小池一夫・作、小島剛夕・画

子連れ狼

小池書院:道草文庫(第1巻は1995年3月)
初出は1970年9月より「漫画アクション」に連載。


(C)小池一夫・小島剛夕/小池書院:道草文庫より


ご存知、橋幸夫歌うところの「シトシトピッチャン、シトピッチャン」
の主題歌(小池一夫作詞・吉田正作曲)で知らぬ者とてない時代劇マンガの古典。
といってもすでに1世代前の作品であるから、ご存じない若い人もいるかもしれない。
舞台は江戸中期とあるが、時代区分はそれ自体歴史観に左右されるから、いつから
中期とするかには異論もあろう。徳川家康が征夷大将軍になって江戸幕府を開いたの
が関ヶ原の戦いの2年後、1603年の2月12日、それから最後の第15代将軍慶
喜が大政奉還した1867年10月14日までの264年間の江戸時代を単純に3等
分して、それを仮に初期・中期・後期とするならば、中期は元禄時代(1688年〜
1704年)以降ということになり、このマンガの主人公、「子連れ狼」こと拝(オガミ)
一刀の生きた時代は、明らかにそれ以前と推察出来るから、江戸初期ということになる。
このマンガの時代背景とその主題に関しては、第9話(其之九「刺客街道」)
に次のように明確に述べられている。

徳川幕府の大名に対する暗黒支配のために三つの組織が生まれた。一つは大名
廃絶の理由を探り出すお庭番と呼ばれる探索人、そして政策実施上邪魔になる要人
を暗殺する刺客人、さらには廃絶・切腹を命じた大名の介錯をする介錯人の三つで
ある。探索人は黒鍬一族が、刺客人には柳生一族が、そして介錯人には拝一族があ
たり、ともに幕閣影の組織として諸大名の心胆を寒からしめていたのである。
しかし、明暦年間に拝一族が姿を消し、かわって柳生一族が介錯人をかねるよう
になったと史実にあり・・・。さらにこの柳生一族もお代がわりの天和元年に断絶
しているのである。
刺客人と介錯人! この謎を追い解明せんとするのが、本編「子連れ狼」である。
(第1巻、282〜283頁)
因みに、明暦年間とは第4代将軍家綱支配下の1655年から1658年までの
4年間であり、天和元年は1681年である。物語は、柳生一族の陰謀によってお
家断絶と切腹を命じられた拝一刀が復讐のために闇の刺客人となって生き延びると
いう設定から始まっているので、その時代は明暦年間以降だと考えるのが自然であ
る。
それにしても、この作品が描かれた1970年代初めの日本は、高度成長期の
延長にあり、いわば第1次のバブル期であって、決して暗い時代ではないにもか
かわらず、どうしてこの主人公のような「修羅の道を選び、冥府魔道を生きてい
く」暗い人物が、多くの大衆の人気を博したのであろうか。振り返ってみれば、
不思議な気もするが、よくよく考えてみれば、逆にまた当然のような気もする。
どうやらここらに人気作品を生み出す秘訣のようなものがありそうなので、少
し考察してみよう。

世の中が暗い時には、その暗さを反映した作品が生まれるはずだし、逆に明る
い時にはその明るさを反映した作品が好まれるというのが、一般的な常識であろ
う。 ところが、また世の中が暗ければその暗さから脱出したいという願望も強く
なるし、明るければ明るいでその明るさに懐疑の念や不安を抱くのも人情であろ
う。とすれば、明暗裏表、いつの時代でも明るい作品もあれば、暗い作品もある
ということになる。ただ、明るい時代と暗い時代の明暗の現われ方に違いがある。
つまり、暗い時代に現われる暗い作品と明るい時代に現われる明るい作品は、
その時代をそのまま反映した、いわば現実認識型の作品であり、逆に暗い時代に
現われる明るい作品と明るい時代に現われる暗い作品は現実回避型ないしは現実
批判型と呼んでよかろう。もちろんすべての作品がこの二つのパタ−ンのいずれ
かに明確に区分されるわけではないし、二つのパタ−ンの中間型ないし混在型も
あるであろうが、おおよその作品がこの二つのパタ−ンに区分できるのではない
だろうか。そうだとして、次に問題となるのは、現実認識そのものの内容と質が、
また現実批判の適否がどれほど説得力があり、人々の共感と賛同を勝ち得るかと
いうことであろう。

