幸福の音色
駅馬 如
心の深層に緩やかに響く音がある。柔らかく、どこまでも優しいそれが、こうして彼の内部(なか)で響いていることは、いつの頃からか彼の日常とも言えるものになっている。 一体いつからのものであるのかなど、考えてみる気も起きない。―――否、それ程に既に身近に感じていたのかもしれない。 『―――……』 《それ》が、一体何処から届くものであるのかなど、彼は知らない。或いは、彼にとってはそんなことはどうでも良いのかもしれない。 『……ちゃん、―――……』 彼にとって重要なのは、その存在ではなく―――それが彼の心へと齎(もたら)す《もの》なのだ。 深く、どこまでも深く染み入る声(それ)。 『ずっと、……だよ―――ちゃん……』 繰り返し響くそれは、彼の中で次第に存在感を増していく。 それがいつしか、抗(あらが)い難(がた)い程の力で彼を縛るのだ。圧倒的な存在感をもって、彼に目を逸らすことすら許してはくれない。 《それ》が一体誰のものであるのか、その正体を知らぬ筈がないからこそ―――尚更に聞き捨て置くことができないのだ。 それは、彼にとって唯一のもの。彼にとって唯(ただ)一人、意味を持つ存在(もの)の声―――。 だが、それが何を意味する言葉(もの)であるのかを知っている彼は、容易く目を逸らすことなどできはしないのだ。 ……そうして、彼は今日も囚われていく―――。
爽やかな風が、微かに開けられた窓から静かに入り、僅かに乱れた前髪を撫でていく。自身の頬を掠めるその感触に、跡部はそっと瞳を開ける。 「…………」 実質的な時間で表現するならば、昨夜から数瞬前までの充分である筈の睡眠時間も、彼に安息を与えてはくれない。身体的な疲労だけではない《何か》が、彼に実際以上の疲労を感じさせるのだ。 幾分か気だるいものを感じながらも、彼は上体を起こすと、立てた片膝の上で肘をつき、前髪をかき上げる。 ……この、自身を確実に苛(さいな)む感情(もの)が一体《何》であるのかなど、彼には解っている。それは、いつの頃からなのかすら解らぬ程の長い間、絶えることなく彼を蝕(むしば)んでいる《もの》。解放の兆(きざ)しすら見えず、彼は囚われ続けているのだ。 「……くそっ」 忌々しげに吐き出されるそれに、だが彼の心は晴れることはない。跡部にとって、その理由など、最早考えるまでもないのだ。 そこまで思い至った途端、不意に意識内を過(よ)ぎった面影(おもかげ)に、小さく舌打ちを漏らす。そして、まるでそれを振り切るかの様に頭部を振ると、ベッドの傍らに無造作に置かれた携帯電話が彼の視界に映る。それを手に取り、何気なく―――何の深意もなくディスプレイに目をやった彼は、次の瞬間、僅かに瞳(め)を瞠(みは)った。 「―――もういい加減にしてくれ……」 否定し様のない、だが確かに目にしたそれは―――見慣れた名前。表示されているその着信履歴に、言い様のない感情(もの)が沸き起こり、跡部は再度、舌打ちする。 交友関係が決して狭くはない彼の、その範囲の広さを表しているかの様に多い着信履歴の中で、普段であれば何ら変哲もない筈の《それ》が、この時は一際(ひときわ)彼の意識を奪っていく。 ……解放して欲しいと思う。自身を苛(さいな)むこの感情から―――そして、確実に存在する《もうひとつの感情》からも、彼は離れたかった。だが、まるでそれすらも許さないとでも言いたげに、《それ》は彼の中で存在感を増していくのだ。 「―――……」 決して小さくはない溜息をつくと、そっと立ち上がり、徐(おもむろ)に手から携帯電話を離す。数瞬前まで身を沈めていたベッドから離れ、足を進めると、決して狭くはない室内の中ほどに位置している洗面台へと身を屈(かが)める。 等身大の鏡台に映る自身の姿が目に入り、彼は知らず眉を寄せる。 ……これが本当にあの跡部景吾なのか? 真実以外の何物をも映すことのない筈の鏡の前で、馬鹿げた自問自答が脳裏を巡る。常の彼をよく知る者――凡(おおよ)そは氷帝学園の生徒達であろうが――がこの姿を目にしたならば、恐らくは、跡部自身のそれと何ら異なることのない感想を漏らしたに違いないであろう。 「……くだらねぇ」 再度形の整った眉を寄せると、自身のその考えを吐き捨てる。 そう、これはとるに足らない事実だ。 自身の内部(なか)のどこか冷静な部分が、それは違うのだと―――否定し様のないこれが現実なのだと、そう告げていることに気づいてはいたが、がだ彼はそれを無視した。 再びの舌打ちと共にそう吐き捨てると、跡部は幾分か乱れたパジャマの釦(ボタン)を外していく。それが3つ目に差し掛かった時、ふと、自分以外の人の気配を室外に感じ取り、言葉もなく振り返る。 とんとん、と。彼の視界の先で、微かではあるが確かな音と共に扉が叩かれる。それを、ちらり、と視線のみで見遣った後(のち)、彼は秀麗な眉を微かに寄せる。 ……今この瞬間、扉の向こうに立っているのであろう人物が一体誰であるのかなど、彼にとって予想するに容易いことではあったが、徐(おもむろ)に口を開くと、誰何の声をかける。 それは、突然の来訪者がされであるのかを確かめようと思った故の行動ではない。