内海隆一郎原作・谷口ジロ−作画

人びとシリ−ズ「欅の木」

小学館:1993年11月、ビッグコミックス・スペシャル
初出:ビッグコミック1993年5月10日号〜8月25日号に掲載


表題作の「欅の木」の他に7つの珠玉の
短編を集めた作品集。いずれも心に沁み
る感動の「私小説風」エピソ−ド。
人間と自然との、人間と人間との心の触
れ合いが、叙情たっぷりに描かれる。

「欅の木」は、ある会社経営者の老夫婦
が仕事を息子に譲って、老後を静かに暮
らそうと、郊外の広い庭のある一戸建て
の家に引っ越してきたところから始まる。
その家の庭には樹齢何百年という大きな欅の木があって、毎年春になると
一面にきれいな若芽をつけ、次第に緑に成長して夏には涼しい木陰を作って
くれる。
ところが、秋になり落ち葉が風に運ばれるようになると、隣近所から苦情
がきた。庭や玄関が落ち葉で一杯になり、雨樋が詰まって迷惑だから、処分
してくれというわけである。老夫婦の原田さんも、隣近所とのトラブルは避
けたいというので、初めは、次の年に葉が繁る前にはその欅の木を切ること
を約束する。
冬が過ぎ、春になって、再び欅の木が鮮やかな新緑をつける頃になった。
「またご近所の眼が険しくなってきましたよ。」という奥さんの言葉に、原
田さんは植木屋に頼んでいよいよ欅の木を始末する覚悟を決める。ところが、
そんなとき一人の老人がこの欅の木を眺めに訪ねてくる。以前、この家に住
んでいて、「あの木が新芽をふく時がわたしの毎年の楽しみでした」という
老人だった。二人は鮮やかな緑を萌えたたせている欅を眺めながら意気投合
する。
いよいよ欅を切り倒す日、この老人も「見守りたいから」と再びやってき
た。老人と原田さんは縁側に座って、植木屋が屈強な三人の男を連れてやっ
てくるまで、お茶を飲みながら言葉少なに待っている。
老人が言う。「欅の方が先に住んでいたんです。そこにわたしが住むよう
になって、ずっと後に、まわりの家が建ち始めたんです。それなのに、葉を
落とすからといって、厄介者にするのは後から来た人間の身勝手というもの
ではありませんか。」(24頁)
原田さんも、この老人の話しを聴きながら次第に気が変わる。「おっしゃ
るとおりですよ。落葉を嫌うのはわれわれが自然と一緒に生きているという
事を忘れている。」(25頁)
原田さんは、やってきた植木屋に、「切るのはやめたい」と申し出る。す
ると、植木屋も、「実はわたしも立木を切り倒すのが大嫌いでしてね。やつ
らには心があるんです。」と賛成する。植木屋のいう「心」とは、こういう
ことである。「一向に実をつけない木や、花の色づきの悪い木の前で、“こ
いつはだめだから切ってしまおう“と話していると、その年は心を入れかえ
たように大きな実や美しい花をつけるんです。」(27頁)
原田さんは、「ようし、あくまで近所迷惑と責めたてるなら、雨樋の掃除
くらいわたしが引き受けようじゃないか!」と決意する。

たかだか欅の木一本を素材に、原作の面白さにも劣らず、劇画としてこの
作品のようにジワッと心に沁みる作品を描き出すには、それなりの人生観の
裏付けと相当の画力がなければ出来ないことである。谷口ジロ−の晴朗明快
な絵には、そうした人生観と人間の心情を融合した叙情性が感じられる。か
つてマンガ表現において、ここまで人生観を表現しえた作品が他にどれほど
あっただろうか。私の知る限り、つげ義春のみである。つげ義春の哲学的な
「人生マンガ」は、谷口ジロ−に継承されていたのだ。例え、二人が師弟関
係にも、何らの影響関係にもないとしてもである。


E-mail:moon@wing.ncc.u-tokai.ac.jp


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