マリウスもまた、その響きを聞いた。
彼の意識は、いまだに森を彷徨っている。
成長を続ける芽と一緒に。
それは双葉にまで成長していた。
「とてもきれいな音だなあ」
無邪気に、言った。
芽は、イヤイヤするように首を振る。
「なんで? こんなにきれいなのに」
「どーこーがー?!」
ありえないといった声。
「なにこの気持ち悪い振動」
今度は、マリウスが驚く番だ。
「えーーーっ!?」
「そりゃ、純度は、高い、かもしれないよ? でもさあ」
「でも・・・?」
「重すぎる」
ぼそり、と芽はつぶやいた。
耳を塞ぎたいとでもいうように、葉っぱが少し垂れた。
「暗い。重い。耳障り」
「・・・・そうかなあ」
マリウスは納得しない。
芽は譲らなかった。
「やっぱりねえ、いくら近くても、本物じゃないものねえ」
「本物じゃないの? じゃあ偽物なの?」
「んん、そこまではいわないけれど」
「ボクは。ニセモノなの…」
それまで明るく輝いていた声が、ふっと、曇った。
それにつられて、空も暗くなった。
芽は、あちゃあ、というように葉っぱを揺らした。
「そんなに悲しまなくたっていいのに」
「だって、ニセモノだから、こんなところにひとりぼっちなんでしょ」
「そうじゃないよ」
「だったら、どうして誰もいないの?」
「それは、ワタシもわからないけど」
閉じ込められている、というよりは、何かから守られているような空間だった。
マリウスの瞳に、ふわっと、なみだがあふれる。
「もういやだよ。ひとりはいやだよ」
何かを思い出したのか、なみだは、あとからあとからあふれた。
「どうしたの?!」
マリウスに自覚はなかったが、以前も彼はこうしてひとりだったことがある。
まだ生まれてすぐの頃、どこか暗いところに閉じ込められた。
大好きな母親と切り離されて。
そのときの恐怖を、彼の意識は、深いところで忘れられずにいた。
「やだ、やだやだやだ! もうこんなところはいやだ!!!!!!!!!」
自分でもよくわからないが、マリウスは自分に力が満ちてくるのを感じた。
もっとも深いところから沸き起こる力。
何も考えてはいなかった。
ただ、ここから抜け出したいと願っただけ。
強く、強く、願っただけ。
たぶん、彼一人では、まだ足りなかった。
けれども、そこには、音があった。
芽には気持ち悪くても、マリウスには、きれいに響く音だった。
だから、力をもらえた。
そして彼は、自分の願いを叶えるために、その力を、解放した。
ビリビリ、と、紙が破れるような音がした。
そんな薄っぺらい膜だった。
剥がれ落ちてみると、そこには、驚いたようにこちらをみつめるものがいた。
「ま、さか・・・」
シャーラは、信じられないといった眼をして、夫を見る。
彼もまた、何が起きているのか、理解しきれないようだった。
「内側から、破ったのか・・・」
なかば呆然として、男はこの空間に姿を現したモノに意識を向けた。
しかし、驚いたのは、何も彼らばかりではなかった。
むしろ、マリウスの受けた驚愕の方が、大きかった。
「シャルル?!!!」
しかし、返事はない。
彼は今、膝を抱えるようにして、眠っていた。
・・・いや、本当に眠っているのか、それすら、マリウスにはわからない。
透明な水槽のようなものに、彼は身を沈めている。
白金の髪は、彼の頬を包むようにまといつき、その表情を隠していた。
「どうしたのシャルル!! ねえ!!!」
彼にはもう、シャルルしか見えなかった。
そして、さっき彼に力を与えてくれた音が、その水槽から流れていることに、気がついた。
芽が言っていたことが、理解できた。
誰も立ち入れない。
すべてを拒絶する音。
それはマリウスだとて、例外ではなく。
さっきまでは、あんなに彼に力を与えてくれたその音は、いまはただただ、彼を拒んでいる。
どうして!!??
