塀内夏子「勝利の朝」

小学館:ヤングサンデ−コミックス(1993年)


これは、塀内夏子という私のよく知らない作家の作品だが、これは「いい
マンガ」だと思った。マンガには珍しく少年冤罪事件という硬いテ−マを扱っ
たシリアスなマンガ。
事件は昭和63年、名古屋でアベック連続殺人事件があり、東京では女子高生
コンクリ−ト詰め殺人事件があった年に設定されている。例により、「この物
語はすべてフィクションです」と断わってあるが、参考文献「ぼくたちやって
ない」(横川和夫・保坂渉著、共同通信社)があり、弁護士が監修者になって
いるところを見ても、このマンガが単なるフィクションでないことは容易に推
察できる。
冤罪事件は、基本的人権の保障された戦後の平和憲法のもとでも、それこそ
枚挙にいとまがないほど数多く起こっており、これからも起こらぬ保証はない
だけに、どうしてそんなことが起こるのかについて考えておくに越したことは
ない。その意味で、このマンガは冤罪の発生する原因についてのポイントを押
さえてあり、格好の参考書である。
主人公の少年、森下祐二は事件当時、中学3年生で、仲間の少年2人とともに
「遊ぶ金ほしさに」一人暮らしの老女の家に押し入り、老女を絞殺した上に現
金3万円を強奪した、というものである。逮捕のきっかけが、このマンガではい
ささか説得力に欠けるけれども、要は、殆どの冤罪事件がそうであるように、
状況証拠と警察官の心象だけであり、これが後の取り調べの段階で「自白の強
要」を生むことになる。それにしても、「やってない」人間がどうして「やり
ました」などということを言うのか、と誰しも思う。それは、一言で言えば、
日本の悪名高き「ダイカン」つまり「代用監獄」と拷問に近い警察官の取り調
べにあるというのが司法関係者の一致した見解である。「代用監獄」とは、警
察署内の留置場を「監獄の代用」として、24時間容疑者の身柄を警察署内に拘
束して取り調べを可能にするものである。そのため容疑者は、連日の長時間の
強圧的、暴力的取り調べに耐え難い肉体的、精神的苦痛を受け、ついその場の
苦痛から解放されたいために「やりました」と自白するのだという。
因みに、他の先進諸国では、取り調べをする警察とは別の組織が容疑者の身
柄を確保することによって冤罪がおきないよう、容疑者の人権に配慮している
という。
「勝利の朝」とは、冤罪から起訴された少年たちが、熱血弁護士たちの支援
を得て、自らの強い自立の精神に目覚め、ついに無罪を勝ち得た日の朝を意味
する。実に感動のエンデングではあるが、このマンガは、単にそれだけに終わ
らない。日本の警察の体質と人権意識の問題にまで触れ、一つの冤罪が晴らさ
れたというだけで喜んではいられないのだと、次のように警告を発している。
「警察が自らのあやまちを認めようとしない限り、
えん罪は、またおこる。」(151頁)
こうした良質な法律、裁判関連のマンガが少ないだけに、この「勝利の朝」
は特異な地位を占める優れたマンガである。折角手がけた法律関係の問題意識
を、作者の塀内夏子にはこれからもマンガに活かしてほしいと思う。

E-mail:moon@wing.ncc.u-tokai.ac.jp


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