−しりあがり寿「真夜中の弥次さん喜多さん」


−生と死の境をさまよい本当の自分を探る−

マガジンハウス刊



(「東海大学新聞」、1999年4月5日号掲載)


一風かわったドタバタ・ギャグマンガで人気のしりあがり寿だが、 ここにきてその作風にとみに落着きと深みを増してきたようである。 1996年から97年にかけて出版された「真夜中の弥次さん喜多さん」 は、ギャグマンガの歴史にまた新しい傾向とパワーを吹き込んだ近 年の傑作のひとつに数えていい。 この作品が、江戸時代の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の一種 のパロディであることはそのタイトルからして容易に推察できる。 しかし一九の作品が主人公「弥次郎兵衛と北八」の旅の失敗談を中 心にした滑稽本であったのに対して、しりあがり寿の「弥次さん喜 多さん」は、その内容はまったく違う。喜多さんは「ヤク中毒者」 であり、中毒症状はますますひどくなるようである。春のポカポカ 陽気のある日、弥次さんはふと喜多さんの麻薬中毒を直し二人して しあわせになろうと「お伊勢参り」に行くことを思いつく。こうし て二人の旅が始まるのであるが、何せたえず幻覚症状に見舞われる 喜多さんである。現実がいつのまにか幻想の世界にかわり、幻想が すぐに現実に戻ってしまうという設定である。いわば現実と幻想の 戯れがこの作品の主要なモチーフである。たとえば横浜のベイブ リッジの冷たい鋼鉄は文明化された日本の現実の象徴であり、そこ に「日本の伝統を守れ」と幻想の富山の薬売りが登場するといった 具合である。 この作品に深みを与えているのは、「生と死」の境をさまようが ごとき幻想の世界において問われる「ほんとうの自分とは?」とい う問題意識である。このため、この作品は一面破天荒なギャグであ りながらも、いっそう味わい深いシリアスな内容も兼ね備えている という不思議な面白さを感じさせてくれる。それはたとえば喜多さ んの幻覚が、死んだ母親に出会ったり過去の幼い日の自分を回想す ることによって自らの存在の原点を探しあてる旅になっているとこ ろに表現される。生きることに疲れ果てた喜多さんに幻想の殿様が 言う。 「君はのぞみ通りの君になればいい、あるべき君であればいい」 さらに後半に至って作者の想像は、生と死の間をさまようことそ のものへと移っていくのであるが、これはマンガにはいささか荷が 重すぎたというべきか。ともあれ、おもしろく読みながらいつのま にか自分の人生を考えさせられるギャグマンガらしからぬシリアス ・ギャグマンガである。


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