THE SPARTAN
TRAINING



written by sayaka




「――ハァ……ハァ……ッ」
 無音の空間に、絶え間なく漏れる喘ぎ声が響く。白い肌を流れ落ちる汗。
「……ン……」
 唾液を飲み下すのが酷く苦しい。酷使し続けた腕や足もそろそろ限界だ。息苦しさに意識が朦朧としてくる。
「景虎様……」
 直江の声が聞こえる。俯いていた眼を上げると、視線の先で直江が微笑んでいる。
「お疲れ様でした」
 ようやく走るのを止め、荒い息を吐きながら膝に手を置いて上体を折った景虎に、直江は柔らかいタオルを差し出した。
「何周……走った?」
「二十五周です」 
 その言葉に景虎は座り込んだ。
「身体が訛ってるな」
 苦々しそうに景虎はそう吐き出した。
 ここはレルーア星を取り巻く、連合指令軍の駐屯地である第一ステーションのトレーニングルームだ。だがトレーニングルームと言うのは名ばかりで、実際は、これはどこの屋内競技場だと言いたくなるような広さの区画である。ランニングマシーンやストレッチマシーンはもちろんのこと、各種のトレーニングマシーンを備え付け、四百メートルトラックや球技用のコート、射撃場も存在する。
 景虎が走っていたのはその四百メートルトラックだ。直江の言葉によるとそれを二十五周走っていたと言うから、十キロということになるだろう。決して短い距離ではない。それを走りきれたら十分だろうと普通は思うだろう。だがそう思うのはまだ早い。問題は距離ではなくスピードの方だ。景虎は十キロをほとんど百メートル走並の速さで走っていたのである。
「あのペースで十キロ走れたら十分ではないですか?」
「どこがだ」
 もう息の落ち着いた景虎は、侮るなと言わんばかりの眼で直江を下から睨みつけた。
「さて、と。アップはこれくらいにして」
 アップ……景虎にはこれがアップだったらしい。
「おまえもせっかく着替えてることだしさ」
 よっ、と反動をつけて軽やかに立ち上がった景虎は、隣に立つ直江を見た。
 グレーの軍服ではなく、動きやすい黒の上下を身につけた景虎に対して、直江は黒のミリタリーウェアを身に纏っていて、いつもの禁欲的な風情とは違い、どこか野性味の加わった凛々しさを感じさせる。
「手合わせしようぜ」
 そう言って景虎は直江の返事を聞こうともせず、スタスタと訓練所へと歩き出した。いつもながら強引だ、と直江は苦笑した。だが、その背中はいつも追ってくる直江の気配を探っている。他の誰でもない直江を。それを直江は誰よりもよく分かっている。それが分かっていながら、どうしてその期待を裏切れるというのか。……いや、たとえ知らなくても、自分は決して彼の想いを裏切ったりしない。
(あの人を、一人にはしない)
 幾度も繰り返した言葉を今また反復し、直江は景虎の後を追った。
 
 
 
 
 
