マンガにおける表現技法の進化
ー何がマンガを文芸に成長させたのかー
高月義照
感性デザイン学科
Evolution of Expression Techniques in
Manga
--What made Manga a literary art ?--
TAKATSUKI YOSHITERU
Department of
Perceptual Human Interface Design
(要約)
およそ半世紀前までは、多くの人々が文学作品や映画などからいろいろな知識を吸収したものであった。ところがマンガ文化の普及とともにそうした文芸に代わってマンガが若者たちの主要な情報源になってきた。その意味で、マンガが現代の文芸に成長しているのである。文芸になったばかりでなく、マンガ文化は、今や世界各地に輸出され、多くの人たちに読まれ、またマンガから派生したアニメやキャラクターグッズ、ゲーム、あるいはコスプレなどの文化現象として拡大しつつある。「MANGA」は今や世界共通語となっている。
このように、マンガが文芸へと成長し、世界に誇る日本を代表する文化の一つにまでなりえた秘密はどこにあるのか。その秘密の鍵はどこにあるのか、それを明らかにするのが本論文の目的である。
その秘密を解く最大の鍵は、一言でいうと、マンガにおける表現技法の進化にあるというのが私の考えである。つまり、この半世紀の間に表現技法の上で様々な工夫が加えられ、進化を遂げてきたことによって、それまで子供の娯楽の対象でしかなかったマンガが大人の鑑賞と読書に十二分に値する文芸に成長してきたというのが私の考えである。
それを論証するために、マンガの構成要素である「絵」と「文」と「記号(オノマトペ)」の3つのそれぞれの表現技法にどのような進化があったのかを明らかにする。
「絵」については、イメージ重視の繊細な描写と精密な描写の進化があり、それに「コマ割り」の多様化によって心理描写が可能となった。また「文」についても「吹き出し」のパターン化と相俟って文字そのものによる感情表現が可能となった。さらに「記号」の多様化と多用によっていっそうダイナミックな表現が可能となったことなどが主な内容である。
はじめにーマンガの定義
本論に入る前に、この研究で対象とするマンガとは何かということを定義しておく必要がある。なぜなら一言でマンガといっても、その種類は様々であり、それぞれに異なった目的と特徴をもっているからである。
旧来、マンガは伝統的に漢字で「漫画」と表記されてきた。この意味での「漫画」は、古くは平安時代の「鳥獣戯画」から江戸時代の「北斎漫画」を経て、戦後10数年、つまり昭和30年代くらいまで続いて来たといえる。さらにこれとは別に、子供向けの「漫画」については、平仮名で「まんが」という表記があり、これは現在でも使用されている。漢字の「漫画」表記が、「マンガ」という片仮名表記に変わった理由は、昭和40年代からの「日本漫画」の海外普及、つまりグローバル化である。それというのも、日本には外国由来の事物を片仮名表記するという習慣があり、グローバル化した「漫画」をもはや日本だけのものではなく、海外由来の事物と同等と見なしたところから、「漫画」が「マンガ」に変わったと見るのが妥当なところである。加えて、海外における「漫画」の評価がある。つまり、海外にも旧来から「漫画」というジャンルは存在し、それらは「cartoon」とか「comic」と呼称されていたのであるが、日本から輸入された「漫画」がそうした呼称で呼ばれることなく、敢えて「manga」とローマ字表記が採用されたのは、「日本漫画」の異質性のためである。
つまり、海外では「日本漫画」は「cartoon」とも「comic」とも違うものとして受容され、「manga」と表記されるようになったのである。海外において「manga」と呼称されるものがその出処地である日本においても「マンガ」とカタカナで呼ばれるようになったのである。(cf.1)
ところで、グローバル化した「manga」のほとんどは、いわゆる「ストーリー・マンガ」であることをここで指摘して置くことは重要である。というのは、漫画にも1コマ・漫画、4コマ・漫画、短編漫画、それにストーリー・マンガなどがあり、ストーリー・マンガ以外のものは海外での「manga」のカテゴリーに含まれないのが実情だからである。例えば、イギリスの書店では、「graphic novels」の中で、「manga」と「comic」が共存しているのが普通であるし、フランスでも伝統的な漫画は、「bandes dessinèe」と呼称され、「manga」は独立のジャンルに分類されのが現状、ドイツやたのヨーロッパ諸国でも事情はほぼ同じである。今や、日本発のストーリー・マンガを中心とした「manga」は世界共通語である。
そこで本論文で表現技法の研究対象として取り上げるマンガも、「manga」に相当するストーリー・マンガであることを予めはっきりさせておきたい。
1.マンガの構成要素
マンガは次の3つの要素から出来ている。つまり、絵と文と記号である。私の調査によれば、マンガは平均的に、絵の部分が6割、文が3割、残り1割を記号が占めている。絵には、画風の違いから大別すると「イメージ画」(an imaginative-picture)と「写実画」(a realistic-picture)の2種があり、それぞれに進化している。また文(sentence,words)については、マンガにおいては基本的に「吹き出し」(speech baloon)と呼ばれる独特の枠の中に記述されるが、表現技法の進化とともにそれ以外のスペースに記述されることも少なくない。「吹き出し」に記述される場合とそれ以外の記述とではもちろん意味が異なるのであり、ここにも表現技法上の進化が見られる。また、記号の中には、音声を表す「擬声語」(phonetic words)と様態を表現する「擬態語」(mimetic words)との2種があり、これらを「オノマトペ」(onomatopoeia)と総称する。(cf.2) このオノマトペの多様化と複雑化は近年ますます進んでおり、マンガ表現の大きな特徴となっている。
これら3つの構成要素それぞれに、表現技法上どのような進化が見られ、そしてそれらがマンガにどのような質的向上をもたらしたのかを、次に考察する。
2.マンガにおける絵の特徴と進化
マンガにおける絵は、大別して「イメージ画」と「写実画」の2種に分類できることは先に述べた通りである。では、「イメージ画」とはどのような画風をいうのかといえば、作者が描く対象、人物であれ、風景であれ、それらのイメージを強調する絵であり、イメージを表現するのに必要な部分だけを描く画風であり、それ以外の部分については描く必要はない。たとえば、あるキャラクターの表情ないし様子を描けば十分であり、その背景についてはまったく描かないか、必要最小限描けばいいわけである。
図1は、池田理代子の『ベルサイユのばら』第1巻の表紙である。(cf.3)
ここには、主人公の美しい女性の上半身像が描かれているが、その特徴は王冠を頂いた彼女の優美な姿と高貴な表情であり、加えて背景に装飾された薔薇の花が華麗な雰囲気を醸し出している。それ 以外に背景は描かれていない。この女性が、この作品の主人公の一人であるルイ16世王妃、マリー・アントワネットであるを読者に印象づけることがこの絵の狙いである。実際のマリー・アントワネットがこのような華麗な女性であったかどうかは別問題であり、これはあくまで作者の思い描く主人公のイメージである。ここでは、読者は、主人公がいかに魅力的な女性であるかというイメージを与えられるだけであり、彼女がどこにいるのか、今、何をしているのかということはまったく示されないし、その必要もないのである。
