17.
それからどれぐらい経ったのか……。
日はもう西方に沈み、暗雲に覆われた四国には月明かりもなく、灯をともさない医務室はただただ暗い。
数時間暗闇の中にいて目が慣れた高耶にも、かろうじて輪郭を捉えることが適う程度だった。
──魂魄はおそらく夜明けまでには体から自然に離れると思います。機能を失った生身の体に霊体が宿ることができる時間は限られていますから。……それで霊体のことですが、霊体のままでもいられるのですぐにする必要もないとは思いますが……宿体はこちらの方で用意しましょうか?
中川の言葉に高耶は何も答えなかった。
潮が何か言いたげにこちらを見ていたが、結局何も言えずに三人共に部屋を出て行った。
高耶は待ち続けた。直江がこの亡き骸の肉体から出でて、自分の前へ姿を現すのを。
除霊の応用ですぐに引き離すこともできるのだが、そもそも今回の事件の原因が全く判明しない以上、下手なことをするわけにはいかなかった。
本当なら今すぐにでも確認したい。直江が己の元へ間違いなく戻ってくるのかどうか、早く確かめたい……けれど確かめたくない。
万が一にも「もしもの時」などというものが訪れたなら……いや、想像などしたくもない。
だが早く、精神の緊張を解いてしまわねば気が狂いそうだ。その一方で、「そんな時」が来るくらいなら永遠にこのままでいたいと思う。だけど。
だけど……会いたいのだ。ただ早く抱きしめてもらいたい。抱いてくれなくたっていい。自分の、ただ唯一の人であるこの男の存在を確かめたい。
……ただ、それだけだ。
四国を覆った雲の遥か上空、かつてその姿にこの男を重ねた、白々とかすかな光を放つ月が夜空の頂点に達した頃。
高耶はその時、直江の魂がわずかに揺さぶられたのを感じた。
そして揺れは収まり、普段どおりの平常なリズムへと変わった。
彼は知った。直江の魂魄は、橘の身体から放たれて自分の元へ戻ってきたのだ。
案ずることなど何もなかったのだ。この四百年で自分たちは何度も己の体を死に至らしめてきた。けれどいつだって無事に互いの顔を見ることができた。心配など、今回に限って必要ではなかったのだ。
安心して、これ以上ないぐらい安心して高耶は眼をつぶると共に無言で涙を流した。
どうしてこんなにも涙が出るのだろう。
これは嬉し涙じゃない。悲しくて悲しくて呼吸ができない。
「直……江」
高耶のか細い声は、目の前の男に届いたようだった。
──高……耶、さん……?
かすれた声が耳に届いた。けれどこれはおまえの声だ。おまえ以外誰も持ちえぬオレだけの声だ。
なおも俯いて高耶が泣き続けていると、直江は驚いたような声で話しかけてきた。
──どうして泣いているんですか……?
高耶は答えられず、ただただ首を横にふり続けた。
直江は困ったように息を吐いた。
──私に教えてください、高耶さん。
直江の声は昔に戻ったようで、ひどく優しくて、高耶は自分を抑えることができなくなった。
「……おまえを、救えなかった……」
崩れ落ちそうな声だった。
悲しみと苦しみに満ちた声。息が苦しくて窒息しそうだ……。
認めたくなくて、顔を上げて直江を見ることができない……。
「橘義明を……失って、しまった……」
直江は息を飲んだ。
「オレが……おまえを、今度はオレが救うんだって、誓ったのに……」
──高耶さん。
「こんな……裏四国なんて成して……、今空海≠セなんて崇められたって、おまえを救うことさえできやしないじゃないかっ」
──高耶さんっ。
「いつだってそうだ……!オレばっかりがのうのうと生き残って、こんなんでいいわけがないのに!どうしてこんなことになってしまうんだっ!」
──高耶さんッ!
