碁盤を挟んで人と親しむすばらしさは、なんともいえない味がある。私にとって碁打ちはみな師匠であり、同時にまた人生の師でもある。
「目二つで生きる碁に似た年の暮」昨年、忘年碁会にでかけた碁席にあった川柳である。景気があまりよくない。仕事柄気にしていただけに思わず吹き出してしまった。世相を表現するタイミングのいい”利かし”であった。作者は席亭の鈴木薫六段(元県庁)、社会人になってからの私の碁の師匠である。上手、下手を問わず碁打ちには特有のセンスとユーモアがある。私はそんな人間臭さが好きだ。
碁を覚えたのは小学二年の頃だったと思う。親父が一時、横山孝一先生(プロ六段)に師事していたことがあった。盤側の茶菓が目当てで見ているうちに、白黒の葛藤に興味を持ち始めた。門前の小僧・・・でいつしか石の取り方、生き死にを覚えた。これが囲碁との邂逅(かいこう)であった。”打って返し”や ”征(シチョウ)”がおもしろく、こればかり狙っていた。負けると悔しくて目にいっぱい涙がたまった。
大学に入るとすぐ囲碁部に入部した。棋力は八級ぐらいであったろうか。大学囲碁連盟の生みの親である故深谷先生をはじめ、今アマチュア棋界で活躍する大勢の先輩がいた。その一人、猪目佳宏六段(
社会人になってからは静岡駅南の宮地道場(宮地虎造宅)が修行の場となった。現在の日本棋院静岡南支部(大中道完支部長)である。橋口鷲郎六段、北川輝雄六段、勝山誠治五段などが相手で帰宅は毎晩十時を過ぎた。三氏のユニークな碁風は今も変わっていない。
四十一年から四年間は
四十五年に再び静岡に戻った。下宿が近かったこともあって、当時静大生であった新井清六段(
近年、碁の普及ぶりは著しい。中学、高校のクラブ活動にまで組み込まれている。女性の社交の具にもなりつつある。碁というゲームの中に、日本人が忘れかけている何かがあるのだろうか。世界的にも広まった。今年五年目を迎えた ”世界アマ選手権戦”には二十九カ国が参加している。欧州諸国での普及ぶりは寺田友行三段(
「我々が囲碁に対して価値観や使命感を考えた時、確かなことが一つだけあると思う。すなわち囲碁は我々日本人が先祖代々引き継いできた大きな遺産である。だから我々の時代にもこれを正しく向上発展させて次の時代に引き継がねばならん、ということであろう」
アマチュア棋界の彦左、安永一翁はかつてこのように述べられたことがある。この教えを守り、これからも許される限り囲碁の普及に努めるつもりである。
私のライフワークである。
(昭和58年4月24日 静岡新聞 掲載)