほど熱心に運動してこなかったのもまた事実です。けれども時代は変わりました。 瀕死の状態にあった川は、 少しずつ恢復しつつあります。それは、おそらく川沿いの環境整備に よって景観が一変したせいもありましょう。美しい水を惹き立てる 周囲の景観。東京から来た 友人たちが「三島に住みたい」と唸ってしまう水の美しさ。しかし、このような清冽な流れ、 美しい景観も、 そこに住む人たちの川を美しく保とうという自覚と協力がなければ、 たちまちにして荒れてしまうでしょう。潤いのある川と、周囲の景観の 潤いがあって、 はじめてそこに三島の標語「水と緑と文化」が生きてきます。そういう意味で、私は楽寿園から 流れ出る宮さんの川の周辺の 人たちの努力こそ、三島の文化だと思います。桜川とは違って、 舗道はアスファルトの味気ないものです。けれども、川を愛する人たちの 潔い心が、 歩く度に感じられます。文化とはモノで測るのではなく、景観が醸し出す不思議な気配、 雰囲気つまりそこに暮らす人々の心で 測るものだとつくづく感じます。仏を作って魂入れず、 という諺がありますが、宮さんの川には、この諺とは逆の、ボロボロの仏でも 魂入れれば 立派な仏として生きてくることを証明していると思います。さて、では桜川はどうなのだ? とお叱りを受けるかもしれません。 桜川は立派に整備されました。見ていて心が潤い、 ゆったりと歩くようになります。早く歩くのは勿体無い。桜川の場合は、仏も作って 魂も入れた好例だと思います。このような例を見まして、私が思い、願いますことは、 三島のこれからのまちづくりは、この宮さんの川と 桜川の事例とが一体となったもので あって欲しいということです。まつづくりは、ただ行政が環境を整備し、美観を整える だけのことでは 無論ありません。そこに住む人々の内発的な自覚と愛着、行動と協力が あって初めて成功することだと思います。水と緑と文化。三島には、 他の都市にはない、 とんでもないタカラがあるのです。清冽な川です。おいしい水です。これから源兵衛川が 整備され、愈々水と緑は充実 してくるでしょう。けれども、水の問題は思いの外深刻です。 今年は水量が豊富ですが、来年再来年、そして市制百周年を迎える時には どうなっているか 心配です。市制百周年の時の市民たちから、市制五十周年の時の市民が市当局が 頑張ってくれたから、今もって水が豊かに 川を流れていると、感謝されるように努めるのが、 現在を生きている三島市民の責任であり、義務だと思います。そのためには、清水町や 沼津市等とともに、富士山麓の水源林を確保、保全する不断の努力が、先ず市当局に 求められていると思います。その市当局を後押し するために、三島の市民一人一人が、 三島の水を賞で、いとおしみ、水に親しみ、水と戯れるという、水と川を愛する文化を 育てることが 必要だと思います。そのためには、ルールづくりも必要だと思います。 すなわち、川の美しさをずっと保つために、冬期の渇水時でも川が 美しくあるように、 家庭排水、工場排水等は絶対に川に流さないこと、ゴミを川に捨てないこと等々。 こういうルールを守る、自覚ある 市民の行動と努力が、川をいつまでも美しく保ち、 そしてそのことが、先ずもって文化であります。こういう市民の熱意があればこそ、 富士山麓の自治体への要望に対して、そちらの自治体も、何らかの対策を講じなければ ならなくなるでしょう。

 さらに、「三島の文化」を育てるためには、水を愛し賞でるだけでなく、 水をもっとよく知ることも必要となるでしょう。郷土館あるいは 図書館などに、 水の文化のコーナーを作って、水に対する興味を呼び起こし、水への理解を深めさせる ことが必要でしょう。そのことが、 水の大切さを、人々に特に未来を担う子供たちに 教えることになるでしょう。今の子供たちこそ、市制百周年の担い手なのですから。

 水の文化を、水の知識を三島で学ぶ。水の情報を三島で得る。清冽な水の流れと 美しい景観を全国に誇るだけではなく、三島へ来れば、 水のことが全部分かるといった 評価を得ることも、三島のこれからのまちづくりには欠かせない気がします。 水を愛しているのに水のことを 何も知らないのでは「文化」が泣きます。かけがえのない 地球は、また水球でもあるのです。

 まちづくりには、このような恒久的なモノづくりの他に、一時代なモノ、つまり イベントがあります。多くの市民が一度に一堂に会して 連帯感を愉しむことのできる イベントには、現在の三島では、夏祭りとかみどりまつり、歩行者天国などあります。 その多くが、「水と緑と 文化」にはあまり結びつかないというのも事実です。 市民文化会館が出来るのですから、そこで水をテーマにしたシンポジウムや音楽会を 年一回でも催されるのもいいと思います。例えば現代音楽では、武満徹の作品『水の 風景』があります。また、『文芸三島』がありますので、 文芸三島「水」文学大賞 なるものを創設して、その一年に全国で発表された、水に関わる文学作品に対して、 賞金なり賞品を授与する ということも考えられます。受賞作品を『文芸三島』に 転載するということも。賞品は、三島の「水」一杯というのも面白いかた。 受賞者を 三島に招いて川を案内することも。例えば、三島出身の文学者大岡信氏の 新刊は、ズバリ『故郷の水へのメッセージ』です。

