戦争の教訓を忘れた

小林よしのり「戦争論」

幻冬社、1998年刊

「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」(1987年3月高月撮影)


  「ゴーマニズム宣言」で思想マンガを標榜してきた小林よしのりだが、
これはマンガとしては邪道である。もちろんマンガで思想を表現すること自体は結構
なことであるし、思想マンガなるものが存在してもいいわけだが、この程度の「思想
マンガ」は、思想としてもマンガとしても中途半端の二流作品でしかありえないと言
わざるを得ない。つまり、思想をテーマにしただけのどっちつかずの作品にしかなっ
ていないのである。
私のマンガ観からすれば、難しい思想テーマを子供にでも理解できるようにとマン
ガにしたのなら、それはマンガを馬鹿にした話であり、あるいはもともとマンガ家だ
から思想もマンガで表現するというのなら、マンガでなければ描けないような内容と
表現手法を通して思想を表現すべきであるが、彼の作品はマンガとしてのオリジナリ
ティはほとんどない。だから、この程度のマンガならマンガにする理由はないわけで、
堂々と活字の思想書として表現すべきである。その意味で、この作品はマンガではな
い。少なくとも「いいマンガ」ではない。従って、この作品の批評もマンガ作品に対
する批評ではなく、その思想内容についての批評であることを断わっておきたい。

「戦争論」の内容については、部分的に幾つかの点で評価出来るが、その評価でき
る点がそのまま反対の極へと結論づけられる論理、または部分が全体へと単純拡大さ
れる論理が、いかにも非論理的であり、むしろアジテーションになっている点が稚拙
である。
以下、順次列挙してみよう。

A.評価できる点
1.「東京裁判」の不法性の主張(戦争が政治の延長であることの指摘)
2.社会のヨコ軸と歴史のタテ軸の交差点に「個人」を位置づける考え方
3.白色人種の有色人種に対する人種差別の指摘
4.日本軍の残虐行為を示すいくつかの写真がニセ物であることの指摘
5.日本人の誇りと自立を志向している点

B.評価できない点
1. 「東京裁判」の不法性の主張が、そのまま「洗脳システム」に転化される点、ある
いは戦争が政治の延長であることの指摘が、そのまま日本の戦争が「正義の戦争」
へと転化される点

「東京裁判」は、確かに国際法に基づいた裁判ではなく、戦勝国が「見せしめ」のた
めに敢えて強行した無理矢理の裁判であった。というのは、それまで一度足りとも
敗戦国の戦争指導者の戦争責任を問う裁判など開かれたことはなかったからである。
古来、戦争は政治の延長上にあり、話し合いで解決できない場合に、力の論理で
決着をつけるというのは正当な権利の行使と考えられてきたのは確かであり、現在
でも基本的にはそれは変わっていないのである。
従って、歴史上未だ一度たりとも「侵略戦争」というものが存在しなかったこと
も確かである。つまり、どの国のどんな戦争でも「これは侵略戦争である」として
行われた戦争は一つもないのである。その限りでは、「大東亜戦争(太平洋戦争)」
も「正義の戦争」であったと言えるのであるが、それ故にまた、逆説として、どん
な戦争も「正義」ではありえないという普遍的認識が成り立ちうるのである。この
認識に立って初めて国際平和を志向する「国際連盟」が成立し、その現実の姿は別
として、「国際連合」が本来的に存在するはずなのである。
近代国家の理念は、フランス革命で提起された「自由・平等・博愛」の理念によっ
て決定付けられ、二つの世界大戦の教訓から新たに「平和」の理念を追加された。
日本は、幸か不幸か、近代国家の理想とするこの四つの理念を柱とする憲法のもと
に理想国家の建設を目指すべく運命づけられたのである。従って、戦後日本がこの
憲法を受け容れたということは、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)とその基での
「戦争」へと暴走せざるをえなかった天皇制軍国主義体制の「反省」の上に新生日
本として出発したということを意味するのである。
それにもかかわらず、かの「戦争」を「正義の戦争」として正当化することは、
「反省」を無にすることであり、戦後日本を全否定することである。このことは、
それ自体一つの矛盾である。なぜなら、戦後日本を否定するという行為(発言)自
体が、戦後民主主義体制のもとでのみ可能なことだからである。「現体制」を否定
するということ自体が許されなかった戦前の体制に比べれば、戦後体制がどれほど
自由を実現した社会であるかは明白である。
また、日本の戦争だけが「侵略」だとされるのはおかしい。アメリカだってイギ
リスだってソ連だって同じように「侵略戦争」をやったのではないか、という意見
がある。それはそのとおりである。古くは、コロンブスの新大陸侵略以来、ヨーロッ
パの先進国は競って海外植民地の獲得と権益の拡大を図ってきた。とりわけ、19
世紀の資本主義の発達とともに列強のアジアやアフリカにおける植民地争奪戦争は
激しさを加え、被植民地の武力的弾圧と列強同士の争奪戦が幾度となく繰り返され、
遂には二つの世界大戦まで引き起こしてきたことは周知の事実である。そうしたマ
クロ的な視点で言えば、日本の植民地獲得戦争だけを「侵略」とすることは出来な
い。すべての植民地争奪戦争が「侵略」であるに違いない。日本はただこの争奪戦
争において敗北したというだけのことである。「勝てば官軍」という言葉があるよ
うに、勝者がつねに自己を正当化しうる立場にあって、敗者はいつでも勝者の主張
に従わざるをえない弱い立場に立たされるのが、政治の道具としての戦争のルール
である。
だが、重要なことは、日本の植民地獲得戦争を「侵略」としたことによって、欧
米列強の植民地争奪戦争と植民地経営そのものにも「反省」を余儀なくされたこと
である。つまり、欧米列強も従来と同じようには植民地獲得戦争を出来なくなった
し、武力による一方的な弾圧による権益拡大を基本的には行えなくなったというこ
とである。この意味で、コロンブス以来続けられてきた植民地争奪戦争は終焉を迎
えたということが言えるのではないかと思う。その証拠に、第2次世界大戦後アジ
ア、アフリカの植民地が次々に独立して行く動きを欧米列強は武力弾圧することが
出来ず、容認する他なかったという事実がある。
また、植民地争奪戦に敗れた日本が、従来と同じような形の被植民地とならずに
すんだのも、植民地争奪そのものを「侵略」として認識せざるえなくなった世界史
的価値認識の転換がもたらした一つの結果であったと考えることができる。
それゆえ、すべての戦争が「侵略」であり、「悪」であっていいのである。戦争
を「正義」とすることは、世界史の大きな流に逆行する全くのアナクロニズムであ
り、決してそれは日本人の自立と誇りを確立することにはならないのである。

