しい人

「駄目だよ!」

 取り戻すように手を伸ばして、自分の声に目が覚めた。
 驚いたようにこちらをみつめている青灰の瞳は、彼が求めているものとは違う。

「どうかしたのか?」

 声も、同じなのに。そこに宿るものが違うのだ。まったく、違う。
 アンドリューはため息をついた。どうやらいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
 気づけば、他のメンバーの姿は消えていた。

「あれ・・・・」

 きょろきょろ辺りを見回していると、そぅっとドアが開いて、ジルが―――よく似た、女性が――入ってきた。

「お目覚めですか」
「皆はどこ?」
「まだ・・・・眠っている」

「え?」

 言われて、よくみれば、たしかに皆、そこにいた。
 目を閉じて、気持ち良さそうに眠っている。
 アンドリューは首をかしげた。

「おかしいな・・・」

 ついいままで、いなかったはずなのに、寝ぼけていたのだろうか?
 狐につままれたような顔をしていると、クス、と彼女が笑った。

「あなたはとても素直な人なのね」

 やはり彼女も、ジルとはまったく別人なのだと納得できた。

「どうしてそんな姿を・・・しているの」

 そう言うと、今度は彼が首をかしげた。

「どうしてとは、どういう意味だ?」
「シャルルと同じ。そして彼女はジルの姿。ただの偶然って言われても、信じられないよ」
「シャルル?ジル?」

 何を言っているんだと、彼女が眉をひそめる。

「私たちは、ずっと変わらないわ。たしかに同じ姿で驚いたけれど、もともと関係ないことよ。たとえどんな形であろうと、彼はこの世界でたったひとりだもの」

 そういって彼女は、うっとりとした視線を彼へと向けた。
 彼もまた、愛しそうに彼女を見つめ返した。
 アンドリューはその光景を、みていたくはなかった。
 ここにいるのはシャルルでもないし、ジルでもない。
 心では、充分すぎるほどわかっているけれど、目に映る彼らは、ふたり以外の何者でもなく、だからこそ、みていたくなかった。
 それで目をそらしながら、つぶやくように言った。

「あなたたちのせいじゃないけど・・・・・これ以上奪わないでよ」

 夢の輪郭があまりに曖昧すぎて、思い出すことができない。
 けれども、言いようもない不安が湧きあがってきて、このままではいけないと、告げる声がする。
 どうしたらいいのかわからない。
 わかっているのは、ここに本物はないということ。
 真実は闇の中。そして彼はひとりで、そこへ行ってしまったという事実。

「いつもそうなんだ・・・・・。結局そうやって、自分ひとりで何でも解決して、誰の力も借りないで、頼らないで、そうやって生きてるから、信じてもらえてないって誤解しちゃうけど・・・・でも本当は逆で、大切にしすぎるから・・・・・守られてるって、相手に気づかせないほど注意深く愛するんだ、彼は・・・」

 文句を言いたいことは、山ほどある。
 だけどそれ以上に、お礼を言わなきゃいけないことがたくさんある。
 そしてそんなことよりも、伝えたい言葉はたったひとつ。

「ずるいんだよ、そうやっていつもいつもいつもいつも。僕は置いてけぼり。優しい愛は哀しいってこと、彼は知るべきなんだ。庇われるだけなんて、嬉しくも何ともない。だから、あなたたちの自由にはさせないからね」

 自分でも、何を言っているのかわからなかったけれど、いまははっきり、目の前にいるふたりは味方ではないとわかった。
 考えれば当然なのだ。彼の肉体を奪っている。それだけで彼にいわせれば、万死に値する罪。

「返してよ!シャルルのなんだから!あなたたちのことは知らないけれど、彼のことならいっぱい知ってるんだから!」
「落ち着いて、ぼうや」

 女が困ったような顔をする。男は悲しそうな顔をする。ふたりは顔を見合わせて、頬を濡らしている少年をみつめた。
 涙は心の浄化剤。流すほどに、清められる。純度を増していく心は、姿も形も超えて、存在そのものが、尊い。それは人のみに限らず、想いそのものだから、精霊にさえ、響きを与える。
 震えるというのは、波動そのもの。この世を満たすエネルギィ。

「事情は良くわからないけれど、この姿を餌にしたのは彼のほうだ。私は釣られただけで、奪い取ったわけじゃない。つい誘惑に乗ってしまったのだけれどね・・・・・・・触れたくて」

 彼女に向けられる眼差しは、本当に大切なものを手にしたものだけができるものだった。
 彼女の頬がうっすらと染まる。彼が伸ばした手に触れる。指先が触れ合う。それだけで、分かち合える。

「私は・・・・謝るわ。彼女のからだを借りたこと。姿はすぐにお返しするわ。でも彼の目に映る私は・・・・自分でありたかったの。ごめんなさい」

 申し訳なさそうに頭を下げた彼女に、アンドリューは、静かな微笑を返した。

「僕こそ、取り乱してごめんなさい」
「いいのよ」

 髪をなびかせるように首をふって、彼女はにっこりほほえんだ。

「私が彼を想うように、あなたにとってシャルルは、とても特別な人なのね」

 隣で彼が頷いた。どこか嬉しそうな表情をしていた。

「大丈夫。すぐに元通りになるさ」

 けれどもアンドリューは、それを信じることができなかった。
 あのシャルルが、意味のないことをするはずがない。
 彼の行動は、常に必要な結果を求めて起こされるものだと、長年の付き合いで知っている。
 感情に任せて動くことが、ないとはいわないけれど、それはむしろ、危険な気がした。
 ゼロか百か、と考えるクセがある。完璧主義ならば、当然なのかもしれないが、アンドリューの目には、そんなシャルルがとても危なっかしく、脆いガラスのように映った。
 透き通っていて綺麗だけれど、少し力をかければ、パリンと割れてしまう。
 もちろん彼はそんなにヤワではないし、弱い人間ではない。
 けれども人には誰でも、弱点があるものだ。
 完璧であるがゆえの急所。そこをつかれれば、硬質であればあるほど、壊れてしまいはしないだろうか?

「・・・・・・早く戻ってきてよ・・・・・」

 可愛いオジに、こんなに心配させるなんて、甥、失格だよ。
 そんな彼の心配が映ったかのように、海と月の瞳にも、不安が浮かび始めた。
 けれども・・・・皮肉なものだ。
 暗く淀んだ海に浮かぶ朧月が、こんなにも美しいものなんて―――。



 



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