2006年10月21日追加
2006年12月27日大幅追加加筆
2012年11月24日少々修正
de JR2AVW
アマチュア無線のプロファイル
未年生まれ。
ちょっとアブナイ、プロファイル部を追加修正です。(2012年11月24日)
小学4年のときに祖父にもらった漫画を買うお金でマンガ本を買わず、
なにげなく「模型とラジオ」を買ってしまったのが、直接的なきっかけで、
電子工作の世界を知る。同時にタイガーロケッティなるものを知り、バルサ材でロケットを作って
遊びまくる。ロケットの固形燃料(当時200円だった)を買うために200円を握りしめて
三島市から沼津市まで往復20キロ、歩いて模型屋に行ったりした。バス代がないからだ。
そのうち模型ロケットの推力のものたりなさを感じ始め、
とうとう近所の(三島大社前にあったが数年前にやめてしまった)薬局の薬剤師の美人のおねえさんに、
「結晶の実験をします」などとだまくらかして「硝酸カリウム」を購入し、黒色火薬を作ってしまった。
家の風呂は、当時「五右衛門風呂」で炭はごろごろしていたし、硫黄(いおう)は学研の科学の付録に
ついていたので、それらを別々にすりつぶして、最後に調合した。
導火線は硝酸カリウムの水溶液を熱して、飽和状態にしたあと、紙ひもを浸けて、自然に冷えるのを待つ。
すると紙ひもに硝酸カリウムの結晶が万遍なくできるので、あとは取り出して乾燥させる。
これで酸化剤入りの導火線の完成である。
一応「結晶の実験」と言えなくもない。かな?
1度火を点ければ、あとは空気がなくても燃焼していくのでロケットの点火に最適だった。
花火のようなものにするには、アルミをやすりで削り、アルミ粉を黒色火薬に少量まぜてやる。
すると炎はオレンジ色からやや黄色に近い白っぽい炎が観測できる。
もっと白っぽい色にするにはマグネシウムが良いが小学生には手に入らなかった。
細マジックインキのアルミ筒に黒色火薬を詰め、導火線を差し込んで、燃焼実験をやると、
なんとアルミケースは一緒に燃えて熔けてしまった。タイガーロケッティのようにはいかない。
火薬を扱うには火薬取扱者の資格が必要なのを知って、参考書を買って来て勉強した。
問題そのものは、小学生にも受かりそうな資格だが、最後に受験資格を見ると「16才以上」
と書いてあり、受験をあきらめた。その後は火薬は作っていない。
今思えば、とんでもない危険なことをやっていた小学生であった。
真似されて、事故に遭うと大変です。だからあえて、混合比などは書きません。
良い子の小中高校生の皆さんは間違っても真似してはいけません。
それに、今は印鑑持って行っても、小学生には売ってくれません。
今はちゃんと模型ロケットなるものが存在し、ライセンスを取ってから、安全に始められます。
それでは、ちょっとは真似をして良い方を書きましょう。
やはり最初は鉱石ラジオでした。これも学研の科学の付録の鉱石標本セットから抜き出して、
鉱石ラジオを作りましたが、どうも感度が悪いので、コンデンサ(偶然小容量で助かった)をAC
のレセプタクル(コンセント)に差し込んだら聞こえるようになりました。
ゲルマニウムダイオードに換えたら、音量が一気に大きくなりました。
ちょうど、現在の「大人の科学」の「鉱石ラジオ」と同じです。
これも今思えば、コンデンサの容量が大きかったら感電していたかも知れません。
Xc=1/(j*2*Pi*50*C)ですから。(三島市は東京電力で、50Hzです。)
次に作ったのが、電子メトロノームで、これはボリュームでポッポッという発振音の周期を
変えられるもので、ブック型ケースに収めて、学校に持って行き、担任の先生におほめの言葉を
戴きました。(雨だれ音にも聞こえるが、2SB56とスピーカーを使ったもの。)
5年生になると、元電気屋の叔父に、エレキットや5石スーパーラジオキットとテスターなどを
初めて連れてってもらって行った、秋葉原で買ってもらいました。
その叔父はテレビのキットを買って、組み立て、自分で見てました。