2.社会のヨコ軸と歴史のタテ軸の交差点に「個人」を位置づける考え方が、そのまま
個人を国家に奉仕する存在へと短絡的に結び付ける点
人間が、「人と人との間の存在」であることは、かの和辻哲郎の定義を俟つまでも
なく、夙に様々な思想家が指摘していることであり、今更言うまでもないことである。
人間存在が「社会的存在」(作者のいう「公の存在」)であるとともに「歴史的存在」
であることも、少しでも人間の問題を考えたことのある人なら誰しも解っていることで
ある。しかし個人が社会的存在であることと、社会的存在である個人が自らその中に位
置する社会をどのように捉えるかは、また別問題である。同じように、個人が歴史的存
在だからといって、その歴史を批判的に捉えてならないということはないのである。作
者の単純な論理によれば、個人は歴史的存在であるから、その歴史を肯定せねばならな
い、また社会的存在であるからその社会に奉仕せねばならない、といっているのと同じ
ことである。論理にもならない論理である。
個人が、「公の存在」であることは当然であるとしても、作者は「公」即「国家」だ
と単純化しているが、これは誤りである。「公」は即「国家」ではない。「公」は、哲
学用語でいえば、「共同性」のことであって、「共同性」には様々な共同体レベルがあ
りうるのである。例えば、家族共同体あり、地域共同体あり、利益共同体あり、宗教共
同体あり、そして国家共同体もあるが、さらに世界共同体あるいは人類共同体すらあり
うるのである。
大切なことは、個人を一方的に共同体の奉仕者にしてしまうことではなく、両者の相
互関係を考えることである。ましてや個人を国家の奉仕者にしてしまうことは、悪しき
国家主義への一片の反省もないことを表わしている。

3.白色人種の有色人種に対する人種差別の指摘が、そのまま「白人種に勇敢に戦いを挑
んだ日本人の優秀性」に転化される点

白人の有色人に対する根強い差別意識が存在することは確かであろう。原爆投下にし
ても、それが日本に対して行われた理由の一つに日本人が有色人種であったということ
を指摘する歴史学者もいる。また一般にヨーロッパ先進国の白人社会が、被植民地下の
人間を一段下の人間と見ていただろうことも容易に推察できる。しかしだからといって、
太平洋戦争がそうした人種差別に対する戦いであったことにはならないし、ましてや殺
し合いを本質とする戦争においては、相手を軽蔑し自分の方を優秀とすることなしは行
い得ないのが常であって、相手方の蔑視だけを責めることはできない。日本人だって戦
争中は、「鬼畜米英」と喧伝していたし、日本が植民地にした朝鮮や中国の人々に対し
て「センジン」とか「チャンコロ」という差別語を使っていたのである。「大東亜共栄
圏」とか「アジアから白人種を追い出しアジア民族を解放する」といった表向きの大義
名分がどれほどの内実を伴っていたかは、極めて疑わしい。むしろ表向きのそうした大
義名分に当初期待を寄せた東南アジアの国々を実際にはことごとく裏切ることになった
分、日本の罪は重いといわなければならないだろう。
アジアで唯一植民地化されなかったから日本人は優秀なのか? あるいはヨーロッパ先
進国と同じように植民地を持つ国になり、肩を並べる強国になり、果敢に戦いを挑んだ
から優秀なのか?
劣等感を抱くより優越感を抱く方がいいのかも知れないが、しかし何に対してどのよ
うな優越感を抱くのかが問題である。そもそも優越感は劣等感の裏返しであって、同質
のものである。日本人が優越感を抱くのは、ヨーロッパ人の有色人種に対する優越感と
同じ土俵に立つということであり、同じ有色人種であるアジアの人々に対する差別意識
を共有するということである。つまり、日本人は単に「肌の黄色い白人」になったとい
うだけのことである。この意識は戦後もずっと残っていて、白人には卑屈、アジア人に
は横柄という日本人の悪しき性向をこそ、日本人は反省すべきなのであって、「日本人
は優秀」などと差別意識を煽るようなことを言ってはならないのである。そうした日本
人自身の差別意識を克服したところにしか、真の「民族の誇り」は生まれないことを知
るべきである。

