がり合う心

 目を開けると、見知った顔がそこにあった。

「・・・・どうして君、此処にいるんだ」

 むっとしたような声。

「そんなの知らないわよ」
「どうやって入った?」
「だから、知らないってば」

 相手も負けじと、むすっとした表情だった。

「こっちこそ訊きたいわよ。なんなのよ、ここは」
「・・・・・ああ、幻か」

 気づけば、彼女はいつも手にしているものを持っていない。
 それで彼には、これが現実ではないのだとわかった。
 それにしても・・・。
 現実ではないのだとすると、ますますわからない。
 どうして、彼女が、ここに登場する?

「とりあえず、帰る」

 そういって歩き出したものの、彼女はすぐに戻ってきた。

「出口はどこよ」

 彼は苦笑した。

「知るか」
「呼び出しておいて、何その態度!」

 我慢ならないといったように、彼女は詰め寄ってきた。

「あたしだってねえ、いろいろ忙しいのよ、アナタと違って」
「勝手に出てきたんだろ。さっさと消えろよ」
「だったら、その方法を教えてよ」

 いつものように、彼女は彼を睨みつける。
 猫のように大きな瞳が、キラキラと怒りを含んだ。

「どうして夢の中で、よりにもよってアナタに会わなきゃいけないわけ?! 安眠妨害で訴えてやる」
「できるものなら、してみろ」

 付き合ってられないと、彼は不毛な会話を中断する。

「いいから、黙ってろ。せめてそれくらいは、できるだろ、君の脳でも」

 だが、一言多いのは、もはや悪気があるという以前に、性格だった。

「なんですってえ?!」
「……黙れといわなかったか」
「なんでアンタの言うことを、あたしが聞かなきゃいけないのよ」
「どうしてそう、いちいちオレに突っかかるんだ」

 彼はそういうと、目の端に、皮肉げな笑みを浮かべた。

「あまりそう言う態度ばかり取ると、誤解する」

 彼女は、不可解な言葉に、きょとんとした。

「何を?」

 彼は意味ありげにほほえんで、視線に甘さを含む。

「教えない」
「はあ?」
「言えば、君は怒るからな。いい加減、おとなしくしててくれ」

 そんなことを言われれば、気にならない方がおかしいというものだ。

「いいから、教えてよ!」

 彼女は頬を膨らめて彼に抗議する。そうすると、河豚みたいに愛嬌があった。
 思わず彼は手を伸ばした。

「・・・・?!」

 しかし、その行為は、彼自身をも、驚かせた。

「ーーどうしたの?」

 急に動きを止めた彼に、彼女は問う。
 彼はその声につられるように、彼女の顔を見つめた。
 そこは、宇宙のように広かった。
 本当なら、どれほど手を伸ばそうと、なにかに触れることなどできない場所だった。
 なのに、彼は彼女に、触れることができた。
 できてしまった。
 本物である保証はなかったけれど、少なくとも、久しぶりに感じた、ぬくもりだった。

「・・・・本当に、どうかしたの・・・・? 大丈夫・・・・・?」

 彼女は驚いて、けれども、抵抗はしなかった。

「・・・なぜ、君がいるんだ」

 彼はつぶやくように言った。

「だから、さっきも言ったけど、あたしは」

 言い訳をする彼女に、彼は首を振る。
 そうすると、白金の髪がふわっと舞って、光を撒き散らした。

「聞きたくない」

 彼は耳を塞ぐかわりに、手の中のぬくもりを確かめる。

「知りたくない」

 彼女の髪に、頬をうずめる。

「・・・思い出したく、ない」

 最後はささやくように言って、目を閉じた。
 そうすると、そのぬくもりは、彼の全身に広がった。



 彼女はしばらく、そのままじっとしていたが、やがて彼の背中に手をまわした。
 いいこいいこするように、やさしく、なでる。

「変な・・・夢だわ」

 自分でも、自分の気持ちがわからなかった。

「なんだかとても・・・アナタのことが、愛しいみたい・・・」

 その言葉通り、彼女の眼差しは、彼を想う気持ちに満ちていた。

「アナタがあたしを呼んだのなら、ここにいるわ。必要じゃなくなるまで」

 そうしていると、彼女にはまるで、彼が小さな男の子に思えてくる。
 まだ世界の中心は自分だと思って生きている、子供時代。
 なのにこの子は、まるで世界のすべてが敵であるかのように、怯えている。

