大河歴史ロマン


坂口 尚

あっかんべエ

一休

講談社:アフタ−ヌ−ンKCデラックス
全4巻(1993年12月〜1996年1月)
初出は、「アフタ−ヌ−ン」1993年7月号より1996年1月号まで連載


これは、「すごい」マンガである。
何が「すごい」かというと、マンガが持ちうる
表現形式・内容の両面において、これまで私が読
んだ中の最高傑作の一つであると、言ってもよい
ほどに「すごい」のである。
まず、その絵が精細にして正確、しかも時に味
わいのある暖かい描画あり、時に迫力ある凄惨な
場面あり。またその内容が広く、かつ奥が深い。
へたな思想書や宗教書よりはるかに説得力がある
うえに、日本の15世紀の歴史を知る上でも大い
に参考になる。これは、間違いなくマンガ家、坂口
尚が自らの命と引き換えに後世に残した渾身のライ
フ・ワ−クであり、マンガ史に残る名作の一つであ
ろう。
時は、今から600年前、14世紀末の室町時代に溯る。足利三代将軍・義満
の全盛期、1336年12月の後醍醐天皇の吉野遷幸以来半世紀に及ぶ南北朝の
対立・抗争にようやく終止符が打たれたのが1392年10月であった。この時
の「合一」の条件は、@南朝の後亀山天皇(大覚寺統)は北朝の後小松天皇(持
明院統)に三種の神器を渡すこと、A今後、皇位は両統迭立(交互に出す)とす
る、というものであったが、この「合一」そのものが将軍義満の王朝政権奪取の
野望の産物であったから、両統迭立の約束は守られるはずもなかった。従って、
両統の対立・抗争は表面では消えたように見えても、裏では様々な思惑や駆け引
きがあったのである。
ともあれ、世は足利幕府の最盛期であり、絢爛豪華な北山文化に続く東山文化
の花が咲くのであるが、しかしそれは国民の中のごく一部である貴族や僧侶階級
の中での出来事の過ぎず、そしてそうした支配者層の文化が栄えれば栄えるほど
それを経済的に支える国民の大多数のいわゆる「民・百姓」の生活は困窮してゆ
くというのが、どこの国でも封建制時代の歴史の通例である。例えば、ルイ14
世からフランス革命当時のルイ16世に至るフランスがそうであり、清朝時代の
中国がそうであろう。とりわけ日本の14世紀から15世紀の室町時代を振り返
る時、優雅で華やかな貴族文化とその対極にある戦乱や庶民の困窮と悲惨の両面
を見なければ歴史の実相は浮かび上がらない。その意味で、坂口尚のこの大河ロ
マン『あっかんべエ 一休』は、まさにその時代の両面を身をもって体験した一休
という人物を主人公としたことによって、まず成功しているばかりでなく、一休
という一人物の生涯を通して実に見事に歴史の実相を描ききっている。
このマンガの主人公、「頓智話」で今でも国民的人気のある一休宗純が生まれ
たのは、南北朝合一のなったちょうど2年後、つまり1394年1月1日、京都
は嵯峨野あたりであった。それも、南北朝統一後の最初の天皇、後小松天皇を父
とし、その側女の伊予局(日野照子)を母とした運命のいたずらが、一休を「風
狂なる」生涯へと導くことになったといえる。天皇の落胤が何故に「風狂なる」
生涯を送ることになったのか? それは、後小松天皇が北朝の人であったのに対
して、側女の伊予局が南朝の出自であったことに起因する。ともあれ一休は生ま
れた時から世に憚る「日陰者」の運命を背負うことになったのである。
一休宗純は、幼名を千菊丸といい、6歳の時(1399年)に「立派な」僧侶
になるべく、京都山城の臨済宗安国寺に預けられ、修行僧「周健」となった。
安国寺は、京都五山(相国寺・天竜寺・健仁寺・東福寺・万寿寺、これらの上
に南禅寺があった)・十刹の十刹に属する寺であり、幕府により領地を与えられ
篤く保護された叢林の一つであった。叢林とは、言葉の意味は、「草木の乱れず
して生ずるを叢といい、木の乱れずして長ずるを林という。その内に、規矩法度
あるをいうなり」(第1巻168頁)だが、一般には幕府に保護され、支配下に
ある官寺の総称であり、厳しい戒律と修行を宗としていた。
6歳の子どもにとって、こうした厳しい修行の場での生活がどのようなもので
あったか、想像に難くないが、「周健」が母親への追慕と秘められた父親への屈
