「やっぱりここでしたか、なつきさん」
名前を呼ばれて、彼女ははっと我に返った。
振り返ると、そこにたくさんの人たちがいて、自分を見ている。
「アンドリュー君。それに皆も・・・」
ふと、視線を隣に移した。視界にはその人も入っていたはずなのに、改めて、気づく。
あ・・・。
その青灰の瞳は、残念ながら彼女には向けられていなかった。
彼女の背後に、彼に良く似た人がいる。額縁の中で微笑んでいる。彼女はずっとその絵をみていたのだった。
「ほんとだ。シャルルにそっくり」
驚いたような美恵の声に、和矢が首を傾げた。
「そうか?たしかに姿形は似てるけど・・・」
腑に落ちないといった様子だ。
「それだけで十分じゃない。姿かたちの他に何があるの」
「雰囲気」
ぽそりとNAOがつぶやいた。彼女はなぜか少し怒ったような顔をしていた。
「美恵さん。良く見て下さいよ。どこが理事長に似ているんですか」
「・・・そう?」
美恵はきょとんと首を傾げる。明美が納得したように深く頷いた。
「あばたもえくぼ。恋は盲目。結局みんな、特別な人とその他にわかれるのよ。もちろん審美眼も」
その証拠に、といわんばかりに、明美は美恵に質問した。
「お兄ちゃんとピーターは、似てると思う?」
「まさか!」
即答だった。
「そりゃあ見た目はそっくりだけど」
「はい。ストップ」
明美は嬉しそうな顔をする。
「その説明は、いまの私達と同じでしょ」
「ああ・・・・・・そっか」
「ったく、静かに絵の鑑賞もできんのか、おまえらは」
苦笑混じりの美女丸の声がした。彼は腕を組みながら、飾ってある他の絵を順番にみている。
「ああら。お言葉ですけどね、美女兄」
絵画鑑賞なんて、そんな優雅な趣味、彼にあったとは思えない。
それをネタにからかってやろうと思った明美だったが、ふと、この場でもっとも不機嫌であろう彼が、何も言わないことを不思議に思った。
同じことを、和矢も思ったのだろう。すっと彼のそばに寄ると、その肩を抱き寄せるようにして彼に話し掛けた。
「いったい誰なんだ、こいつ」
するとシャルルは、視線を絵画に向けたまま答えた。
「神」
「は?」
聞き返したのは和矢ばかりではない。
「おまえ、いま、何て言った?」
シャルルはうるさそうに繰り返す。
「君は耳が悪いのか。神、と言ったんだ。さらに付け加えれば、海の神だ」
「なんでわかるんだよ」
「書いてある」
「・・・・・・・」
その意味を理解するのに、数秒かかった。
「どこに?」
「目まで悪いとみえるな。今度矯正手術でもしてやろうか」
冗談ともつかない口調で言うと、シャルルはゆっくりとその絵に近づいた。
「失礼」
なつきの肩に手をかけ、彼女をその場からどかす。彼女はしばらく、触れられた箇所をさわってドキドキしていたが、次第にその気持ちは熱を帯び、自分でも意外なほど、彼を愛しく思う気持ちが強くなった。
「この肖像は、月の女神によって描かれたものだ。この対として、彼によって描かれた彼女の肖像がある。その間、ふたりはとても満たされていた。相手を描くことで、その心まで独占できたから。たとえ永遠に触れ合うことができなかったとしてもね」
そういってシャルルはなつきのほうをみた。瞳と瞳が重なる。青灰の瞳に、甘やかな情熱が浮かびあがり、求めるようになつきにそそがれていた。そしてまた、彼女も。制御不能なほどに。
「ちょっ・・・・なにみつめあってるのよ・・・・・」
明美がたまらず声を上げたが、それさえ、ふたりの耳には届いていないようだった。
近づいたのは、どちらが先だったのか、次の瞬間、ふたりは息もできないほど強く抱き合い、唇を重ねていた。
恐いくらい静かな沈黙が訪れる。それとは対照的な、ふたりの抱擁。明美は自分がどうして叫びださないのかが不思議だった。そんな気持ちにさえなれないほど、ふたりは他者の介入を拒んでいる。いや、本当にいまここに、自分達ふたりしかいないと思っているのかもしれない。
そんなふたりを、冷ややかに見つめる瞳があった。
和矢は注意深く、シャルルを見ていた。
「やだ、そんなに見たら失礼よ・・・」
