谷口ジロ−

「父の暦」


小学館:1995年1月、ビッグコミックス・スペシャル
初出:ビッグコミック1994年4月25日号〜10月10日号に連載


この作品は、作者の出身地である鳥取を舞台に,その実体験を
織り込みながら、「家族の絆」特に「父親と息子の心の葛藤と
和解」をテ−マに描いた秀作である。
主人公・山下陽一は、ある日父の訃報を受け取り、十数年ぶり
に故郷・鳥取の土を踏む。通夜の席にはすでに親類縁者が集まり、
酒を呑みながら故人の思い出話をしている。永い間故郷を見捨てて
いた陽一であったが、故郷の人たちの暖かい心に救われる思いであ
る。
特に、母親の兄にあたる大介伯父から、自分の幼い頃からの父や
母の色々なエピソ−ドを聴かされるうちに、幼い頃の自分が知らな
かった父と母の姿を知らされ、父への反発して故郷を省みなかった
自分を後悔するのであった。
父・武司は、理髪店を営み、黙々と仕事一筋の静かな人で、母・
清子とも仲睦まじく、陽一と3つ違いの姉・春子と一家四人はごく
平凡な幸せな家庭であった。ところが、昭和27年に発生した鳥取
大火で、理髪道具一式を除いて家屋敷・家財道具すべてを焼失して
から、父と母の間に微妙な亀裂が生じ、離婚にまで至る。というの
は、大火の後、自宅再建に当たって、母清子は造り酒屋をしている
実家の父親から借金をすることにしたのだが、父武司には男のプラ
イドがあり、本当は自力でやりたかったのにやむをえず借金をして
しまったので、大きな心の負担から、前以上に仕事に打ち込み、家
族の触れ合いがなくなってしまったからである。清子は娘春子の小
学校の担任である音楽教師・松本の豊かな知性に惹かれ、ついに松
本の転勤に伴って家出してしまう。
その時小学校3年の陽一は、訳は分からず泣き叫びながら、母の
姿を追い求めるが、大介伯父に慰められる。この頃から、母親を離
婚に追いやった父親に対するわだかまりが意識され、それは父親が
別の女性と再婚するに至って、次第に大きくなっていく。
幼い陽一の母親に対する思慕はつのり、ある日姉春子の引き出し
の中に母親からの手紙を発見、その住所を頼りに一人汽車に乗り、
遠くの町に住む母親を訪ねる。しかしそこにいた母親はすでに松本
との間に出来た子供を抱いた「よその」母親であった。陽一はショ
ックをうけ、呼び止める母親の声を振り切って帰ってきたのであっ
た。
陽一は成長するにつれ、父親との距離を感じ、継母とも親密にな
れず、次第に家庭の中で疎外感を強めていく。それとともに家庭で
の心理的ストレスから逃れるために、中学時代は陸上競技や犬を飼
うことに熱中し、高校時代は写真に打ち込むが、一日も早く家を出
て、独立したいと思うようになる。こうして父親の地元の大学へと
いう希望を無視し、東京へと出る。
爾来20年近く、殆ど故郷に帰ることなく、過ごしてきたのであ
ったが、父の死を機に帰った故郷で、父の縁者たちに暖かく迎えら
れ、自分の知らなかった父親の色々なエピソードを聞かされるうち
に、次第に父の心が分かってくる。
「私は心をかたくなに閉ざしたまま父の死まで心を開 かなかった
自分の愚かさを悔いた。今日まで父や家族の優しさに支えられて
きた事に、ずっと無自覚だった私は、今さらなんと言って父に語
りかければよいのだろう。」(261頁)
こうして皮肉にも父親との心の隔たりは父親の死によって初めて
融けた。父と息子の間に、ずっと幼かった頃の心の絆が蘇ったので
ある。
しかし母親との心の絆はどうなのか? このマンガでは、家を出た
後の母親との関係は殆ど描かれない。ただ最後に、火葬場の一隅で
30年ぶりに老いた母親と再会することになるが、
「ほんにりっぱになって…」「あの人によう似てきんさったなあ」(269頁)
と語りかける母親・清子に対して、陽一は終始無言である。
「今…(母親への思い)は、すっかり色あせてしまっていた」からで 父親との心のわだかまりとその和解の描写は、実によく描かれてい
るように思う。しかしそれに比べて別れた母親との心の葛藤について 設定がフィクションであるからだろう。
それにしても、これはよく出来たマンガである。家族の絆について
考えるときの格好の教材である。いつもながら谷口の叙情味たっぷり
の清楚な描画も素晴らしいし、ローカルな言葉と人々の人情味溢れる
交情とがマッチして、優れた文学作品となっている。



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