それは、はじまりの樹だった。
世界はそこからはじまった。
たとえ誰も覚えていなくても。
ピーターは、その幹に寄りかかるようにして、ぼんやり宙をながめていた。
からだが重くて、動けなかった。
いや、本当に重かったのは、記憶のなかの、自分の想いだったかもしれない。
どうしようもなく囚われる。
彼女に関するもの、総てに。
彼は、彼女に出会う前の自分を、思い出すことができなかった。
もし、彼女に出会わなかったら?
そう仮定することさえ、恐ろしくてできなかったのだ。
けれども、ここで目を閉じると、記憶が鮮明に蘇ってきた。
この樹と共にいた頃の自分。
自由だった。
とても。
自分を縛るものは何もなくて、どこにでも行けたし、どこにいかなくても良かった。
何を求めることもなく、何かに飢えることもなく。
すべての瞬間が満たされていた。
完璧なほどに。
そう、それは、人ではありえないほどに。
ピーターは、自分の手を眺める。
たぶん自分は、違うのだろうと、今はなんとなくわかった。
彼女が自分に気づいたのも、きっとそのせい。
ただのヒトでもなく、かといって彼女のようなモノにもなれず。
なにもかもが中途半端なまま、だから未だに、何も解決できないのだ。
馬鹿のひとつ覚えみたいに、唱えている。
彼女に会いたい。
この手に抱きしめたい。
そのままひとつになって、溶けてしまいたいとさえ思った。
むかしは自分だけで完結できていた世界。
なのにいまは、こんなにも、ひとりでは不完全な自分になってしまった。
ひとりで生きることができない、それを弱さと呼ぶのなら、自分は世界でいちばん弱いのだろうと思えた。
「ピーター」
近づく人影には、気づいていた。
「探したんだよ」
最初に声をかけたのは、彼ではなくて、彼女の方。
名前は、たしか・・・・
「美恵、だよ。覚えてるよね?」
「ーー久しぶり」
「もう、のんきにしてる場合じゃないよ。いろいろ大変だったんだから!」
しかし、ピーターの視線は、彼女には向けられていなかった。
「ローズ!?」
「・・・・・」
「なんだよ、これ。冗談だろう?」
立ち上がって、近づいた。
「なんの真似だよ。おい!?」
「落ち着け・・・といっても無理だろうけど」
ほっと息をついて、和矢はローズを、ピーターに差し出した。
「せめて、おまえが抱いててやれよ」
「どうしたんだよ?!」
「・・・・時間が、止まってるみたいなんだ」
「ーーーー!???」
ピーターは、わけがわからないという顔をしながらも、ローズを受け取った。
ぬくもりはあったので、少し安心した顔になった。
「オレたちにも、彼女がいまどういう状態かわからないけど、少なくとも死んでない、・・・らしい」
和矢は、そういって、苦笑いする。
「なにがなんだか、さっぱり。けど、なんとなく、おまえが抱いていると、少し彼女が微笑んで見えるな」
「・・・・・・・」
「おまえは知ってるんだろ。彼女の気持ちを」
「・・・・・・・」
「ま、おまえにはおまえの事情があるんだろうけど、いまはついててやれよ。いいだろ」
ピーターは何も言わず、ただ腕の中の女性をみつめていた。
切なげな眼差しだった。
美恵はそんな彼の横顔を、じっと見ていた。
「・・・・ピーターって」
言いかけて、口ごもる。
「ーーなに?」
「・・・・・・なんとなく、ローズのこと、好きなのかなって」
ピーターは、視線をローズに落としたまま、答えた。
「好きだよ」
「ーーー!?」
「そりゃ、そうだろ。小さな頃からずっと一緒だった。家族みたいに大切に思ってる」
「うそ」
美恵は、その言葉を強く否定した。
「家族に対する感情なんかにみえないよ。そんな表情じゃないよ」
「・・・何が言いたいの?」
「うまくいえないけど・・・」
それ以上は、続けられなかった。
「・・・・ピーター・・・・」
彼の目尻に、透明なものが、たまっていた。
「どうして・・・・泣いているの」
「ーー泣いている? 誰が?」
彼は途方にくれたような表情をしていた。
「泣いてないよ。どうして僕が、泣くの」
まるで迷子の子供のように、無邪気な瞳で見つめ返す。
「おい・・・大丈夫か」
和矢は、心配そうに目を細めた。
ピーターは、鏡に映った和矢だった。
だから彼には、まるで自分が泣いているように思えた。
「泣くなよ・・・」
涙は、ぽつりとこぼれて、ローズの頬を濡らした。
そのとき、かすかに、彼女のからだが震えたような気がした。
「ローズ?」
彼女が目を覚ます気配はない。
それでもピーターは、何度も何度も、呼びかけた。
「ローズ! 目を覚ませよ、ローズ! 僕だよ。ピーターだよ。聞こえてるんだろ、ローズ!!」
すると、彼女の瞼がわずかに痙攣した。
「ローズ!?」
彼女の腕が、重そうに持ち上がり、やがて、ピーターの頬に、触れる。
しかし、その瞬間、すぐに力を失い、その後は何度読んでも、もう身動きひとつしなかった。