 互いに見つめ合い、呼吸を探る。距離を取ったまま、二人は微動だにしない。周囲のギャラリーも固唾を飲んでその沈黙の戦いを見守っている。
 直江はゆっくりと息を吐いた。景虎の眼が、獲物を狙う肉食獣のようにスゥッと細められる。
(来る……ッ)
 眼にも止まらぬ速さで、景虎が直江の間合いに踏み込む。身を沈め、直江の鳩尾に拳を繰り出す。
 だがそう易々と喰らう直江ではない。重心を右にずらしながら攻撃を受け流す。
 くるりと身を反転させた景虎が肘鉄を打ち込む。直江は左手で軽々と受け止め、右ストレートを打つ。
 捕らえた、と思ったそれは虚しく空を切った。
「ハッ」
 お返し、とばかりに左側から頭部に向け、鋭い回し蹴りが飛んでくる。
 かろうじて左腕で受け止める直江。足払いを掛けるが、すでに景虎は後方に飛び退いている。オォ、と周囲がどよめく。
「どうした、直江」
 ニッ、と景虎が余裕の笑みを浮かべる。
「―――行きます」
 攻守逆転し、今度は直江が攻めに転じた。
 長い足で大きく踏み込み、次々とパンチを繰り出す。その全てを流れるように受け流す景虎。その激しい攻防に、見守る兵たちは瞬きすら忘れて見入る。
 ある時は避け、ある時は内側から跳ね除けて勢いを殺し、またある時はガードして軌道を変える。直江のキレのある攻撃を前にして、景虎も一歩も引かない。直江も、隙を見ては攻撃に転じようとする景虎を押さえ込むのに必死だ。
 拮抗した闘いは永遠に終わらないのではないか、と思われた、その時。
「痛ッ……」
 直江の拳が景虎の左肩に入った。景虎の顔が痛みに歪む。
「!?」
 まさか当たるとは思わなかった直江は、目を見張った。
 だが、次の瞬間。
「ハッ」
 隙を見せた直江を、高い蹴りが襲う。
 しまった、と思った時は既に遅し。直江は直撃を覚悟した。だが、予想に反してその蹴りは直江の身体の三センチ前でピタリと静止した。
「オレの勝ちだな、直江」
 子憎たらしく笑う景虎の顔がそこにあった。直江は、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
「ワザとですか」
 景虎は疲れた、というように地面に座り込んでいる。
「何のことだ?」
 分かっていながら白を切る景虎に、直江は詰め寄った。
「先程の一撃、わざと当たったのかと聞いているんです」
「そうだって言ったら?」
 上目遣いに直江を見上げるその仕草は、悪戯を仕掛けた子供のようだ。
「全く、あなたという人は……完敗です、私の負けですよ。こんなに鮮やかに負けたのは初めてだ」
「オレもこんなに手強い相手は長秀以来だ」
 周囲のギャラリーたちは思わずどよめいた。長秀は第三ステーションの責任者で、ここにいる者たちは直接に関わることは少ないが、そこに所属する兵たちから、そのスパルタぶりと鬼のような強さは耳にタコができるくらい聞き及んでいる。
「長秀とも手合わせをしたんですか?」 
 ああ、と景虎は頷きながら立ち上がった。
「あいつはオレが上杉景虎だって名乗ったら、胡散臭いものでも見るような目でガンたれてきて、しばらく睨みつけた後こう言った。「俺は噂なんか信じねぇ。上司面したいんだったら俺様に勝ってからにしな」ってな。――別に上司面したいわけじゃなかったが、売られたケンかは買う主義だからな。一時間という破格の値で買ってやった」