自身の予想が真実とは異なっていて欲しいのだと、そう望んでのものなのかもしれない―――彼はふと、そんなことを思う。 「……僕だよ」 かちり、と。小さな音と共に僅かに開かれた扉から、馴染みの見知った顔が覗く。おきてる? と、覗き込む、その余りにも見慣れた表情を見遣った途端、微かな苦い笑みが自身の端正な顔を彩(いろど)ったことに、跡部は気づいてはいない。 果たして、それは、自身の予想が違えなかったことに対する自嘲の笑みであったのだろうか? その是非は、彼には解り得ないのだ。 「……起きてるに決まってんだろーが。お前と一緒にすんな」 僅かに心中に存在する感情を表すことなく、どこか揶揄(やゆ)するかの様な笑みすら浮かべてそう口にする幼馴染に、不二は形の良い眉を微かに上げる。 「それ、どーいう意味? 僕は別に寝坊なんてしてないけど?」 「今日に限っては、だろ」 跡部のその台詞に、不二は白い頬を膨らませる。幾分か視線を泳がせ、反論を試みるが、数瞬の後(のち)、口を噤(つぐ)む。 ……彼の言葉通り、確かに普段、早朝の起床を苦手としているのは不二の方なのだ。その為、不二にとっては反論の余地はない。 常ならば、通学時間になると跡部が幼馴染の家へと出向き――当然ながら自宅の送迎車であるが――不二へと起床を促し、そして共に通学する、という形になるのだ。当然ながら、異なる学校へと通う二人であるため、途中から行き先は別たれるのではあるが、それでも、これまで繰り返されてきたその習慣の中で、こうして、不二が跡部より早く起床し迎えに足を向けることなど、考えられないことではある。 ……それが彼らの日常。常と同様に、そして今後も、何ら変わることなく続いていく筈の日常―――その筈であった。 それが壊れ始めたのは……一体いつの頃からであろうか。 中途半端に脱ぎかけたパジャマの釦に、触れるとはなしに触れながら、跡部はふと、そんなことを思う。僅かな距離を隔てた扉の前では、彼の幼馴染が、自分に対して楽しそうに談笑しているのが瞳(め)に映る。先程までの小さな憤慨――恐らくは不二にとってはそうなのであろう――に確かに膨れていた頬は、今では楽しげに笑みを描(えが)いている。 「―――……」 掛けられる言葉も耳に入れながら、だが、知らず思考は別の方向へと向いていた。跡部は、そうと解らぬ程度に小さく息をつく。 ……縺(もつ)れた平行線は、いつの日にか決して解(ほぐ)れることのない程に絡み合い、その身を複雑にしている。そうなった―――否、そうしてしまった《原因》が一体何であるかなど、考えるまでもなく彼には解っているのだ。 「大体、景……跡部がまだそんな格好してるのが悪いんだよ。ほら、早く着替えてよ」 そう言いながら、不二――この時の跡部にとっては、招かれざる客以外の何者でもなかった――は手を伸ばす。ほら脱いで、と、声をかけつつ彼のパジャマへと手を触れた彼は、次の瞬間、確かな音を立てて離された自身のそれへと、呆然と目を向ける。 「……あ……」 自身の発した小さな呟きを、不二はどこか他人事のように聞く。常の彼らしくなく、幾分か呆然とした表情すら、無意識のものだったのであろう。 そのまま二人、何を口にすることすらなく、ただ時だけが過ぎていく。 ……この沈黙の持つ意味とは、一体何なのだろうか。不二には解り得ない。彼にとって解ることは、ただ《彼の手を跡部が振り払った》という事実だけである。 「ご・ごめんね、いきなり触っちゃって……」 びっくりしたよね、と。自身の右手をもう一方の手で握り締めながら小さな声でそう言う彼の表情に、跡部は僅かに眉を寄せる。 今、自身の胸中で渦巻いている感情の波を―――その感情(もの)の名を、他人(ひと)に説明することなどできる筈もない。ましてや、目の前で微かに俯く少年が、それらと無関係である筈もないというのに―――。 「じゃぁ、僕、先に行ってるね……っ」 何かを口にすることすらなくただその場に佇んでいる跡部に、何を思ったのであろうか、不二は僅かに慌てた風体で跡部に背を向ける。そして、後から続くぱたぱたという音が、二人の距離を確実に離していく。 「……っ……」 立ち去る寸前に見せた藤の表情が脳裏を過(よ)ぎり、跡部は思わず域を詰める。 ……違う。そんな表情(かお)をさせたかった訳じゃない。彼の最も見たいと願っているのは、そんな表情ではないのだ。何よりも―――誰よりも、不二の笑顔を見たいと、誰よりも側でもっと見ていたのだと、そう願っているというのに……自身の行動は、それとは正反対の結果を齎(もたら)していく。 「……くそっ」 彼は小さく吐き捨てる。一体何がしたいのか、自身の心が解らない。解らないからこそ、余計に苛つくのだ。 それ以上の言葉を口にすることなく、彼はそっと前髪をかき上げる。 自身の心の深層に在(あ)る真実を否定するかの様な行動を敢えてとってしまう自分自身を、酷く歯痒く感じると共に、これで良いのだと―――彼ら二人にとって最善の行動(もの)なのだと、どこかでそう感じている自身がいることに、この時、跡部は気づいていた……。
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to be continued...
