戦後日本まんが界の巨匠、手塚治虫に続いてまたひとり、
その後継者にしてまんがを国民的娯楽とした最大の功労者の
一人である藤子・F・不二雄(藤本弘)が亡くなった。藤子
不二雄のもう一人の我孫子素雄とともに戦後まんがの草創期
から二人が少年まんがに夢と希望を託し、情熱を傾けてきた
様は、その自伝的作品「まんが道」に詳しい。
しかし、何といっても藤子不二雄の児童まんがを国民的な
娯楽としたのは、テレビと子供たちであった。それは、テレ
ビの普及率が90パーセントを越えた1970年以降のこと
で、ちょうどこの年に「ドラえもん」の連載が始まっている。
この70年代は、いわばまんががコミックと呼ばれ始めた時
期で、多くのマンガが中高生から大学生、青年を読者層とす
るマンガに移行していった中で、藤子不二雄は一貫して小学
生や幼児のための児童まんがを描き続けた。まんが家を志し
た時からのその一貫した姿勢は、二人がコンビを解消したあ
とも、「ドラえもん」の藤本の方は死ぬまで変わらなかった。
我孫子の方は、「プロゴルファー猿」や「笑ウせえるすま
ん」といった大人でも楽しめる、比較的シニカルな作品を描
くようになったけれども。
「ドラえもん」が子供たちの圧倒的な人気を呼んだ背景に、それが児童まんがとして希少価値があった
ことは作者自身も認めるところであるが、もちろんそれだけではない。やはり「ドラえもん」を一躍国民
的アイドルにしたのは、そのテレビアニメの放送だったといえる。1970年代以降育った人は、恐らく
皆、藤子まんがを見て育った世代である。「ドラえもん」を筆頭に「オバケのQ太郎」や「パーマン」な
ど、藤子アニメがブラウン官から消えたことはない。現在でも、「ドラえもん」の平均視聴率は20パー
セント、ざっと2千万人の人が見ている計算である。
この人気の秘密は、勉強も運動も苦手な「のび太」と、その彼の劣等感を克服する夢を叶えてくれる不
思議なネコロボットの無尽蔵のアイデアの取り合わせにある。「のび太」は多くの子供たちの代表であり、
すらすら宿題が出来たり、泳いだり、自由に空を飛び回りたいというのも、多くの子供たちの共通の夢で
ある。そんな夢を「ドラえもん」は一時的には叶えてくれるが、もちろん最後は自分で努力しなければな
らないことも教えてくれる。