高耶はビクリと身体をふるわせて、再び息を止めて押し黙った。固く瞳を閉じたまま。
直江も先程の強い声を取り消すかのように、静かな声音で話しかけた。
── 落ち着いて。俺の顔を見て。
高耶は嫌がるように眼を固く瞑りながら首を振った。
──高耶さん。
「いやだ……」
声が弱々しくふるえている。
──高耶、さん……。
「いや、だ……」
──大丈夫。
直江の言葉で高耶のふるえが止まった。
「…………」
──私を信じてください……。
「直江……」
──私に見せて。
気配で、微笑んでいるのが分かった。
──あなたの美しい邪眼を、俺に見せて。
「なおえ……」
──俺だけに……。
直江の想いが、高耶に、思念として切々と伝わってきた。
この感覚。すべての感覚器が視界などで確かめなくても、この男なのだと認めている。
こんなにも惜しみなく自分を愛する人間は、おまえしかいない……。
そう考えると途端。視覚がこの男を映すことを求めた。
意志とは別の次元で、瞼が自然と開かれて、ゆっくりと高耶は顔を上げた。
目の前に男がいる。
幾度も幾度も夢に見た。
一度は自ら離れた。
これ以上愛しいものはないと思った、……たった一人。
たった一人の……。
「直……」
そこにあったのは、ベッドで横になりながら自分を見つめる男の微笑。
暗闇なのに何故だか、そこだけが光に照らされているようだった。
霊体ではなく、仰木高耶が出逢った直江……橘義明。
幻ではないかと左手を伸ばすと、直江の右手が素早く伸びて腕を掴み、そのまま強引に直江に覆いかぶさるように引き寄せられて。
抱きしめられた。
「高耶さん」
不思議と、霊体ではないと認識した途端、今までぼやけていた声が鮮明になって高耶の耳元で聞こえた。
間違えることなどない……直江は、橘の宿体を失ってはいなかった……!
「直江ッ!」
高耶は瞬間、直江の身体をきつく抱きしめ返した。
一ミリたりとも離れるのは嫌だというように、キツく強くしがみつく。
「直江……、直江ッ」
そのまま咬みつくように直江の唇に口づける。舌を絡め合わせは吸って、呼吸する間もなく深く、激しく求め合う。
しばらくの間思う存分貪り合って、高耶が喘ぐように唇を離し、直江の広い肩に額を押し付けた。
後から後から流れる止め処もない涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、絶え間ない嗚咽を漏らし続ける。
その間も決して、しがみついた腕を放そうとはしなかった。
「高耶さん……」
直江は高耶の髪を手櫛で梳いた。壊れものを触るようにやさしく……。
泣き崩れる高耶の顔が、安心と喜びでみるみる和らいでいくのが分かる。彼はこうして直江に髪を梳かれるのが、ひどく好きだった。
直江の、あたたかい手の平……。
直江は自分の元に戻ってきたのだ。
その身体を死に至らしめることなく。
二十三日前と変わりのない姿で。
高耶は声を上げて泣き続けながらも、その表情は穏やかに微笑んでいるようだった。
悲しみの涙から、喜びの涙へと変わる……。
「なおえっ……なお、え……」
ひっきりなしに続く嗚咽の合間に直江の名を呼び続ける。
絶え間もなく呼び続ける。
窓から吹き込んだ風が、二人の髪をやわらかく揺らしている。
「高耶さん……」
囁きかけられた響きが嬉しくて、高耶はなおいっそう抱きしめる腕に力を込めた。
今この瞬間に感じる、直江の吐息。直江の呼吸。直江の体温。
直江の心臓の音……。
男の腕の中にあたたかく抱き包まれながら、その幸福を信じられぬ思いで己の胸の内に優しく抱く。
夢ではない。その当たり前の事実に、これ以上ないほどの歓喜を感じる。
(直江……)
ひれ伏すような思いで高耶は瞳を閉じる。
直江の指が、高耶の涙を優しくぬぐった。
こんなにも愛しい存在を、失わずにすんだことに……。
感謝する。
この身も、この魂も、すべての想いを込めて……。
かすれた声で、小さく、一つ呟いた。
神さま……ありがとう……。
for your and my eternal happiness.
Someday, I will pray to the meteor
ご感想は
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か
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で♪
to be continued…
2002/10/29
良かったね。良かったね……高耶さん。
本当に良かったね……。
やっぱり高耶さんには笑っていてもらいたいもの。
直江と一緒にいて、微笑んでいてほしいもの。
原作の高耶さんも、
こうやって、喜びの涙で頬を濡らしながら、
直江と共に幸福を迎えてほしい。
この話には、私のそういった切なる願いがこめられているのです……。
さて、おそらく「流星に祈る」。明日分でラストとなります。
もう少しの間お付き合いくださいませ〜。