と鼠の取り引き

 もうすぐですね、と彼女が言った。
 ああ、もうすぐだな、と彼が答えた。
 そしてそのことを肯定するように、その人は、現れた。

「はじめまして」

 しずかに彼女は頭を垂れた。

「まさかこれほど早く、おいでいただけるとは」
「・・・目的は、何だ」
「まあ、恐い顔をなさって」
「こちらで休まれるが良かろう。若者よ」

 差し出された手を、彼は一瞥する。

「何の真似だ」
「なにって、客人はもてなすのが礼儀」
「客人?」

 そこではじめて、彼の表情が動いた。

「戯言はいい。用があるなら早く言え。私は忙しい」
「おやおや、客人はご多忙のようだ、シャーラ」

 人の良い笑みを浮かべて、男は妻に視線を向ける。

「そうね、せっかくここまで来ていただいたというのに。せめてもてなしくらいはさせていただかないと、我が一族の恥ですわ」
「妻もこういってることだし、少し落ち着いて、我々の話を聞いてはもらえませぬか―――シャルル殿」

 彼は冷ややかな微笑を浮かべて言った。

「断る」

 仲良くする気など、露ほども持ち合わせていなかった。

「ここに来たのは、あの子を返してもらうためだ。ずいぶんと手の込んだゲームを用意してくれたね。楽しませてもらったといいたいところだが」

 そこまでいって、ほほえむ。侮蔑をこめてうっすらと。

「もうゲームオーバーだ。マリウスは返してもらう」

 そのとき、それまで柔和だったふたりの表情が、少し変化した。

「・・・あなたにそれができるのかしら、シャルル」

 女の唇には、まだ微笑が残っていたが、瞳にはむしろ残酷な笑みが浮かんでいた。

「だいいち、あの坊やはまだこちらにいるのよ。あなたが絶対に入れない場所に。どうやって連れ帰るの」
「私が今ここにいるのは、どうしてだと思う?」

 その問いに、ふたりはわずかに首をかしげたが、やがてはっとしたように顔を見合わせた。

「しかし、君・・・・そんなことをすれば君自身だって」

 多少驚いた様子で、男は問う。それに対し、シャルルはいつもと変わらない冷ややかな眼差しで、嘲るように男を見た。

「私の心配を、あなたにしてもらう必要はないな。あなたがたはただ決断すればいい。何を選ぶのか。何を守りたいのか。私の答えはとっくに決まっている。あまり待たせないでもらえると嬉しいね」

 命の選択を、迫る男の表情ではなかった。
 冷ややかな眼差しは、何かをごまかしている目ではない。
 この場所で、心を偽るなどできるはずはなかった。
 あるのは、純粋な精神だけだ。姿形は単なる幻影にすぎない。

「全部知ってますって顔ね」

 女はあきらめたようにそういって、小さく息をついた。

「あなたみたいな人、大嫌いですわ」
「それは光栄だ」
「自分はなんだってできますって信じている。私たちにさえ、それは無理なのに、たかだか人間の貴方に何ができるというの」

 ――何ができるか、だって?
 愚かな問いかけだと思った。
 根本的な違いがある。彼らは自然そのものであり、人間とは異質な存在。あるがままに、ある、その自由さは人の及ぶものではない。
 けれども、だからといって、何もできませんと匙を投げる気はなかった。
 そもそも神など信じていない。
 人として生まれて、生きてきた。どんなに矛盾が生じようと、自分が自分であると言う、その誇りさえあれば生きてこれた。それがあったからこそ、生きてこれた。

「なんでもできるさ。自分がしたいことはね。信じているわけじゃない。そうしたいと願っているだけだ」
「自信過剰だな、君は」

 妻の言葉に同意するかのように、男は顔をしかめた。

「人間の悪い癖だ。奢り高ぶり、まるで神のように振る舞う」

 その言葉にシャルルは小さく笑った。

「わがままなだけさ」
「先程の提案ですけど」

 低い声が響いた。女はゆっくりとシャルルに近づき、彼以上に冷たい眼差しを向けた。

「わたしたちには、あの坊やが必要なの。返すわけにはいきません。・・・といいたいところですけど、幸運なことに、もうひとり、代わりになりそうな者をみつけたのよ、ゲーム中にね。それが手に入れば、あの子を返しても構わないわ」
「・・・・そいつを連れてこいと?」
「いや。その必要はない」

 傍で男が意味ありげに笑った。
 そしてゆっくり手をあげると、長い指を、シャルルの方へと向けた。

「君だよ。シャルル。我々がみつけた、もっとも気高き魂。・・・よい器になるだろう」

 そうして彼らは微笑みあった。
 あと少しで手に入れられる喜びと、安堵。
 成熟した精神の方が、あの子も居心地がいいに違いない。

「というわけですの。形勢逆転と言うのかしら。決断して下さらない?」

 彼はまったく表情も変えず、間を置くことさえせず、答えた。

「交渉成立、だな」

 彼の望みは、誇りを持って生きること、自分の意志で道を決めることだった。
 そして真理は、絶えず矛盾を孕んでいる。
 
 



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