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夜になり、朝が来て、……外に放り出されてからもう何時間が過ぎた頃でしょう。突然衛士の上に、大きな影が覆いかぶさってきたのです。 「なんだー?この人形。きったねーのぉ〜」 見れば、小さな子供が衛士をもの珍しげに見下ろしています。 衛士は喜びました。助かった、これであの家に帰れるかもしれない! 喜ぶ衛士を、子供は鷲掴んで胸の上に持ち上げました。 子供は彼の顔を覗きこみ、その薄汚れた身体に眉をしかめながら、隣にいたもう一人の子供の方に差し出して見せました。 「どーする?この人形」 「ちょーどいいや。この船に乗せて川に流しちまおうぜ」 子供達はそう言い合うと、キャッキャと嬉しげな声を上げながら近くのどぶ川の側に走り寄りました。 子供は新聞紙で出来た船の上に衛士を乗せて、どぶ川の流れの上に船を置きます。 「行くぞー。よーい、ドン!」 衛士を乗せた船は、どぶ川の急流に放たれました。 「いっけーっ!」 子供たちのはやし声の中、衛士はズンズン下流の方に流されていきます。 普段は穏やかな流れの川ですが、昨日の雨のせいで水嵩が増して、もの凄い速さで船は川を下っていきます。 衛士は再び悲嘆にくれました。やっと帰れるかもしれないと思ったのに、それどころかドンドンあの煉瓦造りの家から遠ざかってしまっています。けれど今はそれどころではありません。流れの急な川はとにかく揺れが激しく、彼は船から振り落とされぬよう必死になりました。 やがて船はどぶ板の下に吸い込まれていきました。どぶ板の下は薄暗く、あちこちに蜘蛛の巣が張っていて、その上を八本足の大きな蜘蛛がうじゃうじゃと這いずっています。 衛士は警戒しながら闇の中を縫って行きました。すると突然、ガクンッと一瞬揺られて船が動きを止めてしまったのです。 驚いて前を見ると、目の前にどす黒い身体をした不気味な生物が現れました。この巨大な生物が船のヘリを前足で掴んだのが急停止の原因でした。 あまりの恐ろしげな姿に、衛士は恐怖に身をおののかせました。 不気味な生物は彼の顔をじろじろと眺めながら、こう言い放ちました。 ここは私の領域だ。なんびとも立ち入ることは許さない。船を引き返せ。 しかし衛士にはこの船を操って急流を引き返すことなど到底無理です。 衛士は思案に暮れました。言うことを聞かなければただでは済まないでしょう。だからと言って、無抵抗のままこんなところで倒れるつもりはサラサラありません。 衛士はあの家に戻らなければならないのです。そうしてもう一度あの王子様と再会するためならば、彼はどんなことだって出来るような気がしました。 衛士は意を決し、じりじりと間合いを取り始めます。 悪いが通させてもらう! そう叫ぶやいなや、サーベルを抜刀し不気味な生物の前足に斬りつけました。 ぎゃああああっ! けたたましい呻き声と共に生物が前足を船から離し、それと同時に船は急流に乗って川をもの凄い勢いで下り始めました。 待てええええっ! 後方から、負傷した生物が凄まじい形相で追ってきます。 衛士は天に祈りました。頼む。俺をここから逃がしてくれ!俺にはやらねばならないことが残されているんだ……! そうする間にもドンドン船に生物が近づいてきます。あと三歩……あと二歩……あと一歩の所で船に前足が届いてしまう……! その時。 ピカッ! 突如前方から光が差込んできました。どぶ板の出口が見えたのです。 助かった……! 背後の不気味な生物は光に目をやられてそこから動けなくなってしまいました。 衛士は安堵のあまり崩れ落ちそうになりました。良かった。これでもう一安心だ。 ところがその安堵は長くは続きませんでした。どぶ板から抜け出た瞬間、今度こそ彼は絶望に目の前が真っ暗になりました。 どぶ板から出たすぐ先にはなんと、大きな滝が出来ていたのです。あんな所におちたら、こんな新聞紙の船などひとたまりもありません。 衛士は逃げる間もなく、船もろともゴォゴォとうねりを上げる滝つぼに落とされていきました。 うわああああああああっ! 衛士の叫びは滝つぼの奥深くに吸い込まれ、水底へと沈み、そのまま意識は闇の中に埋もれてしまいました。 |
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衛士は夢を見ていました。お城の中にいる夢でした。 お城の広間では、華やかな舞踏会が繰り広げられていました。 美しい娘や貴婦人たちが、煌びやかなドレスに身を包み、ストリングスの演奏に合わせて貴公子達と優雅なダンスを踊っています。 その中にあの王子様もいました。王様やお妃様らしき二人と談笑する王子様は、濃緑の礼装を着こなして、そこにいる誰よりも輝いていました。娘たちはその美しさにウットリと溜息をつき、王子様の人柄の素晴らしさを口々に讃え合っていました。 その中で、衛士は広間の壁の隅に一人、ひっそりと佇んでいました。 見回せば、衛士は他にも九人、広間の壁に配置されています。仲間達は一様に赤い制服の胸を張って、誇らしげに舞踏会の警備に勤めていました。 仲間達の頭の上には、黒くて立派な帽子が被さっています。ところが自分にだけは、帽子がないのです。 衛士は鳶色の瞳を細めました。自分は出来損ないなのだ。仲間達の中でも最後尾のはみ出し物。あの人とは違うんだ……。 衛士は壁に力なく寄りかかりながら、王子様を遠くから見つめ続けました。 やがて音楽が変わりました。お付きの者が王子様に近寄り、娘たちの誰かにダンスの申し込みをするよう耳打ちしたようです。 