エレキットは電子ブロックと違い、自分で配線するため、個々の部品の働きが良く解るように
なります。だいぶ勉強になり、スーパーキットの組み立ての基礎になりました。
中学1年でSWLを始める。JARL準会員となりSWL No. JA2-4137
JARL NEWSはタブロイドの新聞形式だった。
この頃は、ワイヤレスマイクを頻繁に作る。(トランジスタ式、真空管式両方とも)
中学校の理科の課題には楽をして断線報知器を作って提出する。それでも理科室に展示されてた。
この時期講習会が近くの大学(日大三島)であり、同級生多数が受講合格、
JA2R*なんとかが、圧倒的に多い。
私は受けずにSWL(まだ7MHzのAMの局も少しいた)を続ける。
日大の文化祭には良く行き、よくCQ誌をもらって帰ってきた。
1971年自分の通う高校で講習会があるが、それも受けず、やはり同級生は多数合格。
コールサインはJH2O*なんとかが圧倒的に多い。
1972年8月富士宮北高でやっと講習会受講、当時受講費用3000円だった。
晴れて電話級アマチュア無線技士(現4級)となる。
しかし開局せず高校のクラブ局でワッチ(聴取)修行。
同期はJH2T*なんとかが圧倒的に多い。講習会に通いながら電車の中で欧文モールスを覚える。
東海道線と身延線の乗り換えがあり、結構大変だった。
修了試験は工学、法規10問ずつで全て筆記試験で、無事合格。
並行して電信級(現3級)と第2級アマチュア無線技士国家試験受験申請。
1972年10月どちらも受験。電信級は合格、2級は送信試験で失敗し不合格の通知。
1973年1月免許証到着、電信級アマチュア無線技士となる。
八重洲無線の受信機(真空管です)FR−50Bを入手。
今もFR−50Bは欲しい受信機です。
VFOをDDSに換えて使ってみたいです。
高校のクラブ局で7MHz、21MHzで電信(CW)デビュー。
同じ敷地内で先生方とCWのQSO(交信)することもたびたびある。
先生は職員室から自分の無線機で個人コール、こちらは部室からクラブコールなので
私であることがすぐばれてしまう。
先生(講習会の講師もしていた)とのQSOで大分CWのコツを掴む。
21MHzでヨーロッパやUS、7MHzで南米方面と良くQSO。
トリオのTS−510だったか?もちろん10ワット機です。
(顧問の先生が1アマなのでひと通りの免許があり、
アマチュアTVの免許もされてた。でも先生の免許は10ワットだった。)
7MHzはダイポール、21MHzは部費で買ってもらった大型ローテーター付きの
3エレメントの八木・宇田トライバンダーだった。
ロケーションは最高でどのバンドも10ワットで良く飛んだ。
開局は1973年3月頃?だと思う...
個人局の初QSOは別ページにも書いたが、7MHzの電信。
そのため7MHzの電信には今も思い入れがある。
160メーター・ハンドブックを買い研究。
当時開放されたばかりのトップバンドといわれる、160mバンドももちろん免許をもらう。
トップバンド1.9MHzに3.5MHzダイポール同軸ショートのT型アンテナで出る。
たぶん?私は三島市で最初にトップバンドに出たようだ。
バンド幅が狭いのに、沼津市のローカル局(元船舶通信士)に呼ばれ、1st三島だと言われ、
それ以後ちょくちょく、その局とトップバンドで和文ラグチューする。
ラグチューが終わるといきなり5〜6局に呼ばれる毎夜だった。
今思えば、長い時間占有してしまい、御免なさい。(今頃言っても遅いが)
1973年4月に第2級アマチュア無線技士受験。
2度目の受験で合格通知をもらう。
免許証到着で、第2級アマチュア無線技士となる。
免許証の番号はひと桁だった(縁起の良い数字です)。
高校のクラブ局でも14MHzのCWに出始める。
毎夏のフィールドデイコンテストに毎回伊豆の達磨山から参加する。(私はCW担当)
夏休みの登校日にぶつかっても、出席扱いになる。
ある夏は風邪を引いて、熱が出たまま参加したキャンプのときもあったが、
折悪しく、その日は台風が近づき、大雨!