こうした表現技法は、いわゆる少女マンガにおいて多用される傾向にある。このマンガが登場した昭和48年以前には、こうした華麗にビジュアル化されたマンガは存在しなかったのである。こうした優美な絵と華麗な人物の登場は、当時の少女たちの夢と関心を惹起し、少女マンガ・ブームを巻き起こしたのである。
図1 池田理代子『ベルサイユのばら』 図2 谷岡ヤスジ『谷岡ヤスジ傑作選 天才の証明』
次の図2もまた、少し変わったイメージ画の一例である。(cf.4)
これは、代表的なギャグ・マンガ家、谷岡ヤスジの『谷岡ヤスジ傑作選』の中の一コマである。大きな石を抱えた子供が学校の建物の屋上に上って、学校そのものを破壊しようとしているイメージを誇張表現したものである。このようなことは、現実にはありえないのであるが、作者の学校教育、とくに1970年代に問題になった「受験競争」といわれる教育の現状に対する作者の批判がイメージ化されている。読者は、この一枚の絵を見るだけで直観的に作者の意図を読み取ることができる。その意味で、イメージ画は作者のメッセージをビジュアル化したものである。マンガにおいては、特にギャグ・マンガにおいてはこうした非現実的な表現も許される。
本来、日本のストーリー・マンガは、一枚の絵ではなく、連続するコマの流れから、つまりコンテクストの中において初めて了解可能であるといわれる。(cf.4) しかし時には、こうした一枚の象徴的な絵からも作者の意図を了解することもできるところに、イメージ画の特徴がある。
次の図3は、またもうひとつ別のタイプのイメージ画の一例である。(cf.5)
図3 萩尾望都『トーマの心臓』
これは、少年期の純粋な愛の姿を繊細なタッチで描いた萩尾望都の傑作『トーマの心臓』の1頁で、こ
の絵の背景の暗闇は、人間の心の中を象徴するものである。したがって、これらの台詞は、実際に発言された言葉ではなく、心の中の思いを表現したものである。一種の心理描写である。こうした深層心理までも表現できるようになったことによって、マンガは文学のレベルに達することが出来るようになった。
背景の暗闇そのものが、一つのイメージであり、主人公の失望と悲しみの心の中を象徴するものである。そして、上にのびる梯子の絵は、遠くに去ってしまった愛する人との距離を表現している。さらに興味深いのは、暗闇の中に針のようにとげとげしく浮き出た「吹き出し」(speech balloon)に記述されたモノローグである。これらの台詞は、実際に発言された言葉ではなく、心の中の思いを表現したものである。この「吹き出し」の形態そのものが、その中の台詞の「怒り」や「驚き」の内容を示唆するものである。つまり、これらすべての描画が、以前の規格的なコマ構成おいて、実際に発話された台詞しか記述されなかった時代のマンガでは実現できなかった、一種の心理描写になっているのである。
こうした深層心理までも絵画的に表現できるようになったことは、マンガ表現の大きな進化である。 ここに至って、マンガは文学にも勝るとも劣らぬレベルの表現様式を獲得することが出来るようにな
ったと考えられる。
一方、写実画の進化も著しいものがある。写実画は、1950年代後半から登場した「劇画」から発
展したものである。『ゴルゴ13』で名高いさいとうたかをや辰巳よしひろによって提唱された「劇画」とは、彼らの造語、「theater picture」の意味であり、劇場映画のような絵を目指すものである。つまり、映画を連続する一連の静止画として見せようというものである。従って、「劇画」の特徴は、人物もその背景も、出来るだけありのままに描こうとする点にある。たとえば、人間のこぶしを描くのに、以前はおおまかに輪郭が描かれ、それが人間のこぶしであることが分かればよかった。しかし、「劇画」においては、精密さ、詳細さが重視されるようになった。指の1本、1本、爪、しわまで描かれるようになった。ここでは、背景も省略せず、その場所がどこなのか、どのような状況の中に人物がいるのかを読者に明確に伝えることが重要となった。
次の図4は、写実画の典型的例である。(cf.6)
図4浦沢直樹の『MONSTER』
参考写真・実際の現場の夜景写真(高月撮影)
これは、浦沢直樹の『MONSTER』の1コマであるが、まさに一枚の写真のような絵である。これは、ストーリーの流れの中で登場するチェコのプラハの中心街にある旧市庁舎の時計塔と聖マリア教会の夜景の絵である。実際の現場の写真と比較してみると、それがいかに精密 な描画であるかが分かる。
最近は、実際の写真をパソコン上で画像処理してマンガの1コマとして利用するマンガ家もいるのは確かである。しかし、この絵は写真を見 ながら作家自身が描いたものであると思う。参考までに、この絵の実際の現場の写真を次に示す。二つを比較してみると、マンガの絵がいかに写実的であるかがよく理解できるであろう。(cf.7)
ここまで精密な描画でなくても、今日、ストーリーマンガにおいては、こうした写実的な絵を描くのが、標準的な表現技法となっている。ストーリーマンガにおいてその背景舞台として描かれる世界各地の名所、旧跡、歴史的建造物などを、読者は期せずしてマンガを通していわば「追体験」することができる。「劇画」は、この意味で、単なるフィクションではない、現実の情報を読者に伝えることにも成功している、といわなければならない。
また、写実画の中には美術館に展示されているような具象画もある。こうした絵を得意とするのはほとんどが本格的に描画法を学んだ美術大学出身のマンガ家である。たとえば、次の図5、大友克洋の『SPEED』という作品の一部である。(cf.8)
図5 大友克洋の『SPEED』
静かな美しい田園風景の中に、若いカップルが寄り添う情景が、写実的に実に見事に油絵か水彩画のように描かれている。この絵は、マンガの1コマではあるが、これ自体で芸術的鑑賞に値すると言わなければならない。多くのマンガ読者は、この絵をほんの2,3秒ですばやく読みすごすであろうが、美術館で名画を鑑賞するときのように、ここで立ち止まってじっくりとこの絵を鑑賞してもいい。季節はいつか、畑にはなにがあるのか、若い2人は何をしているのか、2人のそばに立っている木は何の木か、これらを描いた作者の意図は、これから展開される物語の主な舞台と主な登場人物とを魅力的な形で紹介することによって読者を自分の作品世界に誘い入れるところにある。
しかしこうした精密な写実画を数多く描かなければならないマンガ家の作業は、大変な時間と労力を要するはずである。そのためほとんどのマンガ家が数名のアシスタントを雇用し、共同作業で作品創りをしているのが実情である。その場合、当のマンガ家自身が、主要なキャラクターや基本的なコマ割りのデザインをし、残りの部分をアシスタントたちが分担するというのが通常の方式である。
このようにマンガにおける絵は、イメージ画と写実画の二つに大別されるが、もちろんその両者が混合した絵もある。マンガ家の画風によって、人物をイメージとして、背景を写実画風に描くマンガ家もいる。又逆に、人物を写実的に描き、背景をイメージ画として描くマンガ家もいる。それらはマンガ家の好みによって決定されるのであり、それが彼の特徴となっている。恐らくマンガ家の数だけ色々な画風が存在するといっても決して過言ではない。画風は、マンガ家にとってだけでなく、そのマンガ・ファンにとっても極めて重要な要素である。