 すべては水と文化を中心に立案、企画、催行され、そしてその成果と遺産が、 水に関わる新しい情報として図書館などに残される。あと 五十年も経てば、 相当な財産になるでしょう。三島市の従来の文化活動を、「水」をテーマにした イベントに創り変えることも、また三島 のこれからのまちづくりの一つの方法だと 思います。そのことは、川筋の周辺以外の「私には関係ないわ」という市民にも、 水への共感と 理解を呼び覚ますにちがいありません。

 三島には、他のまちにはない「水」があると自慢するだけではなく、三島は 「水」だけではい、「水」を巡る文化芸術がある、と三島の 市民が誇りと自信を 持つようになることが、また、これからのまちづくりだと思います。

 三島は「水と緑と文化」のまちです。水があっても、緑が乏しくてはオアシスの 周囲の砂漠のようなものです。楽寿園、三嶋大社といった 豊かな緑地はあります。 けれども、そういう場所を離れますと、どうしても緑の乏しいことに気づかれます。 菰池から三嶋大社への道には、 柳をはじめ緑があります。けれども、それから先が ありません。桜川から御殿川、源兵衛川そして宮さんの川へと川巡りをする時、 川筋から 川筋へと渡ってゆく道に緑があれば、何て素晴らしい「公園」になるでしょう。 一筋の道の「公園」です。公園は何も広い敷地が必要な訳では ありません。 三島の市街地にポケットパークさえ作るのは困難でしょう。けれども、川と川を繋ぐ 道に小さな樹木でも植えられていたなら、 道行く人は、ずーっと公園の緑の下を歩む ことと同じ雰囲気を味わうことができます。車道は少し狭くなるでしょう。 一方通行の道路も 増えるでしょう。そのことは、宮さんの川や桜川の沿道のように、 道路が狭いことによって、くる、車と人とがお互いに譲り合うという、 人にやさしい 関係も見えてくることの方が大切なことと思えます。

 「自動車は速く走れない」ことにイライラする状態から、ゆっくりと車を進める という新しいマナーが生れてくるように思えます。また、 そういうマナーを生み出す ことも、これから大切なことでしょう。

 更に進めば、車を下りて歩くのが愉しいまちになるでしょう。北は文教町の銀杏並木 からはじまって、南は温水池まで、南北を縦断する 緑と水の散歩道を歩む。学術教育の場 (銀杏並木通り)、文化芸術の場(市民文化会館)、水と緑の憩いの場(楽寿園、菰池、 白滝公園)、 生涯学習の場(図書館など)水と遊び、散策する場(桜川、御殿川、 源兵衛川、宮さんの川)、そして信仰の場(三嶋大社)、ショッピングの 場(大通り 商店街など)。これらの特色ある場が、歩く楽しみの中で縦横に、有機的に繋がっている。 すなわち、人にやさしいまち。これらの 場が、市民一人一人の心の中に生き生きと 描かれて、初めて「水と緑と文化」のまちが名実とともに出現するでしょう。三島は 十万足らずの 小都市です。五十年後も、さほど大きな都市には、地形的に見ましても ならないでしょう。こじんまりとしたまちとして生きつづけるでしょう。 大都市 東京のような、あらゆる情報が飛び交い、人々が激しく犇き合う街とは違います。 三島は、情緒と風情がゆっくりと息づいている、 情感豊かな都市です。水と緑と 文化が三位一体となった、感性豊かな情感都市こそ三島のこれからのまちづくりの 目標であって欲しいものです。 これから五十年後、今の子供たちが老後を迎える時、 三島に住みたい、三島に住んでよかったといえる、わたしの、そしてみんなの まちづくりを 目指したいものです。

 そうなれば、市制百周年は、三島市民一人一人の暖かい拍手で心から祝われる ことでしょう。

 おしまいに、最近見かけた三島紹介の記事の一部を引用します。

 『「三島・柿田川」  ふだんは通りすぎてしまう伊豆の西の玄関口、三島市は”水の町”。湧水を 造園に取り入れたという「楽寿園」をはじめ、市内のあちこちから 清らかな水が 湧き出している。駅前の東通りからたどった菰池もその一つ。整備されすぎて 野趣に乏しいが、湧水池は水量も豊で、桜川となって 流れ出ている。ここから 川沿いに三嶋大社までのんびり枯れ葉が舞う道は、清流まさに町を洗い、 何気ないものまできれいに見えてしまう。  二百メートルほど南へ下がると、さほど大きくはないが、こんもりとした森に 出る。湧き水に囲まれた白滝公園だ。黄ばんだブナの葉が チラヒラ舞うベンチで 一服すると格別だ。町の中心にある小さな緑地だが、郊外の森を思わせるたたずまい。 小さな泉に手を入れると、ひんやり 疲れを洗い流してくれる。 」』
    『アサヒグラフ』一九九〇年十一月九日号より