テントの中まで濡れていたが、私だけぐっすり寝込んでいた。
翌朝は快晴で気が付いた時は、熱も引き、なぜか風邪が治っていた。
朝、他の仲間に聞くと、夜中に増水し、食器類が流されて、取りに行ったり、捜したりで、
ほとんど全員が寝られなかったらしい。寝袋も当然濡れている。
もちろん、私も濡れていたが、逆療法で直ってしまったのか、未だに不明である。
まあ、私も濡れたのによく夜中に目が覚めなかったものだ。
皆はてんてこ舞いで大変だった(らしいHi)。
またも開局申請、同年現在のコールサインJR2AVWを戴く。
JH2なんとかの免許状返納及び廃止届けを当時の東海電波管理局に提出。
晴れて14MHzにデビュー。14MHzの初QSOは以外にも電話(SSB)でJT(モンゴル)。
国内QSOはほとんど聞こえませんでした。
翌1974年10月に第1級アマチュア無線技士受験。
実は9月に受験した、第3級無線通信士の本試験(現第3級総合無線通信士)の滑り止めの受験です。
(結果的には合格してたので必要ありませんでしたが。今はこの免除はなくなりました。)
当時はこの受験パターンは無線通信科では普通にみんなやってました。
当日の試験会場が上野の専門学校なので、近くに数日間泊まることに決め、
同級生の叔父さんのお宅に泊めて頂いた。(上野公園の中にある国立西洋美術館員の官舎です。)
無線通信科にいるため、特に受験勉強はしなかったので、前日に上野公園のベンチに腰掛けて、
問題集にざっと目を通して1アマの勉強は終わりにしてしまいました。
官舎に戻ると同級生と、そのいとこ二人兄妹でトランプの貧民ゲームをやって遊んでしまいました!
このときの試験のとんでもないハプニングは別ページ(無線従事者と国家試験)に書いてあります。
今度は1度で合格通知を戴きました。
1975年1月に免許証到着。
3通は1回の受験で全て合格してしまったので、1アマの合格通知を待って同時に免許証を申請しましたが、
医師の診断書は1回の受診なのですが、別々にもらってお金が2通分必要でした。
やっと1アマです。免許証番号は3桁です。
この当時、私は学生寮に入っていたんですが、(余談ですが、この年、七夕豪雨で寮は床下浸水直前、
濁流の中、目の前で、魚やどじょうが泳いでいました。)
同室に当時のラオスから、フンペン(Hun Peng)君という国費留学生がいました。
ラオスからのQSLカード「XW8BP」のカードを見せたところ、
なんと当の本国のアマチュア無線家のフェン(Feng)さんとは知り合いでした。
フンペン君は英語、フランス語、ロシア語とかたことの日本語を話していました。
彼には、良く英語を教わったりしました。
その後ラオスはクーデターやらで、政権交代があり、最近まで永い事、
アマチュア無線の電波が聴かれませんでした。(悲しい事ですが、今生きているのかも分りません。)
アマチュア無線が出来る事は、国が安定しているかどうかのバロメータでもあります。
中国もこの頃はアマチュア無線は禁止されてました。
現実に、現在も日本のアマチュア無線家がQSO(交信)を禁止している国はまだ存在します。
(2006年12月27日現在)
QSLカード:交信証のことです(お互いに交信したあかしとして交換します)
まずはここまで。
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