「必要じゃ、なくなるまで?」

 当たり前に得られるはずのものを、求めることさえ許されなくて。

「本当に?」

 そのとき、彼女の前にいたのは、たしかにひとりの少年だった。
 きれいな薄青色の瞳を、せいっぱい大きく見開いて、彼女を見つめている。

「いつまででも?」

 だから彼女は、安心させるようにほほえんだ。

「ん。約束する」
「・・・夢なのに?」

 彼女は声をたてて笑った。

「だって、現実だったら、出会えなかったでしょう?」

 まるで肯定するかのように、彼もほほえんだ。

「だね。そこでは「彼」は、揺るがないから」
「ああ、「彼」は、君とは違うんだ」
「そうでもないけど・・・・そうみえると思うよ」
「そのほうがいいよ。らしくって」
「ふーん?」

 男の子は、ちょっと拗ねた顔をした。

「僕じゃ、物足りないんだ」
「んー? 個人的には素直な方が好きだけど」

 彼女はそう言って、目を閉じる。
 そうすると、現実に見てきた、数々の彼の姿が脳裏に浮かびあがり、そうすると今はもう、怒りよりもどこか愉快な気持ちになった。

「慣れてしまうと、味があって悪くないのかもって。抗体ができたのかな?」
「免疫じゃなくて?」

 素朴な疑問を口にして、彼はそれでも、まだ少し拗ねた様子だった。

「随分理解してるんだ。「彼」のこと」

 彼女は首を傾げる。

「だって、アナタも一緒でしょう?」
「えー!? なんで僕が」

 有り得ないといった声。

「違うの?」
「当たり前だよ。僕は「彼」が嫌いだもの」

 あっさりいって、少年は顔をしかめる。

「おなじものだからって、一緒にされたらたまらないよ」
「・・・・ごめん、意味がわからないんだけど」
「とにかく、いまあなたといるのは、「彼」じゃなくて、僕なんだから、そのこと覚えておいてよね」

 どこか甘えるような響きがあった。それでようやく彼女にも、彼の言っている意味がわかった。

「うん、そうだね。ごめんね」

 たぶん、足りないのだ。
 圧倒的に。
 それは、この少年にしても、実際の彼にしても、その中ですら奪い合うほどに。

「ちょっ・・・痛いよ」
「あげるから」

 彼女はそう言って、力いっぱい、少年をだきしめた。

「アンタにあげる。あたしの気持ち。好きなだけ持っていって」
「ーー好きなだけ?」

 少年は驚いたように彼女を見上げた。
 彼女はにっこり笑った。

「いくらでもどうぞ」
「・・・でも、全部もらったら、空っぽになっちゃうよ」
「大丈夫だよ。そしたらまた作ればいいんだから。大量生産は得意なのよ」
「・・・・なんかそれ、違うよね」
「とにかく、心配しなくていいから、欲しいだけもっていって」

 彼女はとても、穏やかな表情をしていた。

「強がりでもなんでもないの。むしろそうして欲しいの。わたしに与えられるものがあるなら、すべて与えたいの。なんだかそういう気持ちなの」

 それは嘘偽りのない、彼女の本心だった。
 それがわかったからこそ、少年は安心して目を閉じた。
 彼女のぬくもりが、言葉が、すべて力になる。
 思えば、いままでどんなときでも、彼女が自分を偽ることはなかった。
 彼女の心と、行動のあいだに、差異はなかった。
 だからこそ、衝突ばかり繰り返してきたけれど、それでもどこかで、安心できたのだ。
 いつでもありのままの姿を晒してくれたから。
 彼女が彼を傷つけたことは、ただの一度もなかった。