 一時間。その言葉に思わず直江は眩暈を覚えた。景虎と長秀の一時間勝負。一体どんな闘いを繰り広げたのか、想像するのも怖いものがある。
「それで……どうなったんです?」
 それでも、ここまで聞いては引けないのが悲しい人間の性。恐る恐る直江は問い掛ける。
「長秀も自分から売るだけあってなかなか手強かった。あいつはおまえと違って、相手に拳が入ろうが蹴りが当たろうが気にしないからな。こっちもかなりダメージを受けた。もっとも、やられた分は二倍にしてお返ししてやったがな」
 かなり激しい殴り合いだったことが予想される。
「結局長秀がぶっ倒れるまで二十ラウンドくらいやったが、その頃にはオレもふらふらで、立っているのがやっとという有様だった。だが、あれはなかなかいい運動になった。……そういえば、あれ以来本部で絡んでくる奴が減ったな」
 これは間違いなく確信犯だ、そう思わずにはいられない直江だった
 あの訓練の度に血が降る、血染めの鬼との異名を取った長秀に勝つ人物。その事実に、平の兵士から曹長に至るまで、その場にいる者みな逃げることもできず、凍りついた様に動けなくなっている。
「おまえも、もう十ラウンドくらいやるか、直江?」
 顔からサァ、と血の気が引いてゆき、直江は必死で首を振った。
「いえ、結構です。もっと精進してきます」
「そうか、残念だな」
 どうやら本気で言っているらしい景虎に、ぎこちなく浮かべた直江の笑みが引きつる。
「仕方ない。―――楢崎、新城、宮下、前へ出ろ」
 景虎の言動に直江と同じく沈黙していた周囲を見回し、景虎は適当に指名する。指名された三名は、恐々と頼りない歩みで出て来た。みなその三人に同情の眼差しを送っている。
「三人同時に来い。オレに一撃でも入れることができたらおまえらの勝ちだ」
(そんなのできるわけないッスよ!し、死ぬーー!!)
(わ、わしの人生ここまでじゃ。すまん、おふくろ。毎月送りよった給金も今日で送れんなるき、わしの災害保険で老後を過ごしてや。あの世で待ちゆうきな。……大尉に殺されるならわしも本望じゃ)
(お花畑が見える。あ、あのお花畑の向こうで手を振ってるのは昨年亡くなった永吉じいちゃん、待ちよって下さい。もうすぐそこに行きますき)
     以上、、三人の心の日記「ナイーブな僕の、あなただけに聞かせる心の声」より
 とまぁ、三人が心の中でこの世に別れを告げているのが分かっているのか、いないのか、景虎は楽しそうに促す。
「どうした、こないのか?こないならオレからいくぞ」
 言うやいなや、猛虎は疲れなど微塵も感じさせぬ俊敏さで、哀れな生け贄に襲い掛かっていった。
 まずは間合いに踏み込んでも反応できない宮下の鳩尾に一発。犠牲者第一号は「グッ」うめいて崩れ落ちる。
 弾かれたように左右に飛び逃げた二人。ハンターも真っ青な景虎の鋭い目は、次に新城の姿を捉えた。「ひッ」と新城は悲鳴を漏らして硬直する。まさに蛇に睨まれた蛙状態。そこから一歩も動くことができないまま、首筋に手刀を打ち込まれてダウンした。
 残るは楢崎。景虎はゆっくりと振り返り、背後からヤケクソになって殴りかかってきた楢崎の腕を取り、鮮やかに投げ飛ばした。
 