いずれにしても、マンガにおける絵がこれほど精密に描かれるようになったことは、マンガの表現技法上、革新的なことだといわなければならない。これは、マンガの絵がアートにもなりうるということの証明である。事実、フランスではマンガは絵画や彫刻、音楽などと並んで「第八芸術」としてアートの認定されているのである。
(2)誇張表現
マンガにおける絵の最大の特徴は、何と言っても、誇張表現である。特に、これは、ギャグマンガにおいて顕著である。誇張は、作者が強調したい意図や作者のオリジナリティを視覚的に分かりやすくするための表現技法である。誇張表現は、人物の表情や動作から話の内容に至るまで色々なものが大げさに表現される。
もちろん、この誇張表現は昔からあったものだが、近年の特徴は全体の絵が一般的に非常にリアルになったことである。
例えば、図6は、1980年代に人気のあった竹内直子の『美少女戦士セーラームーン』のヒロインである。(cf.9)
図6 竹内直子『美少女戦士セーラームーン』 図7 小林よしのり『ゴーマニズム宣言』
この少女の目に注目してほしい。こんなに「大きな目」の人間は、実際には世界中どこにも存在しないであろう。しかし、このような「大きな目」が、少女の可愛らしさを象徴する表現方法として、マンガにおいては許されるのである。そして今や、多くのマンガ家たちにとって女性の愛らしさを表現する「大きな目」は、定型となっており、またほとんどの読者がそれを違和感なく受け容れているのである。
しかしながら、そうした「大きな目」の現象は、マンガに特有のことではないかもしれない。というのは、外国においても幼女のおもちゃである人形などでも「大きな目」はしばしば見られる現象だからである。その意味では、愛らしさのシンボルとしての「大きな目」は世界共通といえるかもしれない。
次の図7は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の1コマであるが、人間の身体の一部を過度に誇張した例である。(cf.10)
何と大きな指でしょう。この人物の全身像よりも大きなこぶしである。これは、読者に向かってあることを強く命令している絵である。彼は何と言っているか。「ある作家の本がベストセラーになっているとか、その作家が有名であるとかによってその作家や作品を評価してはならない。自分自身がよく考えてから発言せよ」と、作者が読者に迫っているのである。これは、命令、ないし要求のメッセージを強調するための誇張表現と考えられる。これに類した誇張表現は、マンガにおいてしばしば用いられる手法であり、次の事例もその変形である。(cf.11)
図8は、根本敬の『生きる』の1場面である。この作家は、それほど有名ではないが、ユニークなマンガ雑誌『ガロ』で育った特異なマンガ家である。彼のマンガには、いつもいじめる者といじめられる者が登場し、ときにグロテスクなもの、醜悪なもの、下品なものが意図的に容赦なく登場し、そのことによって健全なもの、美しいもの、上品なものとは何かということが問いかけられる。
この絵では、野球のユニホームを着た乱暴な男が、いつも弱い人をいじめる人物として登場する。いじめられるのはいつも決まってある正直な老人である。いじめの暴力性を強調するためにいじめる男は異常に大きく描かれる。反対に、いじめられる哀れな老人は、いつも小さく描かれる。これは、一種の内容の誇張と言える。
図8 根本敬『生きる2』 図9 手塚治虫『鉄腕アトム』
次に例示するのは、動き、つまり動作や行為の誇張例である。図9は、手塚治虫の『鉄腕アトム』の改訂版の1コマで、スポーツカーがコンクリート製の電柱に衝突した場面である。(cf.12)
電柱が折れ、車のフロントタイヤが吹き飛び、破片が四方に飛び散る様子が衝撃の大きさを物語っている。それに加えて、「グガンー」という大きな衝撃音が赤い色で強調されている。さらにこの車がかなりのスピードで走っていて衝突したことを表現するのが、動きの方向やスピード感を表現するための「動線」であり「流線」である。そして車自体の輪郭がぶれていることもその衝撃の大きさを表現するための工夫である。この「動線」と「流線」をマンガに取り入れたのが、手塚治虫が恐らく最初であったと思われる。
それ以前は、動きを表すのに、足跡を幾つも描いたり、動く前の状態と動いた後の状態の両方を同時に1コマの中に描くという不自然な表現をしていたのである。例えば、戦前の代表的な「読み切りストーリー・マンガ」である田河水泡の『のらくろ』における動きの 表現と比較してみよう。(cf.13,cf.14)
図10 田河水泡の『のらくろ漫画集』 図11 田河水泡の『のらくろ漫画集』
足跡は、なるほどこのキャラクターの歩く動作と方向を示すものではあるが、動的というより、「止まっている」感じがすることは否めない。また、右の「とっくみあいの喧嘩」を表現する「雲」も雰囲気の記号的表現であり、具体的な様相は「雲」の中である。現在のリアルな動的表現と比較すると、どうしても静的な感じは否定できない。
手塚によって発明されたこのダイナミックな「動線」と「流線」や「ぶれ線」などによって、読者は1コマの中で映画を見るような感覚で自然に動きとスピード感を理解することが出来るようなった。それら以外にも、手塚によって工夫されたマンガ的表現技法は数多くあるが、それらを総じて、現在では「マンガの文法」と呼んでいる。これは、マンガにおける表現技法に大きな進歩をもたらし、手塚以降のマンガ家たちのモデルになった。そのことを含め、生涯に600以上もの驚異的な作品群を残した手塚治虫のことを、後の人々が尊敬の念を込めて「マンガの神様」と呼んだのも故なしとしない。
誇張表現には、「背景」ないし「風景」を誇張するという珍しい例もある。次の図13は、松本大洋の『青い春』の1場面である。(cf.15)
図13 松本大洋の『青い春』
実際には水平であるはずの地面が丸く描かれている。丸い地球からの連想である。これは、人々の暮らす地域が地球全体につながっていることを意味する誇張表現だと考えられる。この絵の上に表記された「僕らのパラダイスなのさ!」からも連想されることは、丸い地平線は、そこが楽園であることを意味している、と思われる。マンガ表現が、時にはこうした意味論的表現にもなり得ることも我々は注意する必要がある。
ここで、誇張表現の変形ともいうべき「擬人法」について簡単に触れておきたい。
擬人化は、本来、誇張表現とは別に取り上げるべきかも知れないが、人間以外の動物や道具に人間の言葉を話させるという虚構は、子供を対象とした絵本や寓話などに見られる手法であるが、マンガにおいてもしばしば見られる現象であり、またそれが全く違和感なく許されるのもマンガの特性である。擬人化法は、もちろん、小説などにおいても一般に用いられるテクニックである。例えば、「山が動いた」とか、「藁をきた芭蕉」「外へ出ると、ふてくされた日が一面に霜どけの土を照らしている。」(cf.16)におけるような擬人法である。実際には動かない「山が動いた」というのは、大きな変動があったことを意味し、植物の芭蕉があたかも人間であるかのように「着る」という擬人法、「ふてくされた日」というのは冬の靄がかかったそれほど明くるくない太陽を人間の顔の表情に喩えている。いずれも比喩的表現の一種と考えられる。(cf.17) 従って、山が実際に動くわけではないし、また太陽が人間のようにふてくされた顔の表情をするわけではない。ましてや山や太陽が言葉を発するなどということは、マンガや寓話以外の芸術ではありえないことである。
それでは、マンガにおいてはなぜ動物や道具に言葉を話させることが許されるのか?