王子様はゆっくり頷くと、広間を歩き始めました。娘たちは、王子様はいったいどなたに申し込まれるのかしら、と、そわそわ落ち着かなげにささめき合っています。 一同が静かに見守る中、王子様は衛士の近くの方へとやってきました。衛士の手前には、それはそれは可愛らしい娘が佇んでいます。王子様はこの娘に申し込まれるおつもりだと、衛士は確信し、そして苦く笑いました。 王子様とこの娘はとてもお似合いでした。分かっていたことなのです。初めから、勝負になどなるわけがないことを……。 その時、広間の一同が俄かに騒ぎ始めました。間違いなくその娘に申し込まれるのだろうと思われた王子様が、娘の横を通りすぎてしまったのです。娘も驚いた表情で背後を振り返りました。なにしろその娘の後ろにはもう誰も娘はいないのです。いるのは、そう、ただ一人……。 衛士は、信じられぬ思いで両眼を瞬かせました。いったい何が起こっているのか、脳が上手く理解しようとしません。 混乱する衛士の目の前で、王子様がそっと立ち止まり、ゆっくりと右手を差し出しました。 「オレと、踊っていただけませんか」 そう言って、少し照れくさそうに浮かべたその微笑は、衛士が初めて王子様に声をかけたとき、彼が浮かべた微笑そのものだったのです。 衛士は茫然となりながらも、そろそろと手を伸ばし、王子様の右手を取りました。 「喜んで……」 衛士の答えに、王子様は顔を俯かせました。頬と耳元が少し、赤くなっています。 王子様は衛士の手を握ると、顔を見ずにぐいぐい引っ張りながら、広間の中央へと衛士を連れて行きました。 広間の中央で、二人は互いに一礼すると、手と手を結び合いダンスのポーズをとり始めます。 そうしてゆっくりと音楽に合わせ、身体を動かし出しました。 王子様は衛士の顔を見ませんでした。俯いて、目線を合わせようとしません。けれど踊りだしてから少し経つと、だんだん顔を上げていき、目線をこちらに向けてくれるようになりました。目が合った瞬間に衛士がニコリと微笑むと、王子様はムッとしたように衛士を睨んで、目元を赤く染めていたのでした。 もはや周りのことは何も気になりませんでした。きっと自分のような者が王子様のお相手だなんて、あまりにも不釣合いすぎて、広間中で物笑いの種になっているのだろうけれど。 今はそんなことよりも、王子様と共に過ごせるこの時間が愛惜しくて、かけがえがなく大切で……。 他には何もいらないと、そう思えるほど、衛士にとって信じられないぐらい幸せなひとときだったのです……。 |
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その時です。 突如として凄まじい突風が吹き荒れ、叩きつけられる風に窓の鍵が外れて、部屋の中に季節外れの強風が吹き込みました。 強風は王子様の身体にも激しく叩きつけられて、紙で出来た人形は風の強さに耐えきれず、舞うようにして宙に投げ出されてしまいました。 そのまま人形は風に乗って、部屋の後方の暖炉の中へと落ちていきます。 王子様は、衛士の隣へと舞い降りました。衛士はあまりの出来事に言葉もありません。 王子様……! 王子様は哀しげな微笑を浮かべると、衛士のドロドロに溶けた身体に寄り添いました。 さっきの続き……言ってくれないか……? そう呟く間にも、王子様の紙の身体は炎に焼かれてどす黒く焦げていきます。衛士は涙を流しながら叫びました。 あなたを愛しています!もうずっと前から、ずっと……!あなたのことだけを見てきたんです……! 王子様は衛士の言葉に、今度こそ素直に、嬉しそうに微笑みながら、 ああ……オレも、ずっとおまえを見ていたよ……。 そう言って、熱で溶け落ちていく衛士の身体を抱きしめました。 王子様の身体は、見る見る間に灰燼と化していき、燃え落ちた灰は衛士の錫と混ざり合い、溶け込んでいきます。 王子……様……っ。 衛士は涙を振り絞り、残り少ない王子様の愛しい身体に、初めて手を触れました。 二人は互いが互いを抱きしめあいました。一つも残さず、溶け合えるように。 一緒に焼かれてしまおう……。 現世で一緒になれないのならば、共に焼かれて、一つに混ざり合ってしまおう。 そうすればいつでも二人でいられる。離れ離れになることもなく、失うことも、終わりを恐れることも、置いていかれる恐怖に打ちひしがれることも、何も無い……。 同じ炎に抱かれて、同じ夢を見よう。もう、怖いことなど一つもない。 オレたちは、もう、永遠に離れないのだから……。 やがて、王子様の身体が、炎に抱かれて燃え尽きていきました。そうして後を追いかけるように、王子様の灰を包み込むようにして、衛士の身体もドロドロの錫となって、溶け尽きてしまいました。 そうして錫と灰とは一つになりました。 二人は、今、ようやく結ばれたのです。 一つになった二つの魂は、赤く燃え盛る炎の中に、いつまでも埋もれ続けていました……。 ♦ 次の朝、燃え尽きた暖炉の灰の中から、一つの小さな錫のかたまりが見つかりました。 その錫のかたまりは、不思議なことに、ハートの形をしていたのだとか。 衛士の王子様を想う心が、錫をハートに変えたのかもしれません。 そのハートの錫は、住人に美しく磨き上げられて、今でも煉瓦造りの家の暖炉の部屋、窓際の背の低い本棚の上に、大切に飾られているのだそうです……。 omocha no Eshi............♦fin♦ |
♦atogaki♦
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