第五話
強くて純粋なあなた。俺にはあなたの姿は眩しすぎる。その美しさにに焦がれて、愚かな俺は眩しさに眼が眩んでも、光に焼かれても、目をそむけることができない。いつまでも見ていたいと願ってしまう。 あなたの瞳に見つめられると、訳もなく緊張してしまう自分がいる。それなのにあなたが俺の方を見てくれるのが嬉しくて、その黒耀の様な瞳を、いつまでもこちらを向けさせていたいと思うこの気持ちは何だろう。 あなたの鋭い眼差しを、俺は以前見たことがあっただろうか。視線が絡み合った時に感じる懐かしさにも似た痛み。いや、以前見たことがあるなら忘れるはずはない。魂を揺さぶる様な、あの眼差しを。 それでは、この想いは何なのだろうか……。気がつくと、いつも眼であなたを追っている。あなたの一挙手一投足、仕草の一つ一つまで。どんな姿をしていても、どんなに大勢の中にいても、あなただけが俺の眼に飛び込んでくる。それは、どこか親鳥が雛を見つけるのにもどこか似ていて……。 あなたの側にいると、欠けていたものが見つかった様にしっくりと収まり、満たされる心地がする。そんな時に感じる、頬を撫でてゆく風は決まって哀しくなるほどに優しく、郷愁によく似た想いを沸き起こさせる。 今まで感じたことのなかった穏やかな気持ち。同時に感じる締めつける様な痛みを伴った切なさと焦燥感。 自分の中にこれほどの感情があったことに驚きを感じた。家族が殺され、自分も死んでいておかしくなかったあの時に、もう感情なんてなくしたと思っていたのに。 俺は、あなたが長秀や晴家に向ける信頼さえ、許してはおけない。あなたが俺以外の誰かに好意を持つだけで、苛立ちが募り、内心では熱い溶岩がぐつぐつと煮えたぎっている。 そんなに安らいだ表情を、俺以外の誰にも向けないで欲しい。俺だけにあなたの強く綺麗な眼差しを向けていて欲しい。 俺は、あなたにとって、かけがえのない、唯一の場所でありたい。そう思ってしまうこの想いは、一体何……。 あなたはいったい何なのだろう。俺にとってのあなたは……何――……。 「詳細は追って連絡する。これからよろしく頼む」 見送りに出てきた中背の男に背を向け、黒い袍を纏った直江は歩き出した。その隣に並んで高耶も歩き出す。 それを見送った男はふうっと息を吐いた。つないである馬の元へ歩いていく二人の後ろ姿は、まるで彼らの着ている白と黒の装束のように一対のようだ。 (あの少年は何者だ。直江殿は協力者だと言っていたが……) ただの少年でないことは、直江の態度からも明らかだったが、纏う空気も常人とは異なっていた。 一体彼は何者なのだろう……。 「上手くいって良かったな」 「ええ、吉江は以前から協力的でしたしね」 吉江、と先程の男のことを直江は呼んだ。 直江は反乱、いや、革命を起こすために動き始めた。慶州の名士たちに直に会って事情を話し、協力を求めた。 先程話をつけた吉江や三本寺、竹俣等、慶州内の有力者達は、直江の手腕を高く買っていたし、里見を倒さなければ自分達が危ないと思い、色よい返事を寄越してきた。それぞれが持つ大農園から食料の援助と雇い入れている兵力、情報も出来得る限り集めようとの積極的な返答だった。 「小太郎、待たせたな」 高耶が近づいていくと、黒馬は嬉しそうに鼻を擦り付けた。 高耶は吉江達を説得に慶州各地を回る直江に同行し、それと共に情勢を頭に叩き込んでいった。 夜は今まで通り文机に地図を広げ、遅くまで直江と二人で語り合っていた。直江は思った以上に博学で高耶の興味は尽きなかったし、直江にとっても高耶の斬新な考え方は新鮮だった。直江は決して凡庸というわけではないが、その直江でさえ、高耶の意見には目を見張ることがあった。 あれは、玄州など北部から逃げ出してくる人々が浮浪者となって溢れている、と直江が言った時のことだ。 「おまえ、金は溜め込んでるみたいなこと言ったよな。じゃあさ、その金とか税とか使って浮浪者を雇ったらどうだ?」 ほんの少し目を泳がしながら高耶は言ったものだった。 