その答えは、マンガは人間の自由な想像の産物だからであるというほかない。このため、マンガにおいては、人間は人間以外のあらゆる存在と対話することができるのであり、それだけ豊かな世界を表現することが出来ると言わなければならない。
(1)コマ割りの多様化
マンガにおけるコマ割りは、ストーリーの展開にとって重要な要素である。
連続するストーリーのどの場面を画像化するか、どのアングルから描くか、何を強調し、どの部分を無視するか(省略するか)などの構成を、作者は設計しなければならない。これは、作者の力量が問われる大きな問題である。この構成の如何によって、そのマンガが説得力をもつかどうか、そして「面白いかどうか」の大半が決定される。従って、すべてのマンガ家がそれぞれ自分なりの「コマ割り」には大変な神経を使う。 「コマ割り」の完成したマンガ原稿を、「ネーム」と呼び、ネームの完成度によって編集者がそのマンガを採用するかどうかを決めるほどである。(cf.18)
図14 尾田栄一郎『ONE PIECE』 図15 左図14の完成原稿
のネームの一例。
この「コマ割り」にも、色々な工夫が加えられるようになり、大きな進歩が見られる。1950年代までは画一的な「コマ割り」しか存在しなかった。1頁に2列の6コマか8コマというのが伝統的な形式であった。しかも、ひとつのコマから次のコマに移動する順番も番号が付され、読者が読む順番を間違えないように配慮されていた(cf.19)。
図16 竹内つなよし『赤胴鈴之助』
(すべてのコマに通し番号が付いている)
しかし、マンガ広く読まれるようになり、一般に普及するにともなって、読者がマンガを読むことに慣れてきたこと、また作者の方でも、読者が間違えないように「コ マ割り」に工夫を加えたことによって、もはや各コマに番号を付けなくても、読む順番を間違えることなく読者がマンガを読むことが出来るようになった。それが19 60年代以降のことである。現在では、番号を付したコマは全くといっていいほど見られない。
それでは、どのような工夫が為されてきたのか。
日本語の縦書きの表記法は、伝統的に「右から左へ」が原則である。この原則に従って、マンガも「右から左へ」と読んでいく。さらに付言すると、こうした「右から左へ」の原則は、車や飛行機などの乗り物を描く場合にも、基本的に適用される。たとえば、図17(さいとうたかを『ゴルゴ13』、cf.20)では、ヘリコプターが描かれているが、このヘリコプターは、右から左に向かって飛んでいる。次の自動車の図18でも、同じである(cf.21)。動くものは「右から左へ」進行するのが、日本人の感覚に合致しているのである。
図17 さいとうたかを『ゴルゴ13』
図18 本宮ひろし「サラリーマン金太郎」
もちろん、これにも例外はある。「右から左へ」進行する乗り物が、まれに描かれることもある。しかしその場合は、その乗り物を右側から見ている人物の視線が想定されている場合がほとんどである。例えば、図19(能條純一『月下の棋士』cf.22)で は、右方向に描かれた自動車があるが、この自動車を右側2階の窓から見下ろしている人物の視線から描かれているのである。したがって、基本的には「右から左」への原則に従っていると考えられる。
図19 能條純一『月下の棋士』
マンガ家の中には、左利きの人も少なくないが、私の知る限り、左利きだからといって「左から右」への絵を描く人は、ほとんどいない。やはり、日本的感覚は、「右から左」が自然なのである。
ここで、日本のマンガが外国で翻訳出版される場合のことについて触れておきたい。というのは、外国では、日本とは逆に、「左から右」へ読むのが原則的に一般的だからである。
日本のマンガが海外に普及しはじめた当初は、その国の方式に合わせて「左から右」へと読んでいく翻訳マンガがほとんどであった。この場合、1頁の絵がそのまま裏返しになり、台詞やオノマトペの部分が翻訳されることになる。たとえば、次の図20と図21の事例で見てみよう。
浦沢直樹の『21世紀少年』のタイで翻訳出版されたものとオリジナルの日本版である。(cf.23)
図20 浦沢直樹『21世紀少年』(タイ版) 図21 浦沢直樹『21世紀少年』(日本版)
図20のタイ版と図21の日本版を比較すれば明らかなように、完全に左右対称になっている。台詞の部分だけが翻訳され、横書きとなっている。欧米でも事情は同じであった。しかし、本来「右から左」へを前提に構成され、描画されたものを180度反転させるというのは、違和感が伴うことも確かである。とりわけ、そのマンガ家自身にとっては、著作権の侵害にも値することと感じられるのではないか。たとえば、西洋の名画を反転させて見ると、それは原画とはかなり違った、あるいは全く違った絵になるのではないか。そのことを考えれば、日本マンガはやはり「右から左」へと読むのが正しい読み方だといわなければならない。
そこで近年の翻訳マンガは、日本方式をとるケースも増えてきた。まだまだ翻訳マンガの全体に占める割合は少ないが、今後次第に増えていくことは間違いない。その一例を挙げておくと、次の図22は、鳥山明の『ドラゴンボール』のドイツ版である。
図22鳥山明『ドラゴンボール』 図23 手塚治虫『Princess
Knight』
(ドイツ語版) (バイリンガル版)
これは、日本版と同様に「右から左」へと配置され、台詞の部分がドイツの横書きであり、「かー!」や「ごあー」といったオノマトペの部分も原作に忠実に表記されている。(cf.24 )
また、図23の手塚治虫『Princess Knightリボンの騎士』は、海外向けに日本で製作された英語版のものである。これも原作にできるだけ忠実に製作されているが、面白いのは擬声語の部分がそのまま日本語表記となっている点である。たとえば、剣が軽く触れ合ったときの「シャッ!」や相手の剣を振り払ったときの「パシッ!」という表現は、英語の擬声語 ”smack”,
”smash”, ”whack”, ”bash”, “bam”, “slam”のいずれとも微妙なニュアンスが違う。ぴったり合致した表現が見当たらないので、日本語のままの表現を残してあると思われる。これは、図らずもマンガにおけるオノマトペがいかに複雑、多様であるかということを物語っている。(cf.25)
次に、「コマ割り」の多様化について説明しよう。
「コマ割り」についても、戦後まもなくの頃は、1頁2列のコマの配置を、まず右列の上から下へ読み、次に左側2列目を上から下に読むように番号か矢印が示してあった。この順番は、現在でも4コママンガにおいて踏襲されている。この読み順を現在の「右から左」へと変えたのは、手塚治虫である。それでも当初は、単純に「右ー左」「右ー左」と3段、ないし4段に均一に並列しているコマの進行方向に矢印が付してあったのである。これが、次第に番号や矢印がなくても読者が間違いなく読むことができるようになったのである。
図24長島慎二『新版漫画家残酷物語』 図25かわぐちかいじ『ジパング』
たとえば、図24で分かるように、まったく同じ大きさの均一のコマが3段に並んでいる。(長島慎二『新版漫画家残酷物語』,cf.26)1950年代までは、ほとんどのマンガがこのような定型のコマ構成が一般的であった。ところが、次第に「コマ割り」が多様化して行く。たとえば、図25(かわぐちかいじ『ジパング』cf.27)のように、1頁が大きく2段に分割され、さらに上段に2コマに、下段は右側のみ2コマに細分、左に比較的大きな1コマである。読者は、まず上段の「右ー左」と読んだ後、下段の「右上」に移動する。するとそこから直接「左」の大きなコマに移動することは出来ない。なぜなら、もしそこから「左」に移動したなら、最後に残ったコマは「右下」にあるからである。従って下段に関しては、「上ー下」と読んだあと、最後に「左」のコマに移動するのが自然である。ここには、最後の1コマが右側の2つのコマを前提にするという工夫がなされている。これに類したコマ割りの工夫は、数多く見られる。
