1970年代前半、坂東壮一は、遠い記憶に埋もれている「失われた楽園」を
隠れた主題にして、いくつもの銅版画を制作しました。遠い日、遥かな国の
情景を、細い記憶の糸をたぐり寄せるように、ひとつひとつ丁寧に描いて
ゆきました。その一点がこの作品です。
少女と思しき人物(?)が海の底をゆったりと遊歩しています。足は海底
に生きるものらしく先細りしています。肩には腕ではなくて大きな貝が上向き
に付いています。少女を囲んで、海底の奇妙な生きものたちが、温かく見守って
います。これはボッティチェリの名作「ヴィーナスの誕生」の遠いこだまと
言えます。海底のヴィーナスは、海上のヴィーナスの行方に耳を澄ましている
ようです。作者がそこまで意識していたかは不明ですが、画家の記憶の底に
静かに眠っている歴史的な美の残像が、新しいかたちで転生することは、美術史
でよく見られることです。