こうした観点からすると、明るい時代の暗い作品である「子連れ狼」は、典型的
な「現実批判型」の作品のように思われる。それは主人公が既成の社会体制から逃
避したところから現実を見る立場にあるので、主人公の行為は必然的に反体制的に
ならざるを得ないからである。反体制的であることは必ずしも反倫理的であること
を意味するわけではないけれども、この作品の場合には、闇の刺客人というその行
為の性格上、かなりの部分が反倫理的にもなっているところが面白い。通常の物語
であれば、人間の命を奪う暗殺をする以上、その行為を正当化するための何らかの
理由を付け加えるものであるが、この作品ではそうした正当化は殆んどない。つま
り、拝一刀は正義のために悪人を暗殺するのでもなく、自らの恨みを晴らすために
暗殺するのでもない。敢えていえば、ビジネスとしての暗殺である。500両の金
さえ出せば、誰でも暗殺を依頼できるし、仕事として引き受けた以上どんな困難な
状況でもやり遂げるという徹底したプロ意識に貫かれたビジネスである。従って、
ここでは善悪の判断は無用であり、むしろ邪魔でさえある。暗殺という犯罪行為に
対する逡巡も良心の呵責も微塵もない。たとえ暗殺の対象が領民の信望あつき高僧
であろうと(其之十三「無門関」)、強力な権力者である前藩主であろうと(其之
十一「寒到来」)、強姦された男に復讐を果たした女であろうと(其之二十三「乞
胸お雪」)、容赦なく暗殺できなければ暗殺のプロとはいえぬ、そう作者は言って
いるかのようである。
それにしてもどうしてこのような「金のために人を殺す」という非倫理的な行為
が大衆に受け入れられ、テレビドラマや演劇にまで登場し、人々の共感を得たので
あろうか?そのプロフェッショナル意識が、バブル経済成長期の企業戦士たちの心
を捉えたのか?それとも、自らの目的遂行のためにはあらゆる苦難を耐え忍び、最
後には群がる敵をバッタバッタと切り倒す強い男に快哉し、共鳴を覚えたのであろ
うか?あるいはまた、陰謀によって一族を滅ぼされた男がその幼い子どもとともに
「冥府魔道」を放浪せざるをえなくなった悲運に同情し、柳生一族への復讐の悲願
達成を応援したのであろうか?


(C)小池一夫・小島剛夕/小池書院:道草文庫より


恐らくそれらのいずれの理由も当たって
いるように思われる。徹底したプロ意識
も強い男への憧れも悲運の親子への同情と
応援も、70年代初期の日本の精神的状況
に合致したものであったと考えられる。
特にこのマンガで特筆すべきは、男親と
その幼き子どもとの異例の親子関係である。
このマンガの新しさと成功の大半は、
徹底したプロフェッショナルなビジネスの
世界に、従来の観念からすれば「女の仕事」
であるはずの「子育て」という女性原理を
導入したところにある。それも、この作品
における親子は、いわば運命共同体として
の強い絆で結ばれている。これほど濃密で、
しかも厳しい親子関係は、善悪は別として、
日本社会が久しく忘れていたものであった
ろう。強い父親という父権の復権と父親も
「子育て」をするという新しい時代の男女
平等観を同時に体現した主人公を創り上げた
ところに、このマンガの真価があると思われる。

(演出家の蜷川幸雄氏も、このマンガにおける「親子関係の新しさ」に注目した一人である
が、その詳細については「別の機会に」ということでまだ語られていない。第2巻の
「解説」299頁参照)

*写真掲載を許可して頂いた小池書院のご好意に感謝します。(無断転載は固くお断りします)


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