心なしか赤面した美恵が、和矢の手をつかむ。
「すごいよね。シャルル・・・・・・・あんな感情的な彼、はじめてみたわ」
人目もはばからず、こういった行動に出るからには、よほどのことに違いない。
「あいつ・・・・本当にシャルルか?」
その横で、和矢がぽつりとつぶやいた。美恵は驚いて隣を向いた。
「何言ってるの?」
「ちょっと信じられないな。あんなあいつはみたことがない」
「だから、それくらいなつきさんが好きなのよ」
「だとしても」
きっぱりと言って、和矢は美恵の方をみる。
「君だって知ってるだろう。いまがどういう状況か。まだマリウスは行方不明だし、彼を戻す手掛かりもない。おまけにローズは瀕死だ。そんなときにあいつが、好いた惚れたで動く奴だと思うか? オレには信じられないよ。たとえ本気で彼女に惚れてたとしても・・・あいつは自分の為には行動しない。そういう奴なんだ」
断言するように和矢は言ったが、美恵にはその言葉が素直に受け入れられなかった。
「それでも、思ってもみなかった行動をしてしまうときだってあるでしょう?自分ですら信じられないような、恥ずかしい、愚かしい行為を、してしまうときだってあるわ。何もかも忘れて、気持ちの赴くまま、求めてしまうことだってあるわよ!シャルルだって人間なんだから、失態のひとつやふたつ、あったっておかしくないじゃない」
すると和矢はふぅっとかなしそうに視線を伏せ、だといいけどな、とつぶやいた。
「そうできれば、あいつはもっと楽になれるんだろうな・・・」
その表情に、美恵は不安になる。
「ねえ、どうして。なんであれがシャルルじゃないって思うの。それじゃいったい、本物の彼はどこにいってしまったのよ」
「さあねえ」
それに答えたのは、ルイだった。彼女もまた、少しかなしそうな顔をしていた。
「わたしも和矢の意見に賛成だわ。あれはシャルルじゃない。誤解しないでね、やきもちとか、そういうんじゃないのよ。わかるのよ、なんとなく・・・・」
「そんな、私にはわかんないわ」
「だからね、恋は盲目なのよ、美恵ちゃん」
ぽんと明美が、美恵の肩をたたいた。
彼女もどこか、さびしそうな表情だった。
「あれがほんとにシャルルだったら、あたしこの場で、泣き叫んでいるわ。でもそうはならない。だってあれはシャルルじゃないもの。無意識にそれを感じてたから、こんなふうに冷静なんだわ」
美恵は残りのふたりをみた。NAOも、コクンと頷いた。
「美女丸もそう思うの?」
「オレ?」
彼はひょいと肩をすくめた。
「別に、なんだっていい。あいつが誰を好きになろうが、どう動こうが、関係ないからな。けど、たしかに変だとは思うぜ」
そういって肖像画に視線を向ける。表情は険しかった。
「説明書きがある形跡はない。なのにあいつは、書いてあるといった。おまけに解説まで。なんでそんなことが分かるんだ?」
それは説得力のある説明だった。
「たしかに、おかしいな。ってことは、可能性として、あそこにいるのは」
みなの視線がいっせいにその肖像画へ集まる。シャルルに良く似た別人。海の神。
「・・・・・・・・え」
ひとり、シャルル達の方に視線を向けたアンドリューは、その光景をみて、絶句した。
彼の腕に抱かれているのは、なつきではなかった。
ついさっきまで、たしかにそこにいたはずの彼女の姿は消え、そのかわりに、そこにいたのは。
「・・・・・・・・・・・・・ジル?」
もうひとつの肖像に映る女性、月の女神。
「えっ?ほんとだ。。。。。。。。。」
明美も茫然とつぶやいた。次第に胸が苦しくなってくる。頭ではわかっていても、目に映るのはシャルルとジルのラブシーンなのだ。こんのって・・・・残酷だ。
「・・・・・・馬鹿みたい」
吐き捨てるようにそう言った。何か言わずにはいられなかった。
「狂ってるわ、こんな世界。そっくりさんばかりで、ひとりも本物がいないじゃない。馬鹿にしてる」
その人の姿と形は、その人だけのものなのだ。
たとえどんなものであろうとも。
その事実が歪んでいるから、いろんなことがおかしくなる。
「もう