邪魔者たちが去った空間は、暗く、静かだった。
彼にとっては居心地のいい闇のなか、どうしようもなく浮かび上がるのは、思い出すつもりのなかった昔の記憶たち。
それまで、存在していることさえ忘れていた。
忘れていなければ、生きることさえ苦痛でしかなかった。
けれどもその記憶の中に、たったひとつだけ、希望があった。
はじまりは一通の電話だった。
ごくプライベートな番号で、知っているものは限られている。
「――ウイ?」
宿敵との闘いを終え、失えるものはすべて失った。
得られたものは彼にとって価値のあるものではなく、それでも生きていたのは、惰性以上のなにものでもなかった。
当主として、すべきことはいくらでもあったし、打算的な理由にしろ、彼を必要とする人は多かった。
けれどもそれに何の意味があるというのだろう。
結局のところ、これまで彼が望んだものはすべて彼の手を離れ、二度と取り戻せないものとなっていた。
残ったのは、ただ重く圧し掛かる、薄っぺらな地位と責任。
「シャルル!?お願い!助けて!!!!」
受話器越しに、悲鳴のような声が聞こえた。
一瞬、相手が誰かわからなかった。
「・・・・誰?」
「マリウスがっ、マリウスが!!!」
「――アデリーヌか」
あまりに取り乱していて、いつもの冷静さは微塵も感じられなかったが、たしかによく聞けば、それはアデリーヌの声に間違いない。
「マリウスが、どうした」
次の瞬間、ほとんど叫ぶような声がした。
「とにかく今すぐ来てちょうだい!!!」
彼女の判断は、正しかった。
いくら電話越しに説明を受けても、実際にこの目でみないことには、信じられなかったに違いない。
彼が数ヶ月ぶりに会った赤ちゃんは、その姿を少年にまで成長させていたのだ。
ベッドの中で、苦しそうな息を漏らしている少年。
瞳は閉じられたまま、それでも、彼がマリウスであるということは、シャルルにも理解できた。
納得ができたかは別として。
「事情を最初から説明してくれ」
目眩のようなものを感じながら、シャルルがそう言うと、アデリーヌは椅子に倒れこむように座って、額に手を当てた。
「わたしにも、わからないの」
彼女が極度の疲労状態であることは、一目瞭然だった。
シャルルは軽く息をつくと、腕を組んで、壁に背を預けた。
「予兆は」
「・・・・・・なかったと思うわ」
「本当に?」
「昨夜から、熱が高くて、でも赤ちゃんにはよくあることだから、ゆっくり休めば治るだろうって、思ってたんだけど・・・」
そういってアデリーヌは、膝の上で両腕を組み、その上に額をのせてうつむいた。
「ずっと、手を握っていたの。でもいつの間にか眠ってしまって、今朝、鳥の声で目が覚めて、熱は下がったかしらと思って確認しようとしたら・・・・」
そこまで言って、強く、目を瞑る。
「まさか、こんな」
シャルルは、もう一度ベッドに眠る少年をみた。
軽く診察した限り、熱がある以外、特に異常は見られなかった。
心音も正常、脈拍も許容範囲、詳しいことは精密検査をしなければわからないが、今の段階で気になる点はない。
それでも、明らかに有り得ない現象が起きているのだから、異常がないはずがない。
「アデリーヌ」
彼は、自分を落ち着かせるように、ゆっくり彼女の名前を呼んだ。
冷静さを欠くのは命取りだと、知っていた。
「少しの間、彼を預からせてくれないか」
アデリーヌは、その言葉を予想していたのか、特にためらう様子もなく頷いた。
そして、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい……」
シャルルは、訝しげな顔をする。
「何が」
「・・・あなたを、巻き込んでしまって」
「――それで?」
何を言っているのかわからないというように、首を振る。
「君の手に負える問題じゃないのは、明白だ。それに」
言いながら、彼は壁から身を起こすと、ゆっくりとベッドに近づいた。
少年の髪を、そっと、撫でる。
何度も、何度も。
「巻き込まれるのは、光栄だね」
そういって彼は、慈しむようにほほえむと、目を伏せた。
「この子には、何でもしてやりたいんだ」
間が、あった。
「―ー兄として」
その言葉に、アデリーヌは一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐにそれは、笑顔へと変わった。
「ええ、大切な、家族だわ」
はじめて出会ったあの日から、彼は何度もこの家を訪れた。
そして、マリウスと触れ合うあいだだけは、いつもの冷ややかな表情を脱ぎ捨てて、とても、くつろいでいるようにみえた。
それはまさに、家族との団欒のなかでしか育まれないもの。
彼女にとっても、彼を本当の息子のように思っている。
「きっとこの子は、誰よりおにいちゃんっ子に育つわね」
アデリーヌの声は、確信に満ちていた。
「というか、すでにそうなっているんだけれど」
シャルルは苦笑する。
「いまだけだ。私は成長した彼に、会うつもりはない」
「え?!」
「当たり前だろ」
アデリーヌには、返事が出来なかった。
彼の言わんとしていることが、よくわかった。
アルディの名を背負わせないと決めたのは、彼女自身。
今更何を言っても、仕方がない。
それでも、せっかく積み上げてきたふたりの絆を、途切れさせたくないという思いは強かった。
「シャルル」
彼女は思い切って言った。
「マリウスのことだけど、もし」
「アデリーヌ」
感情のこもらない声が、部屋に響く。
彼女ははっとして、口を噤んだ。
「感情に任せて言葉を発するな。オレは君の判断の正しさを認めているんだ」
心なしか、くだけた口調だった。
「でも、わたし」
「それに」
シャルルは言葉を押しかぶせるようにして、彼女の言葉を奪う。
「幸か不幸か、今のマリウスは十分に成長している。本来なら、決して出会うことのなかった彼が、ここにいる」
アデリーヌは、驚いたようにシャルルを見つめた。
そしてその瞳の中に、絶望よりもむしろ、希望を見つけたとき、それまで感じたことのない強い尊敬を、抱かずにはいられなかった。
こんなときなのに。
いや、むしろ、こんなときだからこそ。
決して色褪せない光のような意志が、眩しかった。
彼女はもう、何も言わなかった。
すべてを委ねる決心が、できた。
今起こっていることも。
これから起こることも。
自分はただ信じて、見守っていこう。
何が起こっても、見失うことなく。
「おにいちゃん」
いまだけは、そう呼ばせて欲しかった。
「マリウスを、お願いね!」
その言葉に、兄は、力強く頷いた。
ああ・・・違う、これは夢なのだ。
限りなく甘美な夢。
決して、実現することのない未来。
自分に家族がいるはずがない。
すべては失われていくだけで、何かが新しく生まれることなど、あるはずがない。
だから、これは都合の良い思考。
瞬きする間に、なくなってしまうもの。
そんなものに執着すれば、苦しいだけだ。
必ず通り過ぎるとわかっているのに、捕まえようとするのは、愚か者がすることだ。
ああ・・・けれども。
彼は気づいてしまう。
その苦しみさえもが、手放せないのだと。
それは夢の余韻だから、どんなに自分を苦しめようと、失うことなど、できないのだと。
そう気づいたとき、彼は自然と、すべてを受け入れることができた。
我を忘れるような喜び。
深い闇に満ちた悲しみ。
息ができないほどの幸福。
そして、狂気に隣接する絶望。
すべてが、等しい重さをもって、彼の中に、沈んでいった。
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