ベルサイユのばら |
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[解説]
作者の解説によると、この物語の主人公は3人だという。フランス革命で断頭台
の露と消えた悲劇の王妃マリ−・アントワネットとその王妃の警護に当たる近衛
連隊のオスカル、それにフランスに遊学中のスウエ−デンの貴公子フェルゼンの
3人である。しかしその題名の「ベルサイユのばら」からも分かるように、これ
はマリ−・アントワネットの誕生から死に至るまでの38年間の生涯を史実に基
づきながら、なおかつ大胆な創作を加えた「マリ−・アントワネット物語」であ
り、この悲劇の王妃を通して描くフランス革命への讃歌である。興味深いのは、
基本が史実に基づくだけに、どの部分が作者の創作かが読者には見分けがつかな
いほどに巧みな物語構成になっていることである。王妃の身近にいてその警護に
当たる男装の女性軍人オスカルとその忠実な従者であるアンドレは、明らかに作
者の想像になる架空の人物であり、特にオスカルの存在は、作者がアントワネッ
トとフランス革命を見る視点を代表しており、いわば作者自身の分身である。
この意味では、真の主人公はオスカルである。
この二人に比べて、王妃アントワネットの愛人となるフェルゼンを主人公の一
人とするには、いささか無理がある。王妃アントワネットにとっては、夫である
ルイ16世以上にフェルゼンが重大な存在であったということを作者が強調した
いのであろうが、客観的に見て、この物語全体の中ではそれほど大きな位置は占
めていないからである。従って、物語は作者の分身であるオスカルの立場から展
開され、バスチ−ユ監獄襲撃においてオスカルが死んだ後は、作者の目はロベス
ピエ−ルを中心にした革命家たちの行動に共感をもって注がれる。それにしても、
作者の革命への共感がアントワネットの悲劇性を高める結果になるのは、計算さ
れた演出なのか、それとも単なる客観的な歴史叙述なのか、いずれにしても読者
としてはいささか割り切れない不満が残る。そのことは同時に、オスカルの立場
の変化にも言えることである。つまり、オスカルは王妃アントワネットに仕える
誠実な近衛隊長であり、自らも「命を賭して王妃をお守りします」と誓った人物
であるから、もとより王政側の主要人物である。にもかかわらず、革命の気運が
高まってくると、一転して革命側の人間へと立場が変わる。王妃の立場からいえ
ば、オスカルの立場の変化は一種の裏切りであり、今までの忠誠とは何だったの
か、ということになる。オスカルは歴史の大きな波に乗り換えることが出来たが、
王妃アントワネットは最後まで歴史の流れを自覚することが出来ず、取り残され
てしまったという説明をするにしても、作中でのオスカルの変化についての動機
づけが不十分であることは否めない。
こうした印象を持たざるをえないのは、前半から中盤にかけては、華やかで可
憐なベルサイユ宮殿を中心に描く「少女コミック」であるのに対して、フランス
革命勃発以後は客観的な歴史叙述が中心になる「青年コミック」に変わってしま
うという作者自身の変化があるからかも知れない。それにしても、マリ−・アン
トワネットという歴史的人物の生涯とフランス革命劇の史実の中に、実に巧みに
フィクションを組み合わせた作者の構想力とその力量には感心させられる。しか
もそのフィクションのリアリテイには、一種の戸惑いと驚きさえ感じてしまう。
例えば、オスカルが女性でなく、男性として描かれていたら、だれもがそれを
実在の人物と思ってしまうだろう。それほど、オスカルの行動と思想はリアリテイ
をもつものである。とりわけ、「三部会」の開催をめぐって第三身分の代表たち
を排除する命令を拒否し、「国民議会」の味方をするラ・ファイエットらの一部
の貴族たちとともに身を挺して第三身分の代表たちを守った行為や
「さあ! えらびたまえ! 国王の貴族の道具として民衆に銃をむけるか、
自由な市民として民衆とともに、この輝かしい偉業に参加するか!」
そして、さらに「隊長について行きます」という衛兵たちに檄をとばす。
「さあツ!! 勇かんなるしょくん!! 祖国のために民衆とともにたたかおう!!
歴史をつくるのはただひとりの英雄でも将軍でもない、われら人民だ
われらは祖国の名もなき英雄になろう!!」
「自由・・、平等・・、友愛・・
この崇高なる理想の、永遠に人類のかたき礎たらんことを・・」(P140)