まれない時間の中で

 その響きは、世界のすみずみにまで届いた。
 生きとし生けるものすべてに対して。
 しかし、気づける人はいなかった。
 あまりに人々は、ここにはないものばかりに、囚われていたから。
 その反対に、人以外のすべてのものは、その音に気づいた。
 そして、魅せられた。
 音というのは、波動であり、彼らの存在そのもの。
 だからこそ、彼らとその音を隔てるものはなかった。

「あ・・・・」

 月の女神は、思わず声を漏らした。

「こ、れは・・・・」

 海の王子も、苦しげな息をつく。

「どうかしたの?」

 不思議そうな顔をするアンドリューに、ふたりは、顔を見つめあった。

「あなたには、聞こえないの」

 そういって女神は、悲しそうに微笑む。

「そう、よね」

 自分に言い聞かせるようだった。

「それにしても、なんて音だ」

 王子は感嘆していた。

「随分長い時間を過ごしてきたつもりだったが、こんな音を聞ける日が来るだなんて」
「だから、何の話なの!」

 痺れを切らしたアンドリューが叫ぶと、女神は静かに首を振った。

「言葉では、伝えられないの」
「・・・・・・・・」
「あなたたちは、あまりにすべてを、言葉に頼りすぎてきたわ。だから、気づけない」

 そう言われると、アンドリューには返す言葉もなかった。
 けれど、それは仕方のないことだ。
 人類の築き上げてきた文明は、言葉の発明抜きにして、語れない。

「言葉がなければ、意志疎通ができないよ」
「そんなことはないよ」
「だって」
「そもそも、そんな必要すらないんだから」

 海の王子は、優しい眼差しを、月の女神に向けた。

「わたしたちは、ただ見つめ合うだけで、わかりあえる」
「・・・・・そんなのは、だれにでもできないよ」
「それが当たり前だったのだけれどね。君の言うことは、正しい。だからわたしたちは、もう記憶でしかここにはいれない」
「ーーどういうこと?」

 いぶかしげな顔をしたアンドリューに、月の女神は、静かに答えた。

「私たちは、彼らの記憶。本当は存在してはいけないもの。消えるときを、ただ待つもの」

 彼には理解できない。それがわかったのか、王子がつけたすように言った。

「海の王子も、月の女神も、お互いの存在を、決して憶えていられない。だから我々が、彼らの代わりに、憶えているんだよ」
「おぼえて、いられない? だって、愛し合ってたんでしょう?」
「人とは違う。純粋な想いは、存在はできても、それは残らない。触れ合えば生まれる。けれども、その瞬間だけのこと。月が隠れれば、すぐに想いも消えてしまう。彼らは気の遠くなるほど、別れと出会いを繰り返してきたんだ。そして、いまでも繰り返している」

 アンドリューには、理解できなかった。

「だって、純粋なほど、ブレないでしょう? 少しの狂いもなく、覚えていられるでしょう? なに言ってるのか、わからないよ」
「ああ、君は誤解しているんだな」

 ようやく、話の噛み合わない理由が、彼には理解できた。

「遠い遠い昔、この世界には、詩しかなかった。それは想いを生み出した。でも、それらはすべて、変化するものだった。それが純粋という意味だった。流れ落ちるもの。通り過ぎるもの。決してつかめないもの。人の言葉で言えば、それは波動。決してとどまることはできないもの。だから、その世界は淀みがなかったんだ」

 とどまることのできないもの・・・。
 アンドリューは、頭の中で、繰り返す。
 すぐに移り変わるもの。同じ場所にはいられないもの。
 彼自身、そういう感覚は、あまりなかった。
 けれども、知っていた。
 そういう流れの中で、生きている人がいることを。
 たとえ喜びを感じたとしても、その余韻のなかにとどまることのない人を。
 時間という檻のなかに、彼は常にひとりでいる。
 まるで彼の時間だけ、他の人とは流れ方が違うとでもいうように、どんな感情も、彼の中に留まり続けることができない。
 それは、彼が純粋に近い存在だから?

「僕は、そんな世界は、つまらないと思うよ」

 アンドリューは、強引に、自分の考えを捻じ曲げた。
 だめなのだ。こんなふうに、彼を理解してしまっては。
 でなければ、彼は本当に、ひとりになってしまう。

「純粋が、正しいの? だって、不純物のない水のなかでは、生きられない生命があるって、聞いたことあるよ。生命は常に揺らいでいるんでしょう? 僕なんて、すぐに迷うし、悩むし、間違うし、だけど、その分、解決したら嬉しいし、自分で道を決められたら、誇らしいし、そういうのが喜びでしょう?」

 懸命に言い募るアンドリューに、海の王子は、静かに頷いた。

「その通りだ。私は否定しているのではないよ。純粋の意味を、伝えたかっただけだ」
「ああ・・・・そうだよね。ごめんなさい」
「いや、嬉しかったよ」

 驚いて見上げたアンドリューに、ふたりは、ほほえんだ。

「だって、まさに我々は、君の言う”ゆらぎ”の一部なんだから。本来なら存在しないはずのもの。残るはずのない想い。なのに君は、そんなあいまいさが、大切だと言ってくれた」
「ええ。本当に。決して自ら認めることのできないもの。あなたに言ってもらえて、嬉しかった」

 まるでそれが最後の言葉とでも言うように、ふたりは声を揃えた。

「「ありがとう」」

 そうして、ほほえみを浮かべたまま、ふうっと目を閉ざし、重なり合うように倒れた。
 アンドリューには、見える気がした。
 彼らの記憶が、消えていこうとしているのが。
 これまで、誰にも認められず、自分自身でさえ認められず、
 けれども、失うこともできずにいた記憶。
 いま、ようやく役目を終えることが、できたのかもしれなかった。

「・・・ばいばい。いい夢を見てね」

 つぶやくように言った。涙よりは、笑顔の方が、彼には似合った。









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