岩明 均『 寄生獣 』


講談社:アフターヌーンKC、全10巻
初出は、「アフターヌーン」1990年1月から1995年2月まで連載


  この作品は、ちょっと変わった面白い
マンガである。
人間の身体の一部に自分でも気づかなかった
能力が潜んでいたらとか、一夜明けると昨日の
自分ではない自分に変身していたらといった変
身願望ないし変身への恐怖といったものは、自
己のアイデンテイテイの確立過程では恐らく誰し
も一度は経験することかも知れない。
こうしたテーマは、以前から多くの文学作品でも取り上げられてきたが、
中でもドイツの不条理の作家カフカの『変身』は有名である。この作品では
一人の銀行員がある朝目が覚めたら大きな芋虫に変身していたことから、周
囲の人々との間に生じる意識のづれを描くことによって人間の本質とは何な
のかを問い掛けているわけだが、岩明均の『寄生獣』では、逆に脳が寄生獣
に侵入され意識の方が変身してしまうという設定である。意識はそのままで
も身体が芋虫に変身してしまえばもはや人間ではなくなるのか、あるいは身
体はそのままでも意識が完全に他の生物に乗っ取られてしまえばもはや人間
ではないのかという問いは、ともに人間の本質を考える上ではある程度有効
な問題設定ではあろうが、恐らく結論を得るのは困難である。なぜなら、意
識と身体との相関性をこそ我々は問うべきであって、そのどちらがより本質
的かを問うべきではないからである。この意味では、『変身』も『寄生獣』
も問題の立て方に問題があると思うのだが、SF的な物語の発想としてはそ
の方がいかにも面白い。特に『寄生獣』の場合には、人間の本質を問うとい
うよりも人口問題を通して人間と自然との共生が作者の主要な問題意識とし
てあって、それを面白いSF的物語仕立てにする関係で、意識のみならず人
間の首から上の部分を徹底して「化け物」に変身させるのである。つまり寄
生獣は、「脳に侵入して首から上と同化して全身を操る。・ ・ちょっと見る
と人間だが、自由に変形し、ゴムのように伸びたり鉄のように硬くもなれる、
そして大変な怪力・・」(1-146f)で、人間を次々とずたずたに切り裂きミン
チ状にしてしまう。「ミンチ殺人事件」の動機は、増えすぎる人口とそれに
伴う自然破壊を抑止するためだと作者は言う。従って、寄生獣の目的は人間を
大量に殺すことにあり、実際に無差別で残酷な殺人の場面が描かれる。
これに対して、主人公である少年、泉新一は自分の右手に寄生した寄生獣
「ミギー」と協力して次々と人間の姿をして現われる怪物寄生獣と壮絶な戦
いを繰り返すのだが、これが単なる人間と寄生生物(パラサイト)との戦い
ではなく、パラサイトと人間の共棲体ないし融合体としての人間とパラサイ
トとの戦いとしたところに、このマンガの面白さの秘訣があるように思う。
つまり主人公は単なる人間の側の利益代表ではなく、パラサイトの立場をも
理解した普遍的問題提起者としての役割を担っているために、ストーリーの
展開を複雑にし、奥行きのあるものにしているからである。
従って、主人公の立場は微妙である。時に、母親を殺され自らの命をも
狙われる人間としてパラサイトと対決し、時に自然破壊者としての人間を
批判し、人間のエゴイズムを戒める自然界全体の代表者としてのパラサイ
トに共感する。どちらかといえば作者の比重は一貫して後者に傾いている。
そのため、至る所で人間批判が行われ、自然界擁護の思想が述べられる。
例えば、こうである。

ミギー「いちばん『悪魔』に近い生物は、やはり人間だと思うぞ・・・
人間はあらゆる種類の生物を殺し食っている」(1巻ー90頁)

新一「人間に害があるからって、その生物には生きる権利がないっていう
のか、人間にとって不都合だとしてもそれは地球全体にしてみれば
むしろ…」 (10巻―144頁)
広川市長(人間のある種の代表「付記」)
「環境保護も動物愛護もすべては人間を目安とした歪なものばか
りだ…」
「人間1種の繁栄よりも生物全体を考える!! そうしてこそ万物の
霊長だ」
「人間に寄生し生物全体のバランスを保つ役割を担う我々から比べ
れば、人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!! いや…寄生獣か!」
(9巻―118f)

