つげ義春「無能の人」


―私の「本棚の一冊」(月刊「望星」掲載)ー


 旧い話になるが、昭和四十年代初頭、劇画の旗手と目された白戸三平の『カムイ伝』が 単行本化された時そのキャッチコピーに「ヴィジュアルは映画を凌ぎ、ストーリーは小説 を超えた」とあったのを今でもよく憶えている。当時、カラーテレビの普及で映画が少し 落ち目にあったとはいえ、映画や小説はまだまだ庶民の娯楽の中心であったので、その宣 伝文句は些か誇大広告の感を否めなかった。爾来四十年、確かにマンガ現象の拡大と浸透 がその発行部数や経済効果、膨大な読者数や情報伝達の影響といった面で小説や評論、詩 歌などの活字文芸や映画をはるかに超えていることは今や統計的事実であるが、果たして 「マンガが映画や小説を超えた」ことの内実については子細な倹討を要するところであろ う。  私の本棚の一番目立つところに、カントやヘーゲルやヤスパースといった哲学書と並ん で立派な箱入りの1冊のマンガ本がある。つげ義春の『無能の人』である。これは十年前 に私が本格的にマンガの研究を始めた頃に、私のマンガ観を一変させた思い出の本である。 マンガがこれほど深い思想性を表現できるとは、正直思っていなかったので、読み終わった あと不思議な感動にとらわれたものである。そして私が大学新聞にマンガ評論を書き始めた 時、「人間存在の真実を問う哲学的マンガ」として最初に取り上げたのがこの本であった。 その時、私は次のようなことを書いた。  《つげ義春の下降はついに「人間の死に様」というその極点に達した感があり、鬼気迫る ものがある。世俗的な価値を疾うに否定している主人公の石屋にとって、石が売れるかどう かはどうでもよいことであって、石はむしろ無価値なものの象徴としてただあるがままに存 在しているだけである。そして人生も、石と同じように、本来あるがままに存在している無 価値なものではないのか。だから、主人公は妻に「虫けら」と呼ばれても「無能の人」と軽 蔑されても、それを黙って受容するのである。最後に乞食俳人、井月の「糞まみれの死」が 描かれるが、死は人生の価値の究極的な否定である。死を思いきり無様に描くことによって、 世俗の生に執着する煩悩を徹底的に否定し、物欲や名誉や富を剥ぎ取ったところにある「生 そのもの」をつげ義春は肯定しようとしているのである。このように、『無能の人』はマン ガというにはあまりにも哲学的であり、哲学的というにはあまりにもマンガ的である。》  ところで、今回改めてこの本を読み直して気付いたのだが、その帯に、「元マンガ家の苦 悩の生をとらえてマンガ表現の極点に到達した話題沸騰の問題作」という宣伝文句があった。 「マンガ表現の極点」とは、これまた誇大広告になってしまうであろうが、しかしその墨絵 のような絵のタッチ、一人で精魂傾けて自らの人生そのものを燃焼させて描き込む旧いタイ プのマンガ家は今後現れることはないだろうことを思えば、その表現手法と思想性の深さに おいて「マンガ表現の極点」というのも肯けないではない。因みに、この作品に感動した竹 中直人が監督・主演した映画「無能の人」は、原作に忠実に制作され、ベネチア映画祭国際 批評家連盟賞を受賞したほどの秀作であったが、原作を知る誰もがやはり原作の味わいには 及ばないことを認めるだろう。    私にとってマンガにはマンガでしか表現できない味わいがあることを如実に証明した作品が、 『無能の人』であった。それは例えば、ゴッホの「ひまわり」の絵とそれと同じ構図の写真を 見比べた時の味わいの違いに似たものであろうと考えている。

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