読者が読み慣れてくるに従って、「コマ割り」そのものが複雑化してくるようになった。つまり、作者が思いのままにコマを設計するようになり、「コマ割り」そのものがマンガの個性を表現するようになったのである。
図26 佐々木倫子『おたんこナース』1 図27 佐々木子『おたんこナース』2
例えば、図26は、斜めに大きなコマが1頁の半分を占め、残り半分が大小の2コ
マに分割されている。(cf.28)さらにコマの多様化が進むと、一つのコマの中に別のコマが入ってくるという、いわば「コマの重層化」が生じる。図27では、主人公の看護師が緊張して病室に向かうシーンであるが、そのコマに重なって、緊張で震える「腕」と「足」との拡大図が描かれる。(cf.29)
そしてこのような「コマの複雑化」や「コマの重層化」は、先に述べたイメージ画におけるモノローグの心理表現と相まって、結果的にマンガ表現に大きな進歩をもたらすことになったのである。
次の具体的な事例、図28(里中満智子『天上の虹』)で説明しよう。(cf.30)
図28里中満智子『天上の虹』
ここにおいては、「コマ割り」の区分そのものが非常に曖昧である。おそらく4つのコマがあると考えられるが、4番目のコマ、つまり左側に大きく描かれた女性像は、右側の上中下3つのコマに重なっている。この女性は右側のコマすべてに同時に関与している。 従って、この女性のコマには枠の線がなく、右側のコマ全体に重なっている。こうしたコマの重層構造は、何を意味するのか。
連続するコマは、基本的に時間の流れを意味するのであるが、この絵の場合、右側の時間・空間と左側のそれとは明らかに異なっている。つまり、右側の3つのコマは過去の出来事であり、それを想起しているのが左側の大きなコマである。従ってここには、異時間・異空間の同時表現という技法がとられているのである。
マンガは、こうした重層表現の可能な媒体である。いくつかのレベルの時間・空間が同時に一つの絵の中に描かれても、そこには何ら違和感はない。これこそ、マンガに許された一つの特権であると思われる。こうしたコマの重層構造の効果は、人間の微妙な心理を表現するのに適しており、女性マンガ家の作品にしばしば利用される。
(4)時間・空間の表現とカメラアングルの自在性
イ. 空間表現について
マンガにおける時間表現ほど自由自在なものはない。それは、たとえば映画における場合と比較すると、その容易さがいっそう明確になる。映画の場合は、実際の撮影現場に行って、カメラを設定する必要がある。あるいは、現場を人為的にセットとして製作する必要がある。それだけに大道具や小道具なども必要であり、多人数のスタッフを伴った大がかりな撮影が必要である。もっとも最近では、コンピュータグラフィックスによってどのような空間もデジタル技術によって作り出すことができる時代になったが、映画製作に多大な労力と時間と費用がかかることには違いない。その点、マンガ制作の場合は、基本的に「紙と鉛筆」があれば、どんな拡大図でも、縮小図でも、どんなマクロの世界でも、ミクロの世界でも、作者の想像力で自由自在に描くことができるであるから、こんな優れた表現媒体は他にはない。確かに近年はCG技術を駆使した映画製作も増えてきた。このCG技術も、コンピュータさえあれば、モニター上に、マンガと同じように、何でも自由に表現できる。この点に限っていえば、CG技術はマンガ的手法の進化系というべきものである。
ロ. 時間表現について
マンガにおいては、ひとつのコマから次のコマへ移行することが、時間の経過を意味する。これは、もちろん時間の連続を意味する場合もあるし、あるいは逆に、過去の時間へ遡る場合もある。そして、その時間経過が瞬間的である場合もあるし、1日、1ヶ月、1年、10年といったように非常に長い時間であることも可能である。
瞬間的な動作の連続の場合には、画だけで描写することができるが、長い時間の経過を示す場合には、小説同様に、文による説明の助けを借りる必要がある。たとえば、「翌日」とか「それから10年後」といったように、文章によって説明する必要がある。いずれにしても、小説同様に、時間の経過を示すことは、非常に容易である。そしてこの場合に、特徴的なことは、一瞬の出来事を数頁にわたって延長することができるということであり、そうした手法がしばしば採られるのがマンガ表現の特徴であるということである。
たとえば、野球のピッチャーが投げたボールがキャッチャーのミットに届くまでは、現実には1秒か2秒であろうが、マンガにおいてはこれが数頁にわたって数十コマに延長されることがある。これは、1,2秒間に演じられるボールとバッターとの一種の闘いを作者がマンガのクライマックスとして詳細に展開するためである。この意味で、マンガ家は時間も自由に操ることができるのである。マンガ表現の「面白さ」はこんな手法からも生まれると考えることができる。
ハ. カメラアングルについて
また、カメラアングルについても、カメラを動かす必要がない。どのような鳥瞰図も拡大図も、左右、上下どのような視点からでも自由に対象を描写することができる。このカメラアングルの設定は、ストーリーをどのように展開するかという課題とも密接に関係する。それゆえ、それはマンガの「面白さ」を左右する重要な要素である。そのため、ネームの段階において、すべてのマンガ家がこれに腐心する。これに成功したマンガは、説得力があり、「面白い」のである。たとえば、次の例(図29以下、尾瀬あきら『夏子の酒』)を見てみよう。(cf.31 )
図29 尾瀬あきら『夏子の酒』1 図30 尾瀬あきら『夏子の酒』2
まずコマ1では、列車の最先端部だけを描き、いままさに列車が「ガタン」と走り始めた画である。次のコマ2と3は、列車に乗って東京に帰る妹を駅のホームから見送る兄の構図である。そしてコマ2と3にもカメラアングルに微妙な移動があることがわかる。最後の大きなコマ4の右側は、見送られる妹の視線から捉えたホームの兄の姿であり、一方左側の画は、見送る兄の視線から捉えた、去っていく妹の姿が描かれている。しかもこの対照的な構図のコマの大きさに注目しなければならない。左側の妹のコマが右側の兄のコマより2倍も大きいのはなぜか?それは、あくまで主人公は妹の方だからである。さらにこの2つの構図をつなぐものとして「ガアー」という列車の音声がある。非常に巧みで、説得力のあるカメラアングルの移動である。このアングルの変化はまだ続く。
次の頁は、ホームに残された兄のズームアップである。兄の最後のメッセージが発せられるが、これはもはや妹には聞こえていないので、兄の独白である。そして極めて印象深いのは、次頁の右下の画である。
図31 尾瀬あきら『夏子の酒』3
図32 尾瀬あきら『夏子の酒』4
これは、二人の兄弟の父親が自宅の居間で、故郷を去る娘のことを考えている寂しげな姿である。その時、去りゆく列車の汽笛が「ポー」と微かに聞こえるのである。この汽笛の音声によって、去りゆく列車の時間と自宅にいる父親の時間とが同時であることが表現される。父親の寂しげな後ろ姿が、自宅を離れる娘への無言の情愛を感じさせる。余韻の残る何とも奥深い表現である。
このように、マンガは自由なカメラアングルと構図の展開によって自然な時間の流れと心理描写を表現する技術を獲得した。画を中心に、わずかな言葉と、記号によって表現することが出来るようになったところに、マンガが小説や映画にも劣らぬ表現媒体になり得た大きな理由がある。
(5)感情表現とオノマトペの様々な工夫
これまで述べた表現技法のほかに、マンガにおいて感情表現や様態表現を表すいくつかの工夫が見られる。それらの工夫は、手塚治虫以来、半世紀にわたって進化してきたものである。いくつかの事例を、これから紹介しよう。
イ. 文字そのものの工夫