 ―――沈黙。
 
 声を発するものは誰もいない。いや、発する事ができる者は一人としていなかった。直江でさえ、ただ唖然と見つめることしかできない。ましてや他をいわんや。
「………?」 
 不思議そうな顔で景虎は佇んでいた。己が手と、倒れた三人を交互に見て、やがて背後に声をかけた。
「早田、堂森、来い」
 前の三人と同じく、恐々と出てくる二人。そして、指名された新たな生け贄が地に伏せるまで、その間十秒。
 
 ―――再びの沈黙。
 
「………ぜ、全員同時にかかって来い!」
(そ、そんなぁーー!!)
 全員の心中の悲鳴は、タイガース・アイのたった一睨みで静まった。いや、静められた。
そうして、その場にいた二十名近くの者が、屍のごとく累々と地に転がったのはものの三分もしない内。第一ステーションの全区画に、上杉景虎大尉の緊急召集の放送が流れたのは五分後のことである。 
 
 
 
 
 
            *     *     *
「仮眠を取っている者、休息中の者、当直中の者、食事中の者……要するに全員だ。一人残らず着替えてトレーニングルームに来い!十分以内だ。何があっても遅れるな。………ブツッ……」
 かなり怒りの垣間見える様子で、景虎はスピーカーの電源を落とした。
「当直の者まで呼び出して、良いのですか?」
「構わない。たとえ何かあっても長秀が何とかするだろう」
 景虎の怒りのオーラに、直江は内心タジタジである。怒りの原因は予想がついている。おそらく、兵士の訓練不足に怒っているのだろう。自分の管理能力不足のせいか、いや、しかし自分がここのステーションに配置換えになったのは、景虎様に指名されてからだ。ここは自分の管理下にはなかったから、自由に訓練はできなかったし(第二ステーションでは長秀にも劣らないくらいの訓練はしていた)だがやはり俺のせいか……?などと直江がぐるぐる回っている間に、景虎はさっさと通信室を出て行く。直江も慌てて後に続いた。
 景虎は景虎で、かなり動揺していた。
(う、嘘だろう?連合司令軍の兵はあんなんでいいのか?あれくらいの戦闘能力で良いものなのか?)
 その事実は景虎が今まで信じきっていた、軍人とはこうあるべき、という信念の根本を覆すほどだった。
 景虎の義父である上杉謙信は、この広い宇宙で知らぬ者はいないほどの人物である。連合指令軍の最高司令官として長く君臨し、多くの宇宙海賊を検挙したり、危険な異性物を退治した、過去に類を見ない英雄と呼ぶべき人だった。その謙信に養子として引き取られ、その幼名まで与えられた景虎は、その偉大な人の後継者とも言える。景虎は幼い頃から心身を鍛え、戦いの能力だけでなく精神をも磨き上げ、必死にその期待に応えてきた。そして「親の七光り」と口さがないことを囁く人間を実力で黙らせてきた。それが軍人として当然と思っていた景虎にとって、兵たちの訓練不足は呆然とするに値するものだった。
(全員があれくらいのレベルなんてことはないはずだ。あの場にいた奴らが訓練不足なだけかもしれない)
 と希望的観測を無理矢理自分に言い聞かせ、景虎は靴音も高くトレーニングルームへと向かったのである。
 
 
 
 
 
            *     *     *
 さて、全ての兵がトレーニングルームに集合完了したのは、放送から九分三十八秒経過したときであった。第一ステーションと言わず、第二、第三ステーションでも圧倒的人気を誇り、憧れ度ナンバーワンである上杉大尉の招集だ。皆取るものも取り合えず、それでも一応の身だしなみは整えて(大尉は大の綺麗好きだからだ)猛スピードで集結した。
 一体どういう用件なのかと思いながらも、全く無言で整列した一般兵から少佐に至るまでの全員は、大尉のお言葉を待った。
「今日、召集をかけたのは他でもない。全員の実力を測るためだ」
 景虎は全員を見渡し、おもむろに口を開いた。
(さすが大尉。部下である全ての兵の実力を把握しようと言うのだな。やはりこれまでの上司とは一味も二味も違う)
 と感動したのは先程までこのトレーニングルームにいなかった人間だけである。不運にも居合わせてしまっていた者達は、内心恐怖で叫んでいる。
「そのために、これからテストを行う。内容は至って簡単だ。これから五人ずつ、オレと五対一で勝負をしてもらう。武器は両者なしで、オレが五人倒す間にオレの身体に一撃でも入れることができたらおまえ達の勝ち。合格だ」
「それじゃあ、大尉が不利なんじゃありませんか?」
と言ったのはもちろん先程いなかった面々だ。
「オレが、不利か?それはやってみないと分からないだろう」
 景虎はそう言って、艶やかな笑みを浮かべてみせる。  
「五人一グループを作ってアップをしろ。五分後に開始する」
 五分後、彼らは美しい悪鬼を見ることになる。
 
 
 
 
 