「なんか、不思議だね……」

 どのくらい、そうしていたのか、彼女は夢の中で、夢を見ているような気分だった。

「あなたからとても・・・・・やさしい気持ちが流れ込んでくるみたい」
「不思議でもなんでもないよ」

 腕の中で、彼が言った。

「僕も与えたいもの。もらうばかりなんていやだ。それくらいなら、いらない」

 その言葉が、彼女の心に、すとんと嵌る。
 ああ、そうだ。
 一方通行なんて、有り得ないんだ。
 必ず影響を与え合う。
 それがひとりじゃないということの意味だから。

「受け取ってくれる人がいるのは、受け取るよりもずっと、贅沢なんだね」

 少年はしあわせそうにほほえんだ。













 遠くから、彼の名を呼ぶ声がした。
 たしかに彼女は、その声を聞いた。
 だからもう、自分の役目は終わったのだと思った。
 そっと、彼を手放すと、彼はもう、少年の姿ではなかった。

「・・・あの・・・・」

 彼女は、めずらしく言い淀んだ。

「なんだ」
「・・・これは夢よね? 目が覚めたら、忘れるよね?」
「なぜ?」
「なぜって」

 相手も同じ気持ちだと信じて疑っていなかった彼女は、驚いたように彼を見つめた。
 彼はすっかりもとに戻っていて、その冷ややかな眼差しに、自分が映っているのがみえた。

「恥ずかしすぎるからよ」
「へえ?」

 その口調は、少年と良く似ていた。

「な、なによ・・・」

 彼は腕を組みながら、ふっとほほえむ。

「君の態度次第では、忘れてやらなくもない」
「・・・・・なんでアンタが優位なわけ?」
「覚えていて欲しい?」
「・・・・・何をすればいいのよ」

 おそるおそる訊くと、彼は考えるように目を細めた。

「そうだな。たとえば」

 彼女の耳元に、続きを、ささやく。
 瞬間、彼女の頬が真っ赤に染まった。

「ばっ、ば、馬鹿じゃないの??!」

 やっとのことで口を開くものの、動揺は隠しようもなかった。

「オレはどちらでも構わない。決めるのは、君だ」
「決められるかああああああああ!!!!」

 彼女は彼から離れながら、言った。

「自惚れないでよ。アンタの思い通りにはならないわ。どうせ夢だもの。起きたら忘れるに決まってる。そうよ、そうに違いないわ」

 ほとんど自分に言い聞かせるようにそう言うと、今度こそ、彼女はこの夢を出ようと思った。
 なぜかいまは、その方法が、わかった。

「とにかく、誰か呼んでるみたいだから、アンタもさっさと起きれば?」

 捨て台詞のようにそう言って、彼女はそこから姿を消した。

「最後まで騒々しい女だ」

 口調とは裏腹に、声の響きは、やさしい。
 彼女のいなくなった空間に、静寂が戻ってくる。
 しかし、いまは彼にも、自分を呼ぶ声が、届いていた。
 そこに含まれる、圧倒的なまでの力。
 ただただ、彼を求めるだけの声。
 もし、ほかの人だったら。
 もし、それが、彼を思っての望みだったら。
 彼には届かなかった。
 たとえ聞こえても、彼は受け入れなかった。
 そんなキレイ事は、聞き飽きていた。
 もうたくさんだった。
 自分のことを、自分以上に知る者はいない。
 だから彼に対する想いは、彼にすれば、どれもこれも、戯れ事以上にはならない。
 そんなものに、どうして心を動かされよう?

 しかし、彼を呼ぶ声には、彼を想う気持ちなど、微塵も存在しなかった。
 すべては自分自身のために。
 生存本能にも似た強い欲求が、そこにはあるのみで。
 いや、欲しいのですらなく、それは、ただ必要なのだと、告げていた。



 ーー必要なものは、必ず与えられる。




 世界の掟が、狂うことはない。












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