「ねえ・・・さっきより、顔色悪くなってない」
「ああ。いままでは赤みが差していたのに」
心配そうなふたりの声がする。
「どうしたんだろう。大丈夫かな」
美恵は不安そうに眉をひそめた。
「さっき動いて、疲れちゃったのかな」
しかし、事態はふたりが考えるよりも、深刻だった。
”いけない……”
アリータの声は、緊迫している。
「どうかしたのか?」
ピーターの声も、強ばっている。
”このままだと、彼女、死んでしまうわ”
「なんだって?!」
”・・・本当はもう、彼女の心臓は、役目を終えているの。いまはただ、強引に留めているだけ”
「あなたが?」
”半分は、そうかもしれない。でも、これ以上は”
「僕が代わりになる」
きっぱりとピーターが言った。
「彼女の代わりに、僕を連れて行って」
”それは無理よ”
かなしそうな声が響く。
”あなたは、彼女じゃない”
「さっき君が言ったんじゃないか! 名前なんてただの概念だって」
”ええ。でもピーター、肉体は、違う”
厳密には、完全に違うとも言い切れなかった。けれどもあえて、それには触れなかった。
「駄目だよ!」
悲鳴のような声がした。
「何言ってるの?! それでローズが生き返って、彼女がどんな想いをすると思うの」
「美恵ちゃんの言うとおりだ」
和矢の声も、悲痛だった。
「おまえの気持ちはわかるけど」
「じゃあこのまま見てろっていうのか?!」
ピーターはカッと目を見開いて、ふたりを睨んだ。
「このまま、彼女の命が失われていくのを、ただ見てろって? 君たちはそういうのか」
あまりの剣幕に何も言い返せず、彼の気持ちが痛いほどわかるだけに、気休めを言うこともできず、しばらく沈黙が続いた。
けれどやがて、和矢が口を開いた。
「そうだ。見守るしか、できない」
ゆっくりと、まるで自分に突きつけているかのように静かな声だった。
「なんでも自分の思う通りにはならないよ。どんなに望んでも失われていくものはあるんだ。できるだけのことをしたら、あとはもう、神の領域だよ。オレたちにはどうにもできない」
「それでも」
ピーターは、押しかぶせるように言った。
「僕は認めない。彼女を連れて行かせはしない。どんなことをしても、絶対に」
「いいかげんにしろよ!!」
和矢の声は、怒りを含んだ。
「おまえが彼女を失いたくないだけだろ。挙げ句の果てに自分の命と引き換えにだって? ふざけるなよ。自分のことばかりかよ。少しは周りのことも考えろよ! 彼女の気持ちを考えろよ!!」
しかし、何を言われようとも、ピーターは動じない。
「君の方こそ、放っておいてくれ! これは僕とローズの問題だ。関係ないだろ。自分がどれだけわがままかって、そんなの君に言われるまでもなく知っている。いやというほど知っているよ。だけど僕がはっきりわかるのは、僕の気持ちだけなんだ。それに従って何が悪い。なぜそれを君が責める。ローズがどう思うかなんて、彼女にしか分かるわけないんだ」
呆れるほど、正反対な主張だった。
美恵はこんなときなのに、あっけにとられて、二人を見つめる。
ここまで言い分が食い違うと、いっそ清々しい気持ちさえした。
「君になんと言われようと、僕は自分の思う通りにする。それができなきゃ、僕が僕でいる理由はないじゃないか」
「だからって、彼女を傷つけていいわけないだろ?!」
その言葉に、ピーターは信じられないといった目を向けた。
「それ、本気で言ってるのかい。だとしたら僕は、君の方こそ信じられないよ、カズヤ」
嘲りにも似た感情が浮かんだ。
「少しも相手を傷つけずに、関係を築いていけるわけがないじゃないか」
和矢は、食い入るようにピーターを見つめた。
「少なくとも僕にとっては、そうだ。ローズと僕は、お互いを傷つけ合ってきたし、これからもそれは変わらないと思う。けど、それの何が悪いの。相手に影響を与えられるのは、その存在を受け入れた証拠だよ。むしろ影響を与え合わない関係なら、一緒にいる意味なんてない」
「・・・・・もっと穏やかな関係だって、あるよ。お互いを慈しむような関係が、ある。オレはそう思ってる」
「でもそれは」
美恵は思わず、口をはさんだ。
「そんな穏やかな気持ちは、通り過ぎる風みたいに、捕まえられなくて、悲しいよ」
そして、付け足した。
「恋とは違う」
ピーターが言っている想いと、和矢の語るもの。
それは重ならないふたつの気持ち。
どちらかが正しいわけでもなく、どちらが間違っているわけでもなく。
「傷つけて欲しいわけじゃない。でも近づきたい。それで傷つくなら、それでもいい。ピーターの言うこと、あたしわかる。寂しいより、痛いほうがまだ、近くにいる気がするってこと。ねえ、和矢。あなたの望む優しさが、人を傷つけることもあるんだよ。結局はだから、一緒なんだよ。和矢も、ピーターも」
「・・・・美恵ちゃん」
和矢は、驚いたように美恵をみた。
どうしてそんなことを、この場で言われるのか、わからなかった。
「君は、どう思うの?」
ふと、ピーターが、美恵の方を向いた。
「もし君がローズだったら、彼の言う通り、傷つくの? それともーー」
嬉しいって、思うの?
ピーターの眼差しはまっすぐで、美恵は自分に迷いがあることに気がついた。
最初の言葉とは裏腹に、ピーターを止めた言葉とは裏腹に、傷つくというのとは、何か違う気がした。
だから、素直に言った。
「もしあたしだったら」
そのとき、悲鳴のような声がした。
”もう時間がないわ!”