「橋とか皆が集まれる会所とかさ、公共のものを造れば良いだろ」 その言葉に直江は瞠目した。自領以外の場所から流入してきた浮浪者達には、僅かの土地を与えたり、飢饉に備えて貯蓄してあった食料を与えるという様な方策をとるのが一般的とされていたからだ。 「公共のもの、を?」 「どうだ?」 高耶にしてみれば大した考えと思っていないのか、小さな子供みたいな目で直江の顔を覗き込む。 「そうですね……確かに良い考えだと思います。ですが」 そのまま高耶の意見を実行するほど、直江は無能ではない。やや伏せていた目線を上げ、 「会所に費用を割くのならば、どちらかと言えば農業や兵力に関するものの方が良いですね」 「それもそうだな。で、おまえがこういう言い方するってことは、何か案があるんだろう?」 お見通しですか、と直江は笑った。 「慶州は雨量の多い地域ですから、度々河川が氾濫するんです。その都度田や畑にも多く被害が出るので、堤を築いたらどうかと思ったんです」 「なるほど、堤か。いいんじゃねぇか」 堤を築くことは、浮浪者に職を与え、尚且つ村や農地、作物を守ることにつながる。 「ただ、今はそちらにかかりっきりというのも無理ですが……」 また、指導力においても、直江は目を見張った。高耶が直江のところに留まるようになって、最初の三日こそ高耶を侮っていた、直江に仕えている役人達が、ふと気がつくとすっかり高耶を信頼し、敬語を使うようになっていたのだ。彼には何か人を従えるような雰囲気があった。 などなど、高耶の指導力、政治力は大したものだった。さすがに上杉謙信と同格に並び評されるだけのことはあった。 直江は、平四朗という名の流しの腕利き情報屋を高耶と引き合わせた。平四朗は腕利きではあったがひどく変わり者で、気に入った者にしか情報を売らない。その平四朗がひどく高耶を気に入り、今や高耶専属となってしまっている。その筋からの情報で、たった二月で、高耶は直江を凌ぐほど慶州や楚のことを熟知するようになっていて、これには直江も舌を巻いた。 これでまだ十八だと言うのだから末恐ろしいものを感じる。一体どういう環境で育てばここまでになるのか。 高耶は一切過去を語らない。それどころか上杉のこともほとんど話さない。それとなく水を向けてみても、急に話題を変えたり押し黙ったりで決して話そうとしないのだ。無言で訊くなとこちらに向かって訴えているのが感じられて、直江もそれ以上追及はできなかった。 (あなたは一体何を抱えているのですか……) 答える者のない問いかけは、いつまでも胸の中で響いていた。 帰館した高耶と直江を出迎えたのは、綾子と上杉の隠密行動や諜報を仕切っている<軒猿>の頭・八神であった。 「ずいぶんと忙しそうね。そっちは上手くいってる?」 「まぁ、そこそこかな」 すっかり勝手知ったる場所となった館の一室に、高耶は綾子と八神を招き入れた。 「で、急に呼び出してどうしたのよ。しかも八神を連れて来いだなんて、何事かと思ったじゃない」 ゆったりとした二人掛けの長椅子に八神と並んで座った綾子は、スラリと長い足を組んだ。 綾子の正面の長椅子に腰掛けた高耶は、少し考え込むようにしていたが、意を決すると済まなさそうに隣に座る直江に声をかけた。 「直江、悪いけどちょっと席外してくれないか」 「お邪魔、ですか」 直江にしては珍しく、憮然とした表情だ。 「邪魔ってわけじゃないけど、さ。ただオレの個人的なことだから……」 高耶の言葉は、直江に迷惑をかけまいとして発した言葉だろうが、聞き方によっては「オレのことには関わるな」と言っている様にも取れる。 個人的とかそうじゃないとか、そんなこと関係ない、と直江は言おうとして、でも結局は言えずに開きかけた口を閉ざした。 たった二月側にいただけで、こんなにも心が狭くなっている。 (全てを明かして欲しい、だなんて。自惚れにも程がある。