会話の文章は、原則として、「吹き出し」(別名「風船」)とよばれる枠の中に表記される。しかしこの「風船」の外側に言葉が表記される場合も、しばしばである。なぜなら、実際に発話される言葉だけでなく、心の中の思い(独話)や注記、あるいは音声を表す言葉の記号などいろいろなメッセージが伝えられるようになったためである。さらに、その言葉そのものについてもいくつかの工夫が加えられるようになった。たとえば、大きな音声に対しては、大きな音声文字で、小さな声に対しては小さな音声文字で表記する。また、キャラクターが怒りの発言をする場合は、文字そのものが「のこぎり状」にギザギザに表記されたり、立体化されたりする。つまり、文字の大小や形態の違いが、音の大きさや感情を表現するという工夫が存在する。(cf.32)
また、文章や語句の表示は、原則的には印刷された活字による表記であるが、例外的に作家の手書きの文字が表記される場合がある。この場合は、主人公の、または作家自身の内面の思いの表示である。マンガにおいては、また、論文におけると同様に、補足的に欄外への「注記」や「解説文」も可能である。しかしこれらは、必要最低限に制限されるのが、マンガの文法(約束事)である。
言葉そのものではないが、「風船」の中に表示される「・・・」の表記や、「!」「?」のマークもそれぞれ重要な意味を持っている。「・・・」は、沈黙を意味する。「!」「?」は、言うまでもなく、「驚き」「疑問」を意味するが、時には、「?!」の二つの記号が並列的に使われることもある。これは、「驚きと疑問」の感情を同時に表現しようとするものである。この手法は、おそらくマンガに特有の技法である。
図33 一色まこと『ピアノの森』文字の変形 図34 さだやす圭『ああ播磨灘』
(とげとげしい文字) (ダイナミックな音声)
ロ. 「風船」の工夫
「風船」には、いくつかの種類があり、マンガ作家たちはそれらを使い分けている。代表的な例は、実線による風船と破線による「風船」である。前者は、実際に発言された言葉を意味し、後者は、実際には発話されていない内面の思い、つまりモノローグを意味する。さらに細かく見ると、実線にも2種類がある。四角で囲われた実線のなかの発言は、電話の相手方の発言であったり、スピーカーから聞こえてくるアナウンスであったりする。
その他、波線や二重線、怒りを伴う発言を意味する「ギザギザ線」、断線など多様である。それぞれに、キャラクターや作家の発言(メッセージ)の内容や感情の違いによって使い分けられる。また、明確な「風船」ではなく、暗い背景の中に白く浮き出るスペースに心理状態やモノローグの文章が表現される場合もある。これは、背景全体が一種の「風船」の役割を果たしている。
画の表現に加えて、こうした文字そのもの、「風船」の使い分けは、読者の理解を助ける効果を持っている。
図35一色まこと『ピアノの森』 図36『ピアノの森』 図37 さいとうたかを『ゴルゴ13』
たとえば、図35の「風船」は実線であるが、その発言者を示す根の部分が小さな丸の断線となっているので、これは心の中の「思い」を意味する。同じように、図36の「風船」も細かい「放射線」で囲まれているので、これも実際には発話されていない心の「思い」である。(cf.33) また、図37の左側の四角い囲いは、「解説」「注」に相当する。(cf.34)
このように「風船」そのものにも一定の意味があることを読者はほとんど無意識に了解しながらマンガを読んでいるのである。
ハ. オノマトペの工夫
1)感情表現の記号
記号には、主に3つの種類がある。一つは、キャラクターの表情や心理状態を補足するために使用される感情表現の記号である。二つ目は、様態を表す記号である。最後に音声記号である。これらのオノマトペと呼ばれる様々な記号の多くは、すでに手塚によって工夫されたものであるが、それ以来多くのマンガ家たちがそれぞれに工夫を重ねてきたものである。それらは、今や、「マンガの文法」と言われるまでに、定型化されている。そして一部の記号は、マンガの世界を超えて、「絵文字」ないし「共通ロゴ」として広く普及している。たとえば、「愛情」「好意」を意味するハートマークは、今や世界共通である。また、「怒り」を意味する「青筋マーク」もよく知られている。(図38参照、cf.35)
「悲しさ」の象徴として「涙」もしばしば描かれるが、それも一筋の涙から溢れる涙まで様々な涙がある。(図39参照、cf.36)
先に触れた「動線」や「流線」も一種の記号と考えられる。動きの軌跡やスピードを意味するこれらの線は、マンガのストーリー展開にダイナミックさを与える効果をもたらす。こうした「言葉によらない内面の心理表現」や状況を説明する「様態」、さらに音声を表現する符号の進化によって、マンガはいっそう説得力を持つようになったし、スピード感をもったストーリーの展開を可能にしたことは確かである。その結果、日本のストーリーマンガは、人間の深層心理や思想を読者に伝えるメディに成長した。1960年代後半には、すでに、「(マンガの)ヴィジュアルは映画を凌ぎ、ストーリーは小説を超えた。」(図40参照、cf.37)と言われた。それは、マンガという表現形式が、小説や映画にも劣らない文芸に成長したことの高らかな宣言であった。当時としては、確かに少し誇張した宣伝文にも思えたが、現在に至っては少しも誇張した表現ではない。なぜなら、マンガは、今や映画や小説に勝るとも劣らぬ文化現象として、また産業としてそれだけの実績を上げているからである。
図38佐々木倫子 図39森下裕美『大阪ハムレット』 図40 白戸三平『カムイ伝』
『おたんこナース』 (一条の涙) (学生活動家に人気であった)
(青筋マーク)
2)様態の記号
様態の記号は、多くは記号化された文字である。そんなところから英語では“mimetic words” という。キャラクターの「動作」や「視線」を意味するもの、「様子」や「雰囲気」を説明するもの、「衝撃」を表現するものなど実に様々な様態記号がある。これらの様態記号は、およそ半世紀をかけて進化してきたものであり、これらの記号がマンガ表現に占める重要性は極めて大である。ある意味では、これらの様態記号の多様化と多様性によって日本マンガはその表現の豊かさを獲得したともいえるのであり、これらを理解することなしには日本マンガを正しく評価することさえできないといっても決して過言ではない。
様態記号については、あまりにも多岐にわたるので、ここで多くを紹介することはできないが、代表的な例をいくつか紹介するに留めたい。
まず、キャラクターの「動作」に関するものとして、「振り返る」動作を意味する「くるっ」や、横一列に並ぶ様子を意味する「ズラリ!」、歩く様子を表す「スタスタ」「フラフラ」「ツカツカ」など、顔の表情を表す「にこにこ」や「ニヤリ」、「凝視」を意味する「じーっ」などがある。(cf.38 )
さらに、「びくびく」や「おどおど」、「ボーッ」や「イライラ」、「どきっ」「きゅんっ」といった記号は、絵としては表現困難な心理状態を表す。(cf.39 )
また下図の41にある「じゃーん」や、「どーん」といったいった記号は、日本人でも理解が難しい半ば心理的、半ば雰囲気的な微妙な表現である。敢えていえば、「じゃーん」とは、この場合目の前に出された試験問題が回答者に向かって「どうですか、解けるものならやってごらん、多分解けないでしょう!」といっているかのような表現と解釈できる。こうした暗号ともいえるマンガ表現は、おそらく外国人が理解するのは至難の業であろう。また「どーん」というのは、「堅固で立派な様子」とか「壮大で克服不可能な壁」などの意味だと考えられる。(cf.40 )
また、衝突や打撃、あるいは爆発などを記号化した「火花マーク」は、かなり以前から使用されてきた伝統的な記号である。下図46の「裸電球」もかなり古くから使用されてきた「ひらめき」「思いつき」の象徴的記号である。(cf.41 )
また、少女マンガに多用される「飾り」がある。これは、頭の中を駆け巡る様々な雑念・イメージ(表象)を表現したものであろうと考えられる。
図41 いしいひさいち 図42 いしいひさいち 図43 都留泰作『ナチュン』
『ドーナツブックス』 『ドーナツブックス』