            *     *     *
 ドカッ。 「ぐぇッ」 バタッ。 バキッ。 「ウッ……」 ドサッ。 ドンッ。 「グッ」 バタンッ。 ヒュッ。 「……ッ」 ドタンッ。
 殺伐とした音と呻き声だけが、もう三十分も響き続けている。
「ヒッ……」
 最後の一人は息を止め、思わず後退した。
「どうした、来いよ」
 軽く息を乱した景虎は、優しく呼びかけた。
 だが、相手にしてみれば、その優しい声こそが怖いのだ。
「仕方ない」と呟き、景虎は素早く詰め寄り、足払いを掛けた。
「次のグループ、来い!」
 現在第一ステーションに配属されている兵は総数二百。つまり五人グループが四十組できるということだ。厳しいテストが開始されて三十分が経過しており、すでに三十五ものグループが負けを喫している。先程で三十六組目だった。残り四組。
 景虎は全て一撃で倒し、相手の攻撃を掠らせもしない。百八十人を相手にしてそれは強過ぎじゃないか、本当にそれで人間か、と思う人間多数。これで息一つ乱していなかったら化け物だが、さすがにそれはない。息を軽く乱し、頬を上気させている姿がひどく扇情的だと思っているのは直江だけだ。額に滲んだ汗で張りついた前髪をかき上げたいと思っているのも直江だけだ。
 その圧倒的な強さに始めの内は驚愕していた直江だが、いつしかその蝶のような軽やかさ、猫のようなしなやかさ、虎のように鋭い漆黒の眼差しに陶酔しきっていた。
 あのキレのある攻撃を繰り出す腕を捕らえ、細い腰を抱き寄せたいと思ってしまう。その上、「おまえにもできるか?」と言わんばかりの眼差しで、時折挑発するように流し目を向けてくる景虎に、心臓が鷲?みにされたように脈打つ。 
(景虎様……)
 直江が、今にも手をお祈りのポーズに組みそうになっている内に、開始から四十分と経っていないというのに、景虎は二百人全てを残らず倒してしまった。直江は内心舌打ちする。もっとあの鮮やかな舞のような彼の姿を見ていたかった。
(ここには骨のある兵はいないのか)
と悪態をつく。
 一方景虎も直江と同じく、
(ここには骨のある兵はいないのか)
そう思っていた。
 少しはまともなヤツがいるだろうという希望的観測を持とうとした自分がバカだった。どうやら第一ステーション(ここ)ではこのレベルが当たり前のようだ。
(まぁ、いい。訓練不足なら鍛えるまでだ)
 こうしてポジティブな景虎様の地獄のトレーニングは幕を開けた。
 
 
 
 
 
            *     *     *
「まずはマラソンといこうか」 
 何故か叱られた子供のように正座をしている二百人の前で、景虎はよく響く声で言い渡した。
「この四百メートルトラックを百周!」
 400×100=40000メートル=40キロ
 ひぇー、という叫び声が聞こえたのかどうなのか、
「……と言いたい所だが、五十周にまけてやる」
 400×50=20000メートル=20キロ
 ほっとした顔の者もいれば、明らかに青ざめた顔の者、不安そうな顔の者と人それぞれである。
 景虎を除いて唯一立って成り行きを見守っていた直江に、景虎はチラリと目をやり、
「おまえは一撃入れられたから免除だ。サボるヤツがいないか見張ってろ」
 そう言い放って直江に背を向けた。
「三分後にスタートする。それまで各人アップしろ!」

 
 
 
 
 かくして二十キロマラソンはスタートした。
 先頭を軽やかに走っていくのは、二百人を倒してもまだ体力が有り余っているらしい景虎様である。そのスピードたるや、恐ろしいものがある。次々と一周遅れ、二周遅れ、三周遅れ――果ては十周遅れまでいる始末――を抜かしながら、一人一人に声を掛けてやっている。
「染地、あと半分だ」
「卯太郎、がんばれよ」
「楢崎、なかなか早いじゃないか」
 苦しいときに景虎のこの言葉は限りなく嬉しく、力強いようだ。励まされた者たちの疲れて淀んだ眼に力が入るのが分かる。もう無理だと諦めかけたときにその声が聞こえ、リタイアを踏み止まった者も少なくない。景虎は速さには拘らなかった。一人一人にそれぞれ合ったペースがある。それを乱すつもりはなく、ただ最後まで走りきることを全員に課した。
 そうして景虎は、最後の一人がゴールするまで共に走り続けた。その彼が、最終的に何周走ったかは定かではない。他の一・五倍は軽く走っているだろう。
 ゴールした全員が地にへばって息を整えていると、
「アップはこんなもんだな。次は基礎トレーニングに移る」
 やはりこれも景虎にとってはアップだったらしい。おまけに次はまだ「基礎」トレーニングだ。おそらくきっと「実践」訓練もあるに違いない。
「まずは腹筋二百回、片手腕立て伏せを、左右それぞれ二百回ずつ、スクワット二百回、懸垂は……まぁ今日のところは十回で許してやろう」
 今日のところはって何なんですかー!!と内心ツッコミを入れた者多数。
 なお、と景虎は言葉を続ける。
「これらのトレーニングはこれから一ヶ月間毎日続ける。そこでだ、腹筋、腕立て伏せ、スクワットについては毎日十回ずつ、懸垂については毎日五回ずつ増やしていくからそのつもりで」
 200+10×30=500
 10+5×30=160
 一ヵ月後には、何とも恐ろしい数が並ぶことになりそうだ。
 側で聞いている直江でさえ、背筋を冷たい汗が伝う。ましてや、それを行わなければならない二百人の心情やいかにといったところか。
「全員理解できたな。それではこれから開始する。全員準備をしろ」
 地獄のトレーニングは再開された。
 