自分が彼にとってそれ程心許せる存在だとでも思っているのか) 僅かに自嘲の笑みを口の端に刷いた直江は、 「終わったら声をかけてください」 そう言い残して部屋を出た。 「あらあら。かなり気を悪くしちゃったみたいよ。いいの?」 遠ざかる気配を気にしながら綾子が声を顰めて囁いた。 「悪いとは思うけど、でもホントあいつには関係ないことだしさ。あいつも忙しいから、迷惑だろうし……」 しどろもどろと言い募る声は語尾が小さくなっていく。 「でも、ねぇ。迷惑なんて思わないと思うわよ。あんたに隠し事されるの嫌なのよ。そうでなくてもあんたは自分のこととか話してないんでしょ」 鋭い綾子に、高耶は思わずウッと詰まる。 「……自分のことって言われてもなぁ。言いにくいし、あいつも訊かないし……」 綾子が大げさにはぁ、と溜息をつく。 「全く……どっちもどっちね。直江はあんたのことすごく気に入ってるのよ。だから性急に訊けないでいるんじゃないの?―――あんたも、人見知りな自分が直江にはそれがなかったってこと自覚しなさいよ」 言われてみればそうだ。かなりの人見知りだと自覚のある自分が、直江に対してはそんなこと忘れていた。 それだけじゃない。直江の側にいると、例の既思感の他に不思議な感覚を覚える。胸の中が暖かくなるような、訳もなく叫びだしたいような感覚。これは一体何だ? 考え込む高耶の思考を遮るように、 「あ、あの。一体何を話されているんでしょうか」 恐る恐るという言葉がぴったりな声を発したのは、綾子と高耶の会話に訳がわからず、目を白黒させていた八神だ。 その声に高耶ははっと我に帰った。すっかりきれいさっぱり八神のことを忘れていたのである。慌てたのは一瞬で、瞬時に十八の少年から、「上杉景虎」の顔になる。 「ああ、おまえ達を呼んだのは、調べて欲しいことがあったからだ」 「調べて欲しいこと、とは何でしょうか」 八神も任務に向かう軒猿としての顔つきになった。 「――上杉の方は何か異常はないか?」 身を乗り出すようにして主の命を刻み込もうとする八神を止めるように、高耶は話を逸らした。 「そんなものある訳ないでしょ。あったらとっくにあんたを連れ戻してるわ」 心配性ねぇ、とでも言うような口調だ。それに高耶は苦笑いを返し、 「ないならいいんだ。……何も、ないのなら」 自分に向かって呟く高耶に、綾子はハッとした。 「ごめん。あんたが北条だったってこと忘れてた」 十年前まで、高耶の原名は上杉景虎ではなく北条三郎という名だった。北条宗家の当主 北条氏政の実弟だった高耶は、北条の地である相模の中心地、小田原で暮らしていたのだ。十年前、里見が北条征伐を行うまでは。 その後高耶は上杉の長、謙信の養子となり、後を継いだ。景虎が北条三郎だったという事は、千秋と綾子、八神など、限られた者だけが知っている。 「いや、いいんだ。今回おまえ達を呼んだのは、そのことにも関係があることだから」 「関係があるってどういうこと?」 さっと綾子の顔が固くなった。 「里見の北条征伐のことだ。十年前のあれは、どうやら玄州と洛州だけで行われたらしい」 「そんな馬鹿な。たった二州で北条を攻めたと言うのですか?信じられません」 親和関係にあった北条の力を、八神は上杉の誰よりも知っていた。その言葉はもっともだった。 「おまえがそう言うのも無理はない。二州から出せる兵ともなると五千が良い所だ。たったそれだけで滅ぼせるはずがない」 八神と綾子は、どうやって、という表情をする。 「協力者がいた。<吸力結界>もおそらくそいつらが使っていたんだろう」 そんな筈はない、周辺諸国にそんな気配はなかったと言いかける八神を遮り、 「それは斉や韓、泰でも、ましてや魯でもない」 「まさか……ッ」 綾子が顔を強張らせ、八神は息を呑む。高耶はそんな二人の顔を見やり、ゆっくりと口を開いた。 「―――燕だ」 「…………」 言葉もない二人に、景虎は続ける。 「まだ確定ではないが、当時、他の国は動いた気配がないし、間違いないと思う」 「どうしてわかったの?」 