高野史子「黄色い本」


――ジャック・チボーという名の友人ー


『チボー家の人々』といえば、トルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『罪と罰』、 あるいはゲーテの『ファウスト』などといった名作とともに文学青年ならずとも一度は読んだこ とがあるか、読んでみようと思ったことのある本であろう。マルタン・デユ・ガールの『チボー家 の人々』は、1914年に勃発した第一次世界大戦前後のヨーロッパを舞台に、性格の違う兄弟 の対照的な生き方を、つまり滅び行く社会に個として対峙する弟・ジャックと社会的成功を目指 しながら社会とともに滅びてゆく兄・アントワーヌの生き方の違いを主題に世代間の対立や戦争 告発のサブテーマを追及した大河小説である。これが全五巻にわたって最終的に日本に紹介され たのは一九五十年代であり、すべて黄色い表紙の装丁であった。この「黄色い本」を高校生時代 に愛読した高野史子が、家族の桎梏から脱出し、青春の希望と悩みの中で最後は飛行機から反戦 ビラを撒く途中で墜落事故のため味方であるべきフランス軍にスパイと間違えられ、無残に殺さ れてしまうジャックに共感を覚えた読書体験をマンガとして再現したのである。といっても、こ のマンガは『チボー家の人々』という名作を紹介するのが目的ではなく、あくまでも作者の思い 出の中の主人公・ジャックに触れながら、恐らく新潟の田舎町での高校時代の自らの生活を情緒 たっぷりに、時代感覚たっぷりに描くことが目的であるから、原作の主題の深さや重さをこのマ ンガに期待することは的外れである。だから私たちは、原作とはまったく違ったマンガ作品とし てこの『黄色い本』を読まなければならないし、またそれだけの価値のあるマンガ作品となって いることも確かである。マンガにおける「新感覚派」と言われる高野の味わい深い絵はこの作品 でも随所に見られる。例えば、ガラス戸に写った室内の絵(四四頁)は見事というほかない。文 学に純文学というジャンルがあるように、この作品はさしずめマンガにおける純マンガの秀作と 言える。因みに、この作品は今年度の「手塚治虫文化賞」を受け、授賞式の際にお会いした高野 史子さんの控えめな意思の強い人柄がとても印象的であった。

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