このように、寄生獣は人間に反省を促すために作者が人間の体内に送り込
んだ作者自身の自然思想だったのである。この自然思想からすれば、人間の
方こそ自然界に巣食う寄生獣に他ならないという。自然界における人間を
「寄生虫」とか「ガン細胞」であるとかいうように有害な存在と見る考え方
は、近年エコロジー(生態学)や有機的自然観への関心の高まりから言われ
出したことで、特に珍しいことではないが、だからといってその有害な存在
を減らすために人間を大量殺戮するという発想は、いかにも乱暴であり、危
険ですらある。たとえSFマンガといえども、比較的リアルな描画法である
だけに、その残忍な人殺しのシーンは薄気味が悪いし、後味が悪い。まして
寄生獣による人間殺害を心情的に正当化する作者の基本的発想ばかりが表面
に出てきて、人殺しに対する倫理的罪悪感は極めて希薄である。つまり、残
忍な人殺しを描くことによって逆に生命の尊さを実感させるという逆療法の
効果は、ほとんど期待できない仕掛けになっている。
例えば、不良少年の浦上が若い女性を殺害した上に、その腹を裂いて内臓
を取り出し、次のように言う場面がある。

「けっこうぶっ壊れやすいぜ、この玩具…」(V8-155)
こうした人間の、ないし生命の物象化が人間のエゴイズムへの批判として、
あるいは自然界のすべての生命の平等性を表現するために描かれたにしても、
その説得力に欠ける内容の展開であるだけに、生命の物象化を正当化しかね
ない誤解を生み出す危険性が大いにある。
どうもこのマンガは、思想的に見れば最初の前提(設定)に無理がある。
それはパラサイトは自然界全体の象徴であるから決して悪役ではないにもか
かわらず、そのパラサイトの味方でもある主人公と敢えて戦わせるというと
ころにある。
作者は、「付記」の中で、最も強力なパラサイトである「後藤」を「美し
き野生」「偉大なる大自然」の代表選手と呼んでいる。すると人間の方が醜
いエゴイストであり、殺されるべき寄生獣であることになるのか。するとこ
のマンガは、大自然の代表選手である寄生獣と大自然に巣食う人間という寄
生獣との戦いの物語ということになり、そして最後悪役の人間寄生獣が正義
の寄生獣を躊躇しながらも勝利を収めるということになるのか。(最後、戦
闘マシーンと化した殺人鬼パラサイト「後藤」が崩壊してゆくのを見て、主
人公新一は、「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」といって止めを
刺す。V10-147)
どうやらこのマンガを思想的に見ることには限界がある。そもそもこのマ
ンガは最初から思想的表現を意図したものではなかったようである。出来事
が先にあって、それにあとから思想(理屈)をくっつけたもののようである。
だから小難しい思想など言わない方がよいのかも知れない。「面白いからい
いじゃないか」という声も聞こえてくる。
しかし、どこがどう面白いのかを考えないではいられないのが哲学の悪い
癖である。
このマンガが多くの青少年に面白く読まれたということは、事実であろう。
恐らくその面白さの秘密は、人間対大自然の戦いを環境問題で味付けした点
にあったのだろうと思う。そうした大まかな視点と雰囲気を感じて読めば、
確かに細かな設定など気にならないし、全体としては環境問題と人間のエゴ
イズムについて不十分ながら考えさせる内容をもっている。名作とは言えな
いまでも、秀作とは言えるであろう。


閑話休題

読者の一人である天森六康さんの感想を以下に掲載させてもらいます。
参考意見として読んで下さい。尚、何を隠そう、私がマンガの世界に足を
踏み入れた最初のきっかけが、天森さんに薦められて読んだ『寄生獣』
だったのです。その意味で私にとって記念すべきマンガなのです。

天森六康さんの『寄生獣』についての感想
rokkoh@baywell.or.jp

確か(これもなつかしい)「マルコポーロ」誌で栗本慎一郎氏が評して
いたと記憶していますが、「自分の体が自分のものでないような異物感」
が、「寄生獣」はじめいろんなものに染み込んでいるとか。
そしてその感覚が多くの人に――特に「若者」に共感を呼ぶのはどうい
うわけか、といった問題提起がありました。
今、「少年サンデー」誌上に連載中の「ARMS」という物語も体の一
部が変形し、兵器として暴走するという(今のところ)3人の少年の話で
すが、これも「寄生獣」亜種という趣です。
私の知る限りでこの手のパターンとしてわりと古いと思われるのは菊池
秀行著の小説、「バンパイアハンターD」の「左手」かと思います。10
年ほど前になるでしょうか。
当世は自分の体がそうなら他人の体なんてますます体じゃないと思って
しまう人間が増えている――というといかにも分析臭くて難ですが、こう
言っている私自身、最近は頭ばっかり使ってて身体機能を発揮することは
ぜーんぜんありません。

「寄生獣」作者・岩明均氏の待望の新シリーズ「七夕の国」(ビッグコ
ミックス)の1巻が発売になりましたが、もうお読みになりましたで
しょうか。出だしから滅法面白く、「風呂敷」は広がり放題、今後の展開
が楽しみですが、私の妹は「手塚流のエンターテイメントの匂いがする」
と言っており、私も納得しています。


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