折した思いの中で厳しい修行に耐えながら成長していく様が、このマンガでは実
にリアリテイある画像と会話文と解説によって展開されている。
周健は禅の道を志しながら修行を積むに従って、周囲の僧侶や貴族たちの名利
心や堕落や欺瞞に疑問を抱きはじめる。そして遂に、周健17歳の時、「五山叢
林は欺瞞だらけだ!」(第1巻179頁)と叫び、安国寺を飛び出し、出世や名
利とは無縁の真の禅の道を実践しているかに思えた破れ寺西金寺の為謙宗為(通
称、謙翁和尚)に弟子入りする。これより、周健は「宗純」となる。
この謙翁和尚のもとで、宗純は叢林でのこれまでの修行とは全く違った、いわ
ば俗塵にまみれての修行を積むが、師の心がまだ若い宗純にはよく理解できず、
半信半疑の中での修行が続く。4年半が経ち、謙翁和尚は他界するが、その死の
間際に、禅の道の究極の悟りの境地ともいうべき次のような言葉を残す。
「おまえが ”チリ”という時 ”清浄”が、”浄らか”という時、”汚れ”た ものがおまえの心の中に生まれるのじゃ。おまえが ”善き”ものと思う時、 おまえの心は ”悪しき”ものを生んでいるのじゃ」(第1巻278頁)
この言葉は、ひたすら「浄らかな」心と「善き」心を求めて修行してきた宗純
にとっては、谷底に突き落とされるような衝撃であり、悩みは深まるばかりであ
った。このショックから宗純が立ち直り、その言葉の境地に近づくことが出来る
のは、次に自らの師と仰いだ華叟宗曇禅師のもとでの修行の過程においてであっ
た。
華叟禅師は、大徳寺派の第一の高僧として知られ、今は幕府の干渉が強くなっ
た大徳寺を離れ、琵琶湖畔の片田舎(堅田)に引っ込み、禅興庵なる粗末な道場
で清貧の暮らしを送っていた。華叟禅師のもとでの修行は、宗純を大きく成長さ
た。宗純25歳の春、琵琶法師の歌う「平家物語」の一節を聴くうちに、師から
出された公案(禅宗で修行者に、悟りを開くために与えられる課題)を解く。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の 理をあらわす、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」 (第2巻76頁)
この一節を聴いて、宗純が詠んだ歌。
「有漏地より 無漏地に帰る 一休み 雨降らば降れ 風ふかば吹け」
これより、宗純は「一休」という道号を師よりもらい、一休宗純と名乗ること
になった。(第2巻94頁)それから約1年後、1420年初夏、一休26歳の
時、闇夜の静寂の中での鴉の鳴き声とともに一休は、一つの悟りを得る。それは
「自我の放棄」ないし「自我の天地万物との一体化」ともいうべき境地である。
ドイツの哲学者・ハイデッガ−のいう「Gelassenheit」(放下と訳される)に
近いものであろう。華叟禅師の死後、一休は放浪の果てに泉州堺の町に「集雲庵」
なる粗末な庵を結び、名誉や富や体裁に囚われない自由奔放な生活を送る。それ
が世間の目には「風狂」と映る。一休の「風狂なる」生涯は、三つの要素からも
たらされたもののように思われる。一つは、その特異な出自であり、二つに宗教
者としての人間愛であり、三つめに戦乱と民衆の困窮が絶え間なく打ち続く15
世紀という時代状況である。この三つの要素を掛け合わせたところに、「あまり
にも人間的な」、そして「あまりにも純粋な」一休宗純の「風狂なる」生涯が形
成されたのである。
一休は、一度だけその父である後小松法皇に面会している。それは、一休が
38歳で、父法皇が57歳の1432年10月のことで、法皇は一休禅師と面会
した数日後に亡くなったのだという。(第3巻275頁)
15世紀最大の戦争、「応仁の乱」(1467年〜1477年)を経て、一休
は88年の長い生涯を終える。文明13年(1481年)11月21日、「一休
宗純は座したまま逝った」(第4巻329頁)という。最後は、一休と晩年を共
にした盲目の森女に、「死にとうない」と言ったのかどうか。



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