図44 都留泰作『ナチュン』 図45 古谷実『わにとかげぎす』 図46 西岸良平『三丁目の夕日』
3)音声記号
マンガ家たちは、音声を表す文字記号にも、様々な工夫を加えてきた。音は、映画やアニメと違って、紙の上に描かれるマンガにとって、もっとも困難な領域である。しかし、彼らはその困難な領域においても様々な工夫を考えた。音の強弱はもちろん、キャラクターが発する「怒り」の音声や、キャラクターが聞く、従って読者が聞く「不気味な音」「恐怖の音」など、声の特徴が視覚的に理解できるように記号化した。
いくつかの代表的な例を見てみよう。
図47は、松本零二「銀河鉄道999」の一場面である。(cf.42) 「ブワオーン」という白抜きの音声記号である。しかも初めの「ブワ」の部分が大きな音であり、次第に小さくなって行くことが示される。「ブワ」の文字記号そのものが波打っているのは、それが「恐怖の音」であることを意味する。「バキューン」といった派手な攻撃音から、指を鳴らす「パチン」といった小さな音まで無数の音が存在する。その場面に応じて、マンガ家たちはそれぞれ工夫を凝らして独自の記号で音の世界を表現する。
音声記号が、黒塗りで描かれるたり、立体化されたり、ギザギザ状に描かれたりするが、場合によっては、図48に見られるように音のないことを表す「音声記号」として「しーん」というのがある。(cf.43) これは、英語では“silence”と表示するほかに方法がないだろうが、しかしそれでは背景の静寂を雰囲気として表現するのには少し違うように思われる。
また、心地よい音としてしばしば使用されるのが、音楽の楽譜や音符記号である。下の図49では、モーツアルトのピアノ曲の楽譜そのものを背景として描き、前景にピアノを演奏する主人公の姿を描いているが、ここでの作者の工夫は、楽譜そのものがメロディの流れを象徴するようになだらかな曲線を描いて強弱がつけてあることである。圧倒的な音の世界に囲まれているピアノ演奏者の姿を、実に巧みに表現している。(cf.44)
こうした音声記号を、読者は間違いなく自分の脳裏で再生しながらマンガを読んでいくのである。私が、マンガを一種のマルチメディアだという所以である。
こうしたオノマトペの多様な進化と多用は、もともと日本マンガにとって特有の特徴であると考えられる。しかし、最近では、こうした日本マンガの特徴を学び、平板なストーリー展開ではなく、奥の深い味わい深いマンガを描く外国の作家たちも増えてきた。韓国や中国をはじめとして、現在ではヨーロッパ各地に、マンガの描き方を教える学校が出来ているし、また外国のマンガ家たちが描いたマンガが増えている。
このように、日本において発展したマンガという文芸のジャンルは、いまや世界標準になりつつある。
図47松本零二『銀河鉄道999』 図48さくらももこ『ちびまる子ちゃん』 図49 一色まこと『ピアノの森』
(恐怖を意味する文字) (音のないことを表す音声記号) (旋律を表す楽譜)
終りに
以上、マンガにおける表現技法の特徴とその進化について考察してきた。それは同時にマンガという古くて新しいメディがなぜ日本を代表する文化の一つとして世界に拡大して行ったのかということの主要な原因について明らかにすることでもあった。つまり、マンガにおける表現技法の進化が、視覚情報重視の現代の風潮に合致させる形で、マンガを「手頃で」「いつでも」「どこでも」「スピード感」をもって読むことのできる情報メディアに成長させることに成功したということなのである。
それはもちろん、表現技法の進化にのみ拠るものではなく、ほかにもいくつかの要因が考えられることは言うまでもない。たとえば、マンガが旧来の小説や評論などの文芸に取って代わる文芸に成長しえた理由には、内容的にあらゆるジャンルの表現を可能にしたマンガ編集・営業の努力もあったし、さらにはマンガに派生するアニメやテレビドラマやキャラクターグッズ等のいわゆるコンテンツ産業の振興もあったことは確かである。しかし何といってもそれらの大本であるマンガ作品そのものの質的向上なしにはそれらの振興もありえなかったという意味において、マンガにおける表現技法の進化を第一に挙げなければならない。
表現技法上の問題については、マンガを構成する「絵」と「文」と「オノマトペ」の3つの要素の特徴とそれぞれの進化について大略考察しえたと思うが、もちろんさらに詳細な検討をしなければならない部分もある。それは今後の課題として、とりあえず本論では、マンガの表現技法の進化がマンガを一つの優れた情報媒体にしえたことを明らかにしたことで満足すべきであろう。このことによって、マンガ文化に対する正当な認識をもつ人が増え、さらに優れたマンガ作品が数多く生み出され、日本マンガの世界標準化がいっそう普及することによって、世界の日本文化への理解が進むことを期待したいと思う。
注
Cf.1 「マンガ」の表記法については、今のところ定説があるわけではない。外国由来のものに片仮名表記を使う日本の慣習とマンガの世界普及との関連から日本でも「マンガ」と片仮名表記をするようになったとするのは私の仮説である。しかしマンガコラムニストの夏目房之介氏はある学会の席上、私の説に「そうかもしれない」と同意を示した。因みに、評論家の呉智英氏は、マンガを日本では「コミック」とも呼ぶのは、出版社の営業政策上のことで内容の伴わないことだと批判している。さらに氏は、マンガを「笑い中心」と「物語中心」とに大別し、後者に属するものとしてストーリーマンガと劇画を挙げているが、この両者の区別が無くなっていることも指摘している。(呉智英『現代マンガの全体像』双葉文庫、1997年1月、103頁参照)
Cf.2 「オノマトペ(onomatopèe)」というフランス語は、擬声語の方を指す場合もあるが、私は、擬態語も含めて日本マンガにおける記号的表現全般を指す言葉として使用している。
Cf.3 池田理代子『ベルサイユのばら』第1巻、マーガレット コミックス、集英社、1991年第56刷。池田理代子は女性漫画家の嚆矢の一人であり、この『ベルサイユのばら』は昭和47年から48年に連載され、大人気となり、アニメ化され、宝塚歌劇にもなり、歴史マンガブームを作った。
Cf.4 谷岡ヤスジ『天才の証明』は、『谷岡ヤスジ傑作選 天才の証明』(実業の日本社、2000年3月、初版第5刷、23頁)谷岡は一見下手な画風と強烈な批判精神で知られたが、若くしてなくなった。
cf.5 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館叢書、1993年4月、第5刷、143頁) 萩尾は昭和24年組といわれる、竹宮恵子、大島弓子、山岸涼子ら一群の女流マンガ家たちのひとりで、池田理代子に続いて少女マンガの隆盛に貢献した。
Cf.6 浦沢直樹『MONSTER』10(小学館、ビッグコミックス、2004年4月、第17刷、44頁) 浦沢直樹は当代随一の人気マンガ家として、次々と傑作を発表している。彼の多くの作品が、はじめから海外展開を考慮して、ヨーロッパを舞台にしている。
Cf.7 チェコの首都・プラハの中心にある旧市庁舎の時計塔と聖マリア教会は観光名所でもある。実際の写真は、筆者の娘・高月泉子が撮影したものである。マンガ家が作品制作上必要な資料は、マンガ家自身が取材する場合もあるが、一般に出版社の編集部の方で用意される。
Cf.8 大友克洋『SPEED』これは、『SOS大東京探検隊/大友克洋短編集―2』(講談社、1996年2月第1刷)の中に収録されている。2頁にわたって掲載されたこの絵は、水彩画のようである。彼の詳細で正確な描画は有名であり、『AKIRA』におけるビルのガラス窓が壊れて地上に落下してくるガラスの破片を驚くべき詳細に描いたときには、多くのマンガファンが驚嘆した。
Cf.9 竹内直子『美少女戦士セーラームーン』第1巻(講談社、1992年7月)の表紙より。
Cf.10 小林よしのり『ゴーマニズム宣言』➀ (扶桑社、1994年第16刷、81頁)