 
 

「焦らなくていい。自分のペースでやれ。最後までやり遂げろ」
 上杉大尉の激励が飛び交う中、二百人は着実にメニューを消化していった。早く終えた者は、まだ途中の者を景虎と一緒に励ましながら、ようやく最後の一人までメニューをこなした。
 そうして全てやり終えた男たちを待っていたのは、景虎の微笑だった。
「次は実践訓練だ」
 
 
 
 
 実践――と言っても、様々な種類の訓練がある。
 射撃、格闘、武器を用いた戦闘……。武器と言ってもナイフから銃剣からサーベル……格闘にしても柔道、空手、テコンドー……射撃と言ってもレーザーガンからマシンガン、ライフル……と実に多種多様だ。
 もちろん景虎は全部やらせた……なんてことはない。人にはそれぞれ向き不向きがある。全部できたらそれが一番良いのだろうが、それはなかなか難しい。とりあえず多用する種類をピックアップし、その中で一番自分に合っている物を選ばせた。
 まずは格闘技。景虎と直江がコーチをつけ、一人ずつ指導した。だがそれではどうしても空き時間が長くなる。よって少しでも上手い者が苦手な者に教えるということになった。
 武器を用いた戦闘訓練や射撃訓練も同じ要領で行われた。
 
 
 

「今日の訓練はここまで。全員よく頑張ったな。明日もこの調子でいくからな」
 景虎がそう言い終わるのと同時に、全員地面に倒れ伏した。
 全てが終わったのは、夕食時間の頃だった。実に午後一杯を使って行われたことになる。
だが、そのあまりのハードさに、普段は食欲大盛な人間ばかりであったが、あまり空腹感がない。これが一ヶ月も続くかと思うと、これから先気が重くてしようがない、という顔だ。
 さすがの景虎と直江も疲れ気味だ。それでも、
「夕食にするか」
とスタスタとトレーニングルームを後にした。
 二人が去った後に溜息がつかれたのは言うまでもない。
 
 
 
 
 
