味戸ケイコ絵画について

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味戸ケイコ

 萩原朔太郎が「月に吠える」の序に
『私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。』
 と述べていますが、詩と書かれてある箇所を絵あるいは絵本と置き換えれば、私の絵を描く心や絵本観といったものになると思います。



椹木野衣(さわらぎ・のい)

現代美術評論家

「味戸ケイコの絵はほんとうに生命の傍らで描かれている。」

「この世界で人がありうる媒体として鉛筆しか与えられていないとき、彼の人はどう線を引き、陰影を描き、光を、闇を 写し取るのかという、ある意味では生命現象が絵を描く、というような次元であつかわれている。」

「さまざまなメディアの拡張を遂げてきたアートの進歩性とは逆に、ふるえる手の転び方では死とも生とも受け取れる両 義の絵を彼女は残すのだ。」

「美術手帖」2009年2月号より





やなせ・たかし

『詩とメルヘン』編集長

 味戸さんは光の画家だ。薄明の中に漂うかすかな光に北国の少女の瞳であこがれる。

 「粉雪が描ける。影の中の光が描ける。稀有の詩的感覚。」

 味戸ケイコは北方の画家である。函館の海を見て育った。しめり気のない粉雪がサラサラと風に舞いながら暗い海に散る。
 ぼくが『詩とメルヘン』を創刊した時、何とか詩的感性のある画家に描いてほしいと探している時、味戸ケイコにめぐり逢えたのは幸運だった。
 ぼくは迷わず創設したばかりのサンリオ美術賞の第一回受賞者に彼女を選んだ。
 多摩美在学中はあまり絵の成績はよくなかったようだ。デッサンから入るというような画家ではなく、むしろ感性で描く画家だ。
 初期の頃のおびえがちな少女の眼をぼくは今も忘れることが出来ない。それは光を描く為に影を描いて、闇の中で人生の淋しさを見つめているように思えた。
 予期しなかった新しいタイプの抒情画家が生まれたことを実感してうれしかった。けたたましい時代に静寂を描くことの出来るほとんど唯一の画家だ。

「よみがえれ!抒情画 美少女の伝説」サンリオ 1986年より






安房直子

童話作家

 味戸ケイコさんの絵の中の少女に、私は、いつかたしかに出会った事があると思う。絵の中の少女は、風に吹かれて、花を摘んだり鳥を抱いたりしている。私は、たしかな手ざわりを感じる。花の匂いも、鳥のはばたきも、ふしぎなほど鮮やかにリアルに伝わって来て、見るたびに私は、はっとする。

「あじさいの少女」味戸ケイコ 径書房 1985年 栞より






『魔の非時(ときじく)』


K美術館館長 越沼正

 味戸ケイコさんの絵は、見る人に濃密な情感を喚起させる。彼女の絵は見る人に、その絵に描き込まれた濃密な情感を、
自らの失ってしまった過去のように想起させてしまう。それは甘美な懐かしさではなく、いつしか見失っていた心の深い
感情の不意の出現としてまず受止められる。それは、子守唄や童謡が喚起する懐旧の情や郷愁、ノスタルジーとは似て非
なるものである。子守唄や童謡は、確固たる計測のもとで組み立てられている。彼女の絵は、そのような計測から外れた
絵である。

 彼女の絵は、絵画鑑賞における一般的な尺度では測り得ないほどの情感の強度と深さを湛えている。どんな画家の絵にも、
なにがしかの情感や理知が描き込まれている。分かりやすい例では、抒情画やイラストの分野の絵を見れば、どの絵もいく
ばくかの哀しみや哀愁といった情感を感じさせる。それは画家にとって理知的に計測されたほどよい情感の量である。味戸
ケイコは、不器用な画家である。だから、そのような理知的な計測が全くできない。彼女は自らの心の揺れるままに、心を
込めてただひたすらに描く。誠実に真面目に描けば描くほど、そこにはプロの抒情画家たちがあきれてしまうほどに情感の
不用意な強度と深度が表れる。一枚の絵の中に、その情感の強度深浅がまだら模様になって描き込まれている。絵のプロか
らすれば制御の効かない、情感のまとまりに欠けた絵とみなされる。けれども、描き込まれてしまったその情感の不安定な
揺れ、ゆらぎこそが、現実の感情のリアルな投影である。それは彼女しか描き得ない故に、味戸ケイコの絵の魅力の本質と
なっている。彼女の絵は、その情感の理知的計測を外れたまだら模様故に特定の人を惹き付ける。自らの感情の動きの実態
を直視している人は、彼女の絵を直感的に理解し、不思議な共感を覚える。あるいは、突然不安に陥るような怖さを感じる。
そのような鋭敏な人は、自らの感情に不思議な動きや歪み、不連続のあることを知っている。簡単な例では一目惚れがある。
突然のそれには理由がない。不意に起こる心の動揺。そのような歪みを、殆どの人は大人になるまでに制御するか、押さえ
込むようになっている。制御された心の僅かな隙間に潜む不連続な歪み。彼女の絵ではそんな感情の不連続な歪みが、丸裸
になった子供のように解放されてしまっている。正常な時間に出現してしまった非時(ときじく)の絵画。それは魔の時間
であり、制御を逸脱した解放への道でもある。その先に何があるのかは、鑑賞者の資質しだいであろう。深い共感、あるい
は反発または無視。

 味戸ケイコさんは自らの心に素直に、そしてリアルに絵を描いている。それ故、その絵は理知のしもべではない無垢の美
しさに満ちている。無垢なるが故に危険な魅力を湛えているのである。



味戸ケイコさんの絵については、詩人吉原幸子「味戸ケイコ試論 失われた顔・・・又は時間の投影・・・」アート・トップ30 号(1975年 芸術新聞社)がおそらく最初の論にして力作。他に童話作家の立原えりか、作家の落合恵子、女優の岸田今日子たちが、エッセイを発表している。



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