Cf.11 根本敬『生きる2』(青林堂、1986年初版、1996年11月第4刷、99頁)
Cf.12 手塚治虫の『鉄腕アトム』第一集(講談社、KCスペシャル305、1987年第1刷、1993年第13刷、16頁)
Cf.13 田河水泡の『のらくろ漫画集(4)』(講談社、少年倶楽部文庫23、昭和51年5月第1刷、76頁)もともとは、昭和6年雑誌「少年倶楽部」で連載が始まったもので、昭和51年にその復刻版が「少年倶楽部文庫」として講談社から出版された。「歩く」動作の表現する「足跡」は、当時としては画期的な表現技法であったかもしれないが、現在からみると、静的な記号に感じられる。
Cf.14 田河水泡の『のらくろ漫画集(4)』77頁。「取っ組み合いのけんか」を表す「雲」は、戦後も継承され、現在でも時折見かける表現法である。
Cf.15 松本大洋の『青い春』
Cf.16 芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』(角川書店、角川文庫7499、173頁)に自らの師である夏目漱石の葬儀に出席した時のことを書いた「葬儀記」という文章がある。その中に「ふてくされた日」とか「藁を着た芭蕉」などの比喩的表現が見られる。
Cf.17 文学表現の比喩には、直喩(simile)、隠喩(metaphor)、換喩(metonymy)、提喩(synecdoche)の4種があるが、これらの事例は隠喩と考えられる。
Cf.18 図14は、尾田栄一郎『ONE PIECE』巻2(集英社、ジャンプコミックス、2000年1月第15刷、72頁)に、「ネーム大公開!!」として掲載。この完成原稿の図15は、75頁に掲載されている。
Cf.19 1960年頃までは、ほとんどのストーリーマンガのコマに番号が付されていた。
Cf.20 さいとうたかを『ゴルゴ13』135巻(リイド社、SPコミックス、2005年1月、6頁参照)なお、このシリーズ作品は、1969年に連載が始まって現在もなお継続中であるから、41年間も続いていることになる。おそらく日本でもっとも長期にわたって連載されている作品である。
Cf.21 本宮ひろし『サラリーマン金太郎』マネーウオーズ編プロローグ(集英社、2006年6月第3刷、16頁)なお本書は、頁一杯に描画されており、頁を付ける余白がないため、まったく頁付けがない。近年、こうした頁なしのマンガが徐々に増えている。
Cf.22 能條純一『月下の棋士』
Cf.23 図19は、Naoki
Urasawa『21st Century Boys』(Volume2)のタイ版である。(2007年、NATION EDUTAIMENT CO.,LTD)26頁。図20は、同じ作品のオリジナル版。浦沢直樹『21世紀少年』(下)(小学館、2009年10月、第13刷、26頁)
Cf.24 鳥山明の『ドラゴンボール』のドイツ版
Cf.25 手塚治虫(玉置百合子訳)『Princess Knightリボンの騎士』➀(講談社インターナショナル、バイリンガル・コミックス、2001年5月、58頁)このバイリンガル版は、吹き出しの台詞を英訳し、コマの外にオリジナルの日本語を添えた新しい編集方針で出版された珍しいものである。おそらく日本語を学ぶ外国人や英語を勉強する日本人を対象としたものであろう。
Cf.26 長島慎二『新版漫画家残酷物語』(朝日ソノラマ、平成5年12月、17頁)この本に収録された作品群は、もともと昭和35年から37年に描かれたもので、「長島マンガの集大成」(手塚治虫の前書き)として平成5年に出版された。「コマ割り」がすべて画一的であるわけではないが、比較的整然としたコマ割りになっている。
Cf.27 かわぐちかいじ『ジパング』42巻(講談社、モーニングKC、2009年10月、98頁)
Cf.28 佐々木倫子『おたんこナース』➀(小学館、1998年第5刷、174頁)
Cf.29 佐々木倫子『おたんこナース』➀(小学館、1998年第5刷、145頁)この作品の「コマ割り」はかなり工夫が凝らされていて、幾重にも重層している複雑なコマの構成が見られる。また、オノマトペが豊富である。
Cf.30 里中満智子『天上の虹』第1巻(講談社、KCミミ、1990年第23刷、131頁)
Cf.31 尾瀬あきら『夏子の酒』(講談社、モーニングKC、1988年11月に単行本第1巻が出版された。ただし今回参考にした図28から図31は、講談社漫画文庫の「新装版夏子の酒」第1巻、31頁から33頁まで)
Cf.32 図32の一色まこと『ピアノの森』第2巻(講談社、アッパーズKC、1999年第1刷、2002年5月第5刷、65頁)では、文字の変形の工夫として「うわあああああ」という叫び声の文字に棘が描かれて、「恐怖」の心理状態を表現している。
また、図33のさだやす圭『ああ播磨灘』➀(講談社、モーニングKC、1992年6月第5刷)では、相撲の立会いのダイナミックな動きを「動線」に加えて「ドカーン」という効果音とが補強して、迫力のある1コマになっている。先に見た古典的な「雲状の煙」にキャラクターが消えてしまう描き方と比べると、その表現技法の進化は明白である。ここに取り上げた『ピアノの森』と『ああ播磨灘』に共通していることだが、両者とも頁一杯に描いているため、頁を打つ空間がなく、頁が特定できない。前者には、ところどころ空間ができた頁のみ、頁が示されているが、後者はまったく頁のない本になっている。
Cf.33 図34と図35は、前記、『ピアノの森』第2巻のそれぞれ105頁と57頁。
Cf.34 前記、さいとうたかを『ゴルゴ13』135巻(リイド社、100頁)
Cf.35 前記『おたんこナース』➀(小学館、1998年第5刷、87頁)
Cf.36 森下裕美『大阪ハムレット』➁(双葉社、ACTION
COMICS、2007年7月第2刷、76頁) なお、マンガコラムニストの夏目房之介氏が「マンガにおける涙の考察」という興味ある分析をしている。過剰な涙を「ヨダレ型涙」、眼の淵に溜まっている涙を「朝露型涙」などと、涙にもいろいろ意味があり、進化しているという分析をしている。(夏目房之介『夏目房之介の講座』ちくま文庫、1997年4月、186頁参照)
Cf.37 白土三平『カムイ伝』➆(小学館、小学館叢書、1993年4月第4刷)の裏表紙での宣伝文。
Cf.38 図43は、都留泰作『ナチュン』第1巻(講談社、アフターヌーンKC、2007年2月、16頁)
図44は、古谷実『わにとかげぎす』➀(講談社、ヤンマガKC、2006年9月、58頁)
Cf.39 図40 いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集1 存在と無』(双葉社1983年第1刷、1997年5月第16刷、45頁。)
図42は、上記『ナチュン』35頁。
Cf.40 図41は、上記 いしいひさいち『ドーナツブックス』92頁。
Cf.41 図45は、 西岸良平『三丁目の夕日 夕焼けの詩』第51巻(小学館、ビッグコミックス、2005年11月第1刷、9頁)「ひらめき」を意味する裸電球の絵は、かなり以前から一般的であるが、生活様式の変化とともに裸電球そのものが生活の場から姿を消しつつある現在、やがてそれに変わる記号が必要になってくるだろう。
Cf.42 松本零二『銀河鉄道999』
Cf.43 図47は、さくらももこ『ちびまる子ちゃん』7(集英社、りぼんマスコットコミックス、1991年1月、9頁)音のないことを表すこの「しーん」という擬声語とも擬態語ともいえる象徴的表現は、まさに日本特有のもののように思われる。これを、「静寂」とか「静かさ」とか「無音」とか説明語を使ったのでは、「しーん」のもつ情感を台無しにしてしまう。
Cf.44 図48は、上記、一色まこと『ピアノの森』第2巻、170頁。メロディを表現するのに、シャープやフラットなどの音符記号を使用するのは、一般的であるが、本物の楽譜を背景全体に配してそれに包まれる形でピアノと演奏者が描かれたのは、初めてであろう。