長い沈黙のあと、気を取り直すように、和矢が言った。
「きっと、大丈夫だ。おまえの声は届いている」
彼女が生きていることは、証明された。
いまはそれだけで十分だと思えた。
ふと、ピーターは背後に気配を感じた。
反射的に振り返る。
そこには、樹があった。
風もないのに、ざわりざわりと、揺れていた。
「どうかした?」
「ん・・・なんでもない」
彼はそう言ったけれど、眼差しはどこか、ぼんやりしてみえた。
「大丈夫?」
「ああ」
ほとんど惰性でつぶやいて、ピーターはローズを腕に抱いたまま、その樹に近づいた。
「ピーター?」
「ここで」
彼には言葉が届いていないようだった。
「この場所で、彼女に、出会った」
彼女、というのが、エミリィではなく、ローズだということに気づいた。
「生命力に満ち溢れた瞳で、僕を見つけたんだ。それまで、だれにも見つけられなかったのに…」
ピーターは、樹の前に立った。
「僕はずっと、ここにいたんだ。この樹と一緒に、ずっと、長いあいだ。たくさんの人が通り過ぎたけれど、だれも僕に気づかなかった。けれども、ローズは、違った。彼女だけが、僕の存在に、気づいてくれたんだよ」
思えば、それはとても些細なことだった。
けれども、言葉にすると、それはとても重要なことだった。
彼はもう一度、ローズの顔をみた。
そしてほほえんだ。
「まったく、僕は大馬鹿者だよ。なんでいままで気づかなかったんだろうな。おまえの願いを叶えること以上に、大切なことなんてなかったというのに」
優しく、彼女の髪を梳いた。
細くて少しくせっ毛の、彼女の褐色の髪。
「どうしたらおまえは、僕を許してくれる? おまえが眠っているのは、僕がおまえを傷つけたからだろう? 僕はおまえに、何がしてやれる?」
そのとき、まるでその言葉に答えるように、樹がふわりと風を作った。
聞き慣れた声がした。
”もう! ようやく気づいたのね、お兄ちゃん!”
「ーーティナ?!」
”そうだけど。そうじゃないよ。お兄ちゃん。じゃあね、たとえばこんなのはどう?”
そうして少し間があり、今度は、少し大人びた声が響いた。
”ピーター、わたしを、忘れちゃったかしら?”
ピーターは、信じられないといったように目を見開いた。
「アリータ?!!」
その言葉に、和矢も美恵も首を傾げる。
「だれだろうね・・・アリータって」
美恵がつぶやくように言うと、驚愕の表情のまま、ピーターが言った。
「・・・エミリィだ」
それでふたりは、顔を見合わせた。
エミリィ!?
って、まさにピーターの、探し人の?!
「ちょ・・・まってよ。なんで彼女がここに・・・っていうか、ティナは!?」
クスクスと笑うように、樹が揺れた。
”だれでもみんな同じだよ。名前なんてただの概念なんだから。でも、まあ、アリータは本名だよ。お兄ちゃん”
からかうような声が響く。ピーターは頭がおかしくなりそうだった。
「何言ってるんだ。ティナがアリータで、エミリィだって?! そんな馬鹿なことあるわけない!!!」
「そうよ!そんなの無茶苦茶よ!」
美恵も同意した。
「ティナはずっと和矢のそばにいたんだよ。どうしてエミリィなわけがあるのよ」
論点が、どこか違う。
「それより、ティナは小さい頃からピーターと一緒だったんだろ。エミリィに出会うより、ずっと前から」
和矢は冷静に言った。彼もまた、動揺していたが、なんとかそれを抑えようと努力していた。
「いまさら出会って、妹に恋をするのか?!」
しかし、混乱した頭は、彼の口調を強めた。
そんな彼らを面白がるように、樹はさらさらと音を立てて揺れ続けた。
”わたしはティナだし、エミリィだよ。でも、わたしはわたしだよ。ティナでもエミリィでもない。アリータ。でもこれさえ、言葉という音になった途端、単なる概念になってしまうから、本物とは言えないんだけどね、便宜上?”
「・・・よくわからないが、ピーターの妹というのも、嘘ってことか」
和矢が問うと、樹はふわふわと揺れた。
”嘘はないよ。ティナは妹だし、エミリィは恋人だった。どっちも本当だよ。だってエミリィは、本気で恋をしていたから”
どこか人ごとのように、声は言った。
”だからね、だれよりピーターのことが、わかったんだよ。彼自身さえ気づかない、彼の本当の望みが、エミリィにだけは、わかったんだよ。これで本気じゃなかったなんて、言えないでしょう?”
ピーターは、その言葉に反応した。
「ーー本当の、望み?」
少しだけ、間があった。
”……もう知らない振りはできないでしょう? ようやくあなた自身で、気づけたんだから”
彼はもう一度、ローズの顔を見た。
そして、言われていることは、すべて真実なのだとわかった。
自分はたぶん、いろいろなことを、誤魔化しすぎていた。
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