少女幻想恋愛コミック


萩尾望都

ト−マの心臓

小学館叢書:全1巻、1993年4月第5刷
初出は:1974年、週刊少女コミック、第19号(5月5日号)〜第52号(12月15日号)


これは、言ってみれば、「男の子しか
出てこない不思議な少女マンガ」
である。舞台は、ドイツの片田舎
にある「シュロッタ−ベッツ・ギムナ
ジウム」という全寮制の男子高等中学
校、従って男の子しか登場しないのは
当然である。しかしだからといって
「少年マンガ」かというと、さにあ
らず。これは、男の姿をかりて表現
された、れっきとした「少女マンガ」
であるとしか、私には思えない。
なぜなら、ここに表現される「余りにも繊細な愛の世界」は、どう考え
ても少女に特有の感覚に彩られた世界であり、少女的幻想の世界だから
である。
だから私の興味は、「少女マンガ」を描くのに、作者が何故、女子校
ではなく、男子校を舞台にし、完璧なまでに女の子を登場させなかった
のか、ということである。
本当のところは作者自身に尋ねてみないと判らないが、私の推測は
こうである。つまり、そのテ−マが余りにも深刻すぎて、これをまとも
に女の子で描いたら、余りにも生々しく、重々しい内容になり、恐らく
読者である少女たちは息が詰まりそうで、少しも楽しく読み進むという
わけにはいかなかったであろう。そこでその生生しさと深刻さをオブラ
−トに包み、一種の幻想の世界を仮想する必要があった。
そう、だから場所もドイツの片田舎であり、登場人物も男の子ばかり
である。こうすることによって、女の子たちは、安心して幻想の世界の
美しくも切ない「愛の物語」に共感することが出来る。
こうした推測が当たっているかどうかはともかく、男の姿をかりて
「少女マンガ」を描いたことが、このマンガの魅力の一つになっている
ことは間違いないように思われる。だからこのマンガを読んで、同性愛
を描いた嫌らしいマンガだなどと思う人は、恐らく一人もいないはずで
ある。男の姿を借りた「少女マンガ」であることによって、ここに描か
れる「愛」は、男の愛でもなく、女の愛でもなく、むしろ男と女を超え
た、しかし少年・少女期に特有な極めてナイ−ブな、「普遍的な愛」た
り得ているのである。その意味で、このマンガは、基本的には「少女マ
ンガ」であるけれども、男の子が読んでも共感できる要素を持っている。
事実、「このマンガを読んで涙がとまらなかった」という感動の便り
を、私はある男の読者からもらっている。私自身は、さすがに涙するに
は年をとりすぎてナイ−ブな感性を摩耗してしまっているが、それでも
主人公のユ−リが最後にシュロッタ−ベッツを去っていく場面には、仄
かな感動を受け、「絶対愛」についてしばし考えさせられたのだった。
全寮制学園での同性愛的話しを単なる「愛情物語」に終わらせること
なく、青春の時代の「愛」をめぐる微妙な心の動きを見事に描き出して
いるばかりでなく、愛することが同時に傷つけることでもあること、だ
から愛されることが同時に傷つけられることでもあることを、そしてそ
の愛されることとしての傷つけられることを赦すことがいかに難しいこ
とであるかという哲学的・宗教的テ−マをも追究しえているところは、
さすがというべきである。これは、この物語の最後にきて解ることであ
るが、「ト−マ」という少年の存在は、いわば「神的愛」(ギリシャ語
でいう「アガペ−」)の象徴である。「神的愛」は、「人間的愛」と違
って、人間の一切の罪を赦し抱擁する「絶対的な愛」である。
最初、自殺によってユ−リを傷つけた「ト−マの愛」は確かに「人間
的愛」として描かれるが、実はそれは「ト−マ」に「絶対愛」を悟らせ
るために仕組まれた「神的愛」だったのである。だから、「人間的愛」
によって傷つけられた主人公ユ−リが、この「絶対愛」を自覚し、救済
されるまでの物語が、この作品であり、その自覚・救済の導きをする役
目が、「ト−マ」の影武者(「ト−マの再生」=これが「ト−マの心臓」
と題された理由だと考えられる)ともいうべき「エ−リク・フリュ−リ
ンク」である。「フリュ−リンク(Fruehling)」とは、ドイツ語で「春」
の意味であり、「春」は明るい希望の季節でもある。(萩尾望都の登場
人物への命名には、「ポ−の一族」でもそうだが、なかなか意味深なも
のがあり、凝っている)
そのことは、ユ−リがエ−リクの前で「さようなら」を言う最後の場
面で語る次の言葉によって明らかである。

   「愛しているといったその時から、彼はいっさいを許していたのだと、
彼がぼくの罪を知っていたかいなかが問題ではなく、
…ただ、いっさいをなにがあろうと、許していたのだと、
それがわかった時、ぼくは…もう一度、主のみまえで心から、
語りたいと思い…」(448頁)

「ト−マの心臓」は、一見複雑な人間関係があり、スト−リ−の展開
(絵の連続性)に飛躍と断絶があり、時に「少女マンガ」によく見られる
「手抜きの絵」があって、分かりにくい点があるのも確かだが、それらを
差し引いてもこの作品は秀作である。
マンガという表現形式においても、このようなシリアスなテ−マを十分
に説得力のある物語として展開しうるということを実証した見本のような
傑作である。



E-mail:moon@wing.ncc.u-tokai.ac.jp


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