4.日本軍の残虐行為を示すいくつかの写真がニセ物であることの指摘が、そのまま残虐
行為全体の全否定に転化される点
「南京大虐殺」や「毒ガス作戦」の写真などの多くがニセ物であったり、説明文が意図
的であることの検証は、大いに考えさせる説得力をもっているように思う。写真や映像
といったものが、一般に事実をそのまま記録しているとは限らないことは確かである。
その意味では、それらを安易に信じてしまうことは危険である。
しかしこれまでに宣伝された写真や説明書きが間違っていたことと、残虐行為の存在
とは別問題である。私も南京の「大虐殺紀念館」で数々の写真や報道記録や証言記録を
見たけれども、それらがすべてニセ物ということは出来ないように思うし、元日本軍人
自身の証言も、作者の言うように、すべて中国側の洗脳教育によって為されたものとは
思われない。民間人を含む多くの中国人の虐殺行為があったことは疑えない。もちろん
その数については不明である。30万人とか50万人といった数は、恐らく「白髪三千
丈」の類であろうが、(広島の原爆ですら15万人から20万人であるから、人間の力
で虐殺できる数には限りがあろう)ゲリラ兵とされて殺された民間人が多くいたことは
確かであろう。上記「紀念館」の説明書きによれば「平民とすでに武装解除した守城官 兵九千余人、さらに魚雷営で軍民三万余人を殺害し・・」とされている。これを「虐殺
はなかった」というのは間違いである。まだしも「戦争だから仕方がない」という方が
正直であろう。
また、ハルピン郊外の「七三一部隊跡」にも私は足を運んで細菌兵器の道具類や人体
実験の施設跡や証拠品などを見たが、多くの中国人が「丸太」と呼ばれ、人間以下の存
在として取り扱われたことは間違いない。日本の「同胞国」である「満州」においてす
ら、多くの中国人が非道な扱いを受けたことから考えても、戦闘状態の中国本土で狂気
の虐殺が行われたとしても不思議はない。
もちろん、日本軍人が「いつでもどこでも」残虐の限りを尽くしたとは考えられない
し、すべての日本人が中国人を人間以下の扱いをしたわけではなく、中国人たちと友好
な関係を持っていた人たちも多くいたはずである。だから日本人の悪い面だけをあげつ
らって日本と日本人を全面的に悪と規定してしまうことは、一面的であると言える。歴
史的視点の中で日本の植民地政策を見ることも必要である。この視点から見る限り、日
本の植民地政策だけを悪と非難することは確かに出来ないように思う。欧米列強のそれ
も同じように非難されるべきである。その意味では、植民地政策と植民地獲得戦争は相
対的なものである。
従って、日本の植民地政策と植民地獲得戦争を非難することは、欧米列強のそれも非
難することに繋がる。そのことは、戦後の国際関係の新たな価値観として世界的に確立
される方向に進んだことで証明される。しかしそれは結果論であって、結果から原因が
正当化されるわけではない。つまり、植民地獲得戦争の残虐性と非人道性の認識から世
界が民族自治権の尊重と平和主義への志向を生んだからといって、過去の罪が帳消しに
されるわけではないということである。
日本軍の残虐行為が戦争行為の一部であったのか、それとも戦争行為からも逸脱した
犯罪的悪行であったのかということこそ、われわれは問うべきであって、残虐行為を証
明する本当の写真がないから「残虐行為はなかった」と強弁し、自己を全面的に正当化
することは、歴史の教訓を無視し、対立を煽るだけの愚かなことである。

5.日本人の誇りと自立を志向している点が、そのまま日本の過去のすべての全肯定に
なっている点。

作者の論理は、あまりにも「単純な反転」「短絡的結論」と言わざるをえない。折角、
部分的に肯定できる視点を持ちながら、それが一気に正反対のものへ反転してしまう単
純な論理は、マンガとしては明解かも知れないが、それこそまさに著者のいう青少年へ
の「洗脳システム」になっている。一つの事実から結論に至る推論のプロセスをもう少
し冷静にかつ論理的に考えて欲しい。



メールはこちらまで:E-mail:moon@wing.ncc.u-tokai.ac.jp


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