● コメントと言う名の言い訳 ● |
「……え、こんなトコで終わり!?」という、読んで下さった皆様の声が聞こえるようです……ううう(汗)。中途半端な切り方でごめんなさいぃ、ここが一番歯切れ(って何)が良いんですぅ〜(涙目)。ご・ごめんなさい、まだ続きます〜……(死)。 ――はい、ここまで読んで下さり、ありがとうございます(仕切り直し)。駅馬・初のテニプリ小説です。 実はですね、この話は、数年前に駅馬が趣味的に書いていたものを、加筆修正したものなんです。あの時は、世の中(同人界)のテニプリブームに、駅馬らしくもなく流されてしまったものです(遠い目)。でも、不二受ってところが、またメジャーになりきれてないあたり、ある意味、駅馬らしいと言うか何と言うか……(何だ)。しかも、跡部×不二。またマイナーかい(笑)。 だってー、《神様・仏様・跡部様》とまで呼ばれた(かどうかは知らないけど)跡部が、あの天上天下唯我独尊な跡部が、唯一、自分を曲げてでも愛してちゃったのが、あの不二子ちゃんなんですよ!(その自信はどこから) ちなみに。この話、不二受界では通例となりつつある(?)《跡部&不二(&佐伯)幼馴染説》を、ばっちり頂いた設定です。駅馬、この設定大好きです!!! なので、跡部と不二と佐伯は、幼稚園のころからの幼馴染なんですよ。ああ、その頃の不二は、さぞ可愛かろうv(ドリーム) 勿論、今の不二も可愛いですけども! きっと、跡部も佐伯も、その頃から不二にめろめろ(死語)だったに違いない! きゃはv(大丈夫かアンタ)
それにしても。何だかかなりぐちゃぐちゃしてますよね、この展開……(汗)。でもでも、当然のことながら(?)、HAPPY END以外の何物でもないので、ご安心を☆ 駅馬的には、好きなキャラが不幸で終わるなんて、天地がひっくり返る以上に有り得ないことなので(笑)。常に、《受が皆に愛されて幸せ》がモットー。ただし、贔屓キャラのみですが(笑)。この場合、つまりは不二ですよね〜☆
……ええと。今はまだ(と言うか前篇は)、跡部と不二の二人しか出てきませんが、前ページのタイトルの下にも書いてあった通り、この話は実に《他→不二》要素もいっぱいですので、今後は他のキャラも出てきますですよ☆ 正に、《皆不二が好き》(笑)。でも、あくまでもメインは跡不二(笑)。 さてさて、天下の跡部様は、どうやって不二子ちゃんとの関係修復を図るのでしょうか!?(いや、これそんな話ちゃうから……)
何で背景がバラ? それはですね(自問自答かよ)、別に深い意味はないんですが(ヲイ)、強いて言うなら、跡部さまはバラがよくお似合いになると思ったから……でしょうか?(聞くな) でもでも、駅馬が一番好きなのは、跡部ではなく不二なんだけども(笑)。勿論、跡部さまも大好きですが、一番は不二ですv
この話のご意見・ご感想を、是非是非お聞かせ下さいませ☆ トップのメルフォ、またはBBS等でお待ちしてます☆ 一言でも構いませんので、是非! ではでは、《幸福の音色/中篇》でお逢いしましょう♪(後編と言わないとこが既に終わってる…/死)
H17.10.16 駅馬如 拝 H18.1.15改(行間・加筆修正etc)
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