はっとしてローズをみると、彼女の頬には、ほとんど血の気がなかった。
「ローズ?!!」
”ね、ピーター”
「なに?」
”彼女を、ローズを、助けたい?”
「できるのか?!」
”ん・・・・ちょっと、ずる、だけど、・・・わたしが入ってみるわ”
ピーターは、驚いた。
「入る? 彼女の中に?」
”そんなとこ”
「けど、さっき、それはできないって」
アリータの声には、苦笑が混じった。
”そりゃ、あなたはね、ちゃんとした肉体があるもの。でも、わたしなら”
「できるの?!」
期待を込めて美恵が訊くと、声は小さく答えた。
”たぶん・・・・試したことは、ないけれど”
「そうすると、君はどうなるの?」
和矢の声は、緊張している。
”べつに、どうにもならないわ。彼女の一部になるだけ”
「それって、アリータが、消えちゃうってこと?」
美恵の声にも、不安が満ちた。
”アリータは、たぶん、消えないわ。ティナとエミリィは、いなくなるわね”
「どうして?!」
”・・・そういうものだからよ”
「ちょっとピーターも何か言ってよ」
しびれを切らして、美恵が言う。
彼はさっきから、黙ったままだった。
「ピーター?」
彼の瞳は、焦点を見失っていた。
「ピーター!!」
強く呼ぶと、ようやく彼は、ぼんやりとした瞳を向けた。
「大丈夫? どうしたの?」
「あ、ああ、ごめん。誰かに呼ばれた気がして」
「うそ? 何も聞こえなかったよ」
「・・・気のせいみたいだ」
”・・・・・・・・・・”
ピーターは、しばらく何かを考えるようにしていたが、やがて、彼女の名を呼んだ。
「アリータ」
”・・・・・・なに?”
「やっぱり、僕が行くよ。たぶん僕にも、君と同じことができるはずだ。そうだよね?」
”・・・・・・どうしてそう思うの”
「さっき言ってたよね。ちゃんとした肉体って。それで、思い出したんだ」
何を、とは、もう聞いてこなかった。
それは肯定と同義だった。
「何の話をしているの?」
「ん。たいしたことじゃないよ。僕はもう行かないと」
「行くって、どこに?」
ピーターは、静かにほほえんだ。
「彼女のところ」
そして、ローズを和矢に差し出す。
「ピーター?」
「ちょっとだけ、預かってて」
「いいけど」
そういって彼が受け取った瞬間、目の前にいたピーターは、消えていた。
あぜんとするふたりの前で、アリータのつぶやきが聞こえる。
”相変わらず、せっかちな人ね……”
それはまるで、弟のいたずらに苦笑する、姉のような声だった。
”わたしも、そろそろ行くわ・・・・・。お兄ちゃん、美恵さん”
声は、ティナのものだった。
”なかなか楽しめたわ。ありがとう。お元気で”
突然の別れの言葉に、美恵はかなしそうな顔をする。
「せっかく仲良くなれたのに」
「君はどこに行くの?」
和矢の問いかけに、声は意味ありげな言葉を返す。
”あなたたちの大切な人の元へ、かしら”
「オレ達の?」
”あなたたちではなくて、もっと広い、あなたたちの、ね。”
「それってーーー」
そこで声は、途絶えた。
「アリータさん?」
もう何度読んでも、返事はない。
「アリータさん?」
しかし、彼女の代わりに、和矢の腕の中で、反応があった。
「・・・・・・・・なんだ、ここは」
ローズの三白眼が、ゆっくりと、露(あらわ)になる。
「ピーター? どうしておまえが……」
まだ意識が混濁しているようで、言葉が、だいぶゆっくりだった。
「あ・・・・えっと」
何をどこから説明していいのかわからず、言葉がうまくでてこない。
「君は、遠泳中に、意識を失ったんだよ。それでずっと目を覚まさなくて、オレは心配で」
「ピーター!」
その言葉に、ローズは彼に抱きついた。
「ずっと私についててくれたのか。ありがとう。やはり私にはおまえしかいない」
いつになく素直なローズの反応に、和矢は、うまく対応できない。
隣の美恵の視線は、痛いほどだったが、無邪気なローズほど、手に負えないものはなかった。
「このまま一緒に国に帰り、すぐに式をあげよう。いいな?」
いいわけがなかった。
「ローズ、ちょっと待って、忘れてるかもしれないけど、オレには」
「ああ、なに、心配するな。これから法律を変えて、一夫多妻性にすればいい。そうすればすべて解決だ」
権力者がその気を出せば、法律さえも好き勝手できるので、おそろしいことこの上ない。
「ちょっと待って、だからオレは」
「ピーターは私が嫌いになったのか?」
至近距離から、まじまじと見つめられた。
憂いを帯びた三白眼は、色気を帯び、和矢はこんなときなのに、ローズは綺麗だなと、のんきに思った。
「私を妻にするのは、嫌か? ずっとそばにいるのは、嫌か?」
真剣な表情をされると、和矢は、弱い。
しかも相手は、自分をピーターと勘違いしているままである。
むやみに拒絶もできず、かといって承諾もできず、事態はむしろ悪化したのではないかと、和矢は頭を抱えこみたくなった。
そのとき、ローズははっとしたように目を見開いた。
『ーーずっと一緒にいるよ。永遠に、君のそばにいる・・・』
なぜだか、胸が締め付けられるような気がした。
なのに、とても幸福な気持ちがした。
彼女は突然おそってきたその感情についていけず、自分を抱きしめるようにして、目を閉じた。
「ローズ?」
心配して和矢がそう呼ぶと、はっとしたようにローズは和矢を見た。
「おまえは・・・・・ピーターでは、ないな?」
いまはもう、彼は別人なのだとわかった。
「ーーおまえは、誰だ?」
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