《 創造の「書」 「書」の創造 》 越沼正
北一明氏の「書」作品を前にすると、私は常にある種の深い情動に衝き動かされる。何気なく
見ていた視線が、ふと気がつけば作品をじっと見つめている。何かを感じる、その何かを読み取ろうと
凝視している。例えば、「道」という「書」がある。飛白という古い書法を、北氏が一気に進化させた
技法によって成された「書」である。激烈な筆勢と激変する運筆が、紙面一杯に溢れている作品である。
道の筆順を知ってはいても、この「道」の軌跡をなぞることは、私には殆ど不可能に近い。けれども、
私はその一瞬裡に紙上を疾駆していった筆の痕跡を、必死に辿る。北氏の芸術思想の一精華であるこの
「道」を、非才ではあるけれどもこの手で理解しようと、ある種の深い情動に衝き動かされて、私は。
私の視線は、水墨の濃淡強弱緩急飛沫を、一つ一つたどたどしく辿る。或る時は立ち止まって沈思、
また引き返して黙考、寄り道をして熟考回り道をして思案投げ首のつまらぬ道草を繰り返す。吐息と
感嘆符を一緒に吐き出し、精気を吸い込み、気を引き締めて「道」へ立ち向かう。「道」全体の構図を
右眼に収め、左の眼で部分部分の筆の沈潜、筆の勢力、筆の跳躍、筆の飛流を追ってゆく。そして第三
の眼、心眼で双方を両睨みする。
ずしんと紙面深く沈みこむ墨。ぐいっと紙面を突き破るかの筆圧。どしんと深く実存の淵に沈んだ
筆は、一瞬の後、一気に天空へ飛揚し、はたと地上へ舞い降りる。寸暇を入れずに筆は地を駆け、空を
飛翔し、地を抉り、地に突き刺さり、天地を貫くが如くに飛騰する。飛天堕天、天界下界、天上天下
乾坤一擲一筆一気呵成一瞬裡に「道」は在る。
この書「道」が私に惹き起こす深い情動の理由を、残念乍ら私には未だ言葉にし得ない。けれども、
こうは言える。この「道」を書くという創造行為の基盤を成す氏の芸術思想の深みと、この「道」に
到った作家の人生の厚みが、私に深い感銘を与える、と。
「書」は知情意の鋭くも鮮やかな美の統一体である。すぐれた「書」には、成形の美、構成の美に
加えて一回性の、精神の運動美が見事に表現されている。その美は、書道練達の心技体に、作家の美
意識が折り込まれ、織り上げられて、一本の筆から紙上に描き出されたものである。その「書」が
今日の芸術として有効であるためには、既成の美とは異なる美、または先達を超えた美が、先ず実現
されていなければならない。
作家が芸術としての「書」を創造しようとする時、その達意の技を前提に、二つの課題がその人に
対して課せられる。ひとつは対象の文字、例えば「道」に対するその人の認識の深さである。もう
ひとつは、筆によって「書」を成すという表現行為への認識の深さである。この二つの認識を基本に、
作家の芸術思想が形成され、「書」が創造される。その芸術思想の深さは、他ならぬ「書」そのもの
によって明らかにされる。
作家が、例えば「道」を芸術として表現する時、その人は先ず「道」を根源的に認識する。作家は、
「道」が永い間負ってきた意味の歴史的条件を認識する。同時に、自らにとっての「道」の意味をも
深く認識する。その二つの認識は作家の内部で並立し、また離反しつつ、やがて統合され、ひとつの
芸術思想へと練り上げられてゆく。そして、それは「道」の表現へと具体化されてゆく。その表現の
過程で、「道」はその本質によって「道」でありつつ、既成の「道」から外れ、作家による新たなる
未知の「道」へと踏み出してゆく。さらには、創造美の世界へ大きく逸脱してゆく。
それに並行して、作家は「道」を徹底的に分析する。実体として「道」を成立させている墨、紙
そして筆という三位一体の相関関係を、作家は逐一詳細に検証する。「道」表現における筆の種類、
紙の質そして墨の粒子の細かさと水との馴染み具合等が、科学的精神に基づいて実証的に検証される。
「道」は、墨蹟の一粒子の単位まで分解され、解析される。それだけでなく、その本質を失う無
意味の境界線上にまで還元される。そこでは、「道」はその文字の本質によってのみ、かろうじて
「道」であり得ている。
その実体と歴史的構造の桎梏を徹底的に解体された「道」は、作家の芸術思想に従って再構成
再構築される。「道」は全く新たな表現構造をもった「道」へ創造される。
その創造の現場には、研究資料である「書」が山積みされている。それは門外漢には、書道の
練習に使われた夥しい反故紙の山と映る。けれども、その反故紙の頂点に「書」の芸術表現が創造
され、芸術としての「書」が成立するのである。
漢字は他の文字、仮名やアルファベットとは異なって、漢字一字で意味を持っている。漢字が成立
して三千年余、その意味伝達機能の充実の他に、字体の様式美も時代毎に連綿と追求されてきた。
楷書行書草書篆書隷書章草飛白……。それぞれの様式美に加えて、歴代書家の奔る個性美が妍を競い、
雄渾豪放から繊細優美に至るまで、百花繚乱千変万化の名筆が今に遺されて、私たちの眼を愉しま
せてくれる。また、今世紀半ばに前衛書が興隆し、さらに賑やかではあるが、畢竟名筆名蹟には何
れの書法にも拘わらず、その書家の哲学と人生が如実に反映している、と言える。
たのしい字うれしい字よろこばしい字があり、深刻な字深遠なる字幽遠な字がある。さらには、
歴史を貫く認識の字、すなわち「書」の歴史に新たな展開を予兆させる字、もしくは転回点となる
創造美の字がある。あるいは、ある筈である。今や究め尽くされたかに見える「書」の世界では
ある。画期的な「書」作品を実現させるためには、作家は改めて自らの「書」の根源を深く問い
直し、追求し、自らの芸術思想を確立することが先ず必須であろう。
「書」の根源を見極めることは、必然的に遙かなる古代文字の成立の現場へ行き着く。そこは
象形文字という、漢字の歴史の誕生の場である。そこは、自然界の有象無象の脅威を前に、それに
敢然と立ち向かう人間の認識の武器として、無から有(文字)を創出させようと試る人間の、熱い
意思の壮大なる現場でもある。その現場を自らの手で再検証再確認した者によってのみ、「書」の
新たなる歴史の創造が成されるのではなかろうか。あるいは歴史創造の大いなる要因であろう。
二十世紀末の今日、溢れる言葉を一旦無に帰すことは、実に困難なことではあるけれども、
既成の言葉では最早表現し尽せぬ、言葉もない事件の連続が、この二十世紀なのである。今こそ
新たなる無から新たなる有の創出が求められている。その有からのみ、二十一世紀へ繋がる新しい
世界像が生まれ、新しい歴史が刻まれてゆく。
北一明氏の「書」作品には、観る者に「書」という表現行為をその根源から再考させる、甚深な
遡源力が漲っている。楷書から草書に至るまで、筆を能(よ)くする氏であるが、その能才を敢え
て閉じ、氏は筆一本に自らの人生体験と思想哲学を凝縮させて「書」を成す。既成の筆法を総て
修めた筆は、氏の生命の燃焼力と精神の噴出力に支えられ、一幅の紙上に「書」を成す。その作品
は、「書」の全世界を視野に納める遠近法の一焦点と成る。世界は一つの焦点のもとに眺望される。
「道」は一本の地平の上に作られる。そして、歴史が始まる。
1993年7月