「攻めてきた鎧の色は黒と赤色がいたんだ。オレも攻めてきたのは楚だと固定観念があったから気づかなかったが、楚では赤い鎧は使われていないそうだ。他の国も然り。どこかの国が燕に行状を擦りつけようとしたとしても、理由がないし、普通一番遠い燕が噛んでいたなんて誰も思わないだろう」 「そう、燕を調べるためにあたし達を呼んだのね」 ああ、と高耶が頷く。 「分かりました。軒猿を使って、燕を探ってみます」 「頼む。燕にはおそらく<吸力結界>の使い手がいる。くれぐれも気をつけるように」 綾子と八神を送り出した高耶は、先程の部屋に戻ってきた。 何だか身体が気だるい。少し働きすぎたらしい。気を抜いた瞬間に疲労感が押し寄せてくる。 (直江を呼びに行かないと) そう思うものの、一度椅子に静めた身体を起こす気になれなかった。 瞼が重くなってきて、誘われるままに目を閉じた。 (少しだけ……) 吸い込まれるように眠りに意識を投じた。 コツン、という音で、浅くなった眠りから急速に意識が浮かび上がった。 (な……に……) 瞼を上げるのが億劫だ。強いて目を開くと、部屋は薄暗かった。窓の外に目をやると、太陽は既に姿を消し、その陽光の名残を映した雲が次第に青く染まっていく所だった。二人を見送ったのがまだ日も高い頃だったから、ずいぶん長く眠っていたことになる。 (そうだ、直江が呼んでたんだっけ) ぼんやりと思い出して、高耶は長椅子の肘掛に凭れていた身を起こした。 コツン。 また音が聞こえた。窓に小石が当たった音だ。 高耶が窓を開けると、そこには見知った男の姿があった。地味な灰色の服を纏った、中肉中背の目立たない顔立ちの男。平四朗である。 「上がって来いよ」 高耶が声をかけると、側にあった木を上り、身軽に二階の高耶のいる部屋に降り立った。 「表から入れば良いのに」 風変わりな男で、門衛とも顔見知りで通してもらえるのに、わざわざ忍び込んでくる。何故かと問うと決まって「おもしろいからさ」という答えが返ってくる。 「かしこまったのは苦手でね」 飄々とした男は、何故か高耶のことがひどく気に入っている。高耶の素性を知っているわけではないのに、何か感じるところがあったのだろう。初めて高耶に会った時、「おもしろい」と眼力に優れたこの男は言ったものだった。 「それで、今日はどうしたんだ。なにか良い情報でもあったか?」 「それが……橘殿にも関わりのあることなんじゃが……」 はっきりと物申すこの男には珍しく、躊躇うような声音。 と、その時。 「私がどうかしたか」 不意に扉が開き、直江が入ってきた。 いつまで待っても呼びに来ない高耶を訝ったのだろう。 「平四朗か。どうかしたのか」 「今日は、頼みたいことがあって来たんじゃ」 何をだ、と直江が促す。 「赤鯨衆言うのを知っているか?」 ああ、と高耶と直江が頷く。 赤鯨衆というのは、近頃慶州近辺を騒がしている山賊のことだ。金持ちを狙って盗みを働いていて、慶州でもかなりの被害が出ている。直江もそろそろどうにかしなくては、と思っていた頃だった。 「赤鯨衆がどうかしたのか?」 高耶も赤鯨衆には腕が立つ者が多く、手際もあざやかだと話にはよく聞いていた。 「あんまり知れてないことだが、赤鯨衆は韓の土佐という地域の出なんじゃ。わしもそこの出で、ここに来るまでは土佐で赤鯨衆の<傀儡子>言う情報屋をやっていた」 言われてみれば、直そうとはしているようだが平四朗の言葉にはなまりがある。 「赤鯨衆言うんは韓の遥州を治める自治組織のことじゃった。だが韓の王・伊達政宗と折り合いが悪うなって国を出て、今は山賊になってしもうた」 遥州は、州師を立てず、赤鯨衆という名の集まりを作り、そこで自治政治をしていたらしい。伊達の先代の時はそれで上手くやっていたが、代が変わってからはそれではいかんということになったそうだ。 「頼むっ。赤鯨衆に会って、あいつらを救ってやってくれ。こんなこと頼めるのはあんたらしかおらんがじゃ」 更新 平成拾伍年 拾壱月廿陸日 |