            *     *     *
「大尉!稽古つけて下さい」
 地獄の一ヶ月が終わった後、景虎に個人的に稽古をつけてくれという声を掛ける者がぼつぼつ現れ始めた。景虎はそうした者達の心意気を大いに喜び、それら一つ一つに丁寧に応じてやっている。
 トレーニングルームで個人的に特訓をつけてもらっている兵の幸せそうな顔が、それを羨ましそうな顔で眺める他の兵たちの顔が分かっていないのは、きっと景虎くらいのものだ。
 あの地獄のトレーニング以来、景虎の人気はすこぶる上がっている。滅法強くて、それでいて一人一人を気に掛けてくれるその優しさと、闘うときの毅然とした姿や凛々しい姿に、一人の例外もなく全員が憧れを抱いているのである。そう、その憧れの上杉大尉に個人的に構ってもらえるくらいなら、厳しい特訓さえも難のそのという程に。そんな考えから、景虎に稽古を頼む輩が現在急増中である。
 この事態に、一人焦りの色を濃くしているのは、もちろん直江信綱その人である。
 ここ最近、あまりにそういう輩が増えてきたために、ついに強硬手段に出た。
「上杉大尉!稽古つけてくれませんか」
 そうきらきらした眼で言ってきた兵の一人に、
「大尉はここ最近稽古でお疲れだ」
「いや、別にそんなことはないが……」
「そうですよね、景虎様」
 否定しようとする景虎に向かって、直江は殊更ゆっくりと、笑みを浮かべて言った。そんな直江に怖いくらいに不気味なものを感じた景虎は、思わず口を閉ざしてまう。
「稽古をつけてほしいなら、俺がつけよう」
(そ、そんなあぁぁーー!!何とかしてください、大尉!!!) 
 夢破れたその男は、縋りつかんばかりに景虎を見た。
「そうか、おまえがやってくれるのか。それなら安心だな。じゃあ、がんばってこいよ」
 無情にも景虎は去って行ってしまった。
(大尉〜〜〜!!!)
「それじゃあ、行くか」
 捨てられた子犬のように憐れに景虎の後ろ姿を見つめていた兵は、直江の一言ではっと我に帰った。
「強くなりたいんだろう?――たっぷり稽古をつけてやろう」
 恐る恐る振り返ると、そこにはにっこり微笑んだ直江中尉の姿があった。だが恐ろしいことに目が全く笑っていない。
(ぎ、ぎゃあぁぁぁーー!!)
 上杉大尉よりも、安田中尉よりも恐ろしい黒き悪魔の姿を、犠牲者一号はしっかりと捉えていた。
 
 
 

 その後、夜な夜なトレーニングルームから絶叫が聞こえたとか聞こえないとか。一体何人の兵がその餌食となったか、真相は神のみぞ知る――……。 





                                      END







sayaka's coment

「THE ETERNAL CORDS」の続編と言うか、番外編です。
前回とは打って変わって、ずいぶん軽いノリになってしまいました。テーマは「上杉景虎大尉の日常(?)」です。最後はお約束な終わり方だし、書いてるうちにどんどん長くなってくるし、直江の登場が少ないしで、微妙ですね。カッコいい直江を目指してるんですが、ノリを軽くすると、崩れていきそうで怖いです。トレーニングメニューは、どれくらいにしたらいいか考えに考えた末、こんなことになりました。無理だと思っても、どうか受け流してくださいませ。
それでは、読んでいただきありがとうございましたv

noda's coment

さやかさん、またまた素敵なお話をありがとうございました。
最初の7行で「おおっ!v」と期待させといて、突き落とすパターンに見事ハマってしまいましたよ。ニクイ人だ(笑)。
それにしても景虎様凄すぎです。私なんて1キロ走るのがようようだし、腕立ても20回が限度です。う〜んでも景虎様にだったらシゴかれてもいいかな〜。(←確実に死ぬ)
直江も日々鍛錬に励んで、景虎様に呆れられないように頑張らなきゃね。景虎様より体力無いだなんて、夜の生活に困るよ(笑)。
あとナラッチを見て何だか無性に悲しくなったのは私だけではありますまい……(泣)。
題名は僭越ながら私めがつけさせていただきましたが、散々迷ったわりにはしょーもないタイトルに……。
装丁も決まらなくって、もう迷ってるだけで時間が無駄に過ぎていくので、これ以上アップを遅らせるのもなんですし、あんまり内容と合わない壁紙になってしまいましたが、ご勘弁くださいね
納多氏、ネーミングセンスNothingなので、なるべくなら予め付けてくださるとありがたいです〜。素敵なお話なのに変なタイトルつけてしまうのは忍びないです〜(泣)。
なんだか謝ってばっかですが、さやかさん、とにかくありがとうございましたv
しょーもないモンばっかの「氷水の剣」に彩りが加わってとても嬉しいですわv





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