マリウスは困惑した。
まるで知らない人のようだった。
彼はそれまで、やさしいシャルルしか知らなかった。
自分に対して、惜しみなく愛情をそそいでくれるシャルルしか知らなかった。
”あーあ。これだから、パパもママもだめなのよー”
どこかから、声がした。それは、さっきまで芽がしゃべっていた声と、似ていた。
”目の前に極上なものをぶら下げられたからって、見境なさすぎでしょ”
シャーラは、はっとしたように目線をあげた。
「アリータ!?」
”こんなの、ダメだよ。あの子が受け入れるわけ、ないよ。わたしだって、いやだもの”
「……いまさら、何の用かしら」
女の声が、すっと低くなった。
「元はといえば、すべておまえが招いたことだろう、アリータ」
男が、同意する。
「おまえが役目を果たさないから、あの子が受け継ぐしかなくなった。おまえは弟にすべてを押し付けて、逃げたのだろう」
”・・・・・・そう、ね。否定はしないわ”
しかし、その声は、どこか楽しそうですらあった。
”けど、あの子だって、逃げ出さないとは言えないわ”
「馬鹿なことを!!」
”あなたたちは、わからないのよ。わたしもあの子も、あなたたちとは違う世界にいるの”
「ーー違う、世界だって?」
”そう、よ。”
「どういうことだ」
”だから、それさえ、気づけない。その時点で、もうパパもママも、ダメなのよー”
歌うような声だった。
”もっと、広い世界が、あるわ。それを知ってしまったら、もうここには、戻れない”
「どこにでも行くがいいさ」
男は、鼻で笑った。
「おまえはもう必要ない。あの子が、私たちの願いを叶えてくれるんだから」
”・・・・・そう、ね。”
声は、そこで途切れた。
「シャルル!!」
彼らの会話を全く無視し、マリウスはずっとその名を呼んでいた。
「・・・坊や」
ようやく余裕を取り戻したのか、シャーラは、やさしくいった。
「無駄ですよ。彼の意識は、深い眠りについているのだから」
「どうして?!」
「知らないほうが、いいわ」
マリウスは納得しなかった。
「あなたのせいなの」
「それは違う」
心外だとでもいうように、男は口をはさんだ。
「本人の希望だ」
「嘘だ!」
「どうしてそう言い切れる?」
「彼がひとりで行ってしまうわけないもの。僕をおいていくなんてないもの」
「けど、君にもわかるだろう?」
そう言われると、マリウスは否定の言葉が出せなかった。
流れてくる想いは、たしかにすべてを、拒絶していたから。
けれども、さっきまで、あの森では、こんな音ではなかったはずだ。
彼を包み込む、やさしさに満ちていた。
なのに、どうして?!!
「目の前にある事実に、目をつむっても、意味がないよ。彼はそれを望んでいる。君は彼の望みを壊したいのかい」
「・・・・望み・・・・・」
マリウスは、違和感をおぼえた。
望み? こんなふうに、たったひとりで眠ることが?
望みって、そんなかなしい意味だったっけ?
もっとワクワクするような、心弾むようなものでは、なかったかしら?
意識が混乱してくる。
気づけば、いつでも近くにいて、自分を守ってくれた存在。
慈しみという、言葉の意味を教えてくれた存在。
そんな彼の望み。願い。
それが、いまのこの状態なのだろうか?
もし、本当にそうだとして、じゃあ僕は、それを受け入れられるのかしら?
マリウスは、嫌だ、と思った。
迷う余地は一ミリもなかった。
彼はシャルルに会いたかった。
彼が自分に会いたいかということは、どうでも良かった。
自分が、彼に、会いたいのだ。
そのために行動するのは、ごく当たり前だった。
「君は・・・」
さっきまで少年の姿だったマリウスは、いまはまた、赤ん坊に戻っていた。
だからこそ、迷いはどんどん消えていった。
ただ自分の望みを叶えるために、泣き叫ぶ。
それは、生まれて間もない頃は、当たり前のこと。
「しゃるる」
マリウスは、彼を求めた。
言葉ではなく、心で。
それは、強い想いになって、水槽へと吸い込まれていく。
偽りの言葉とは違い、力を持って。
しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる。しゃるる・・・・・・・・・
ほとんど無意識に、求め続けた。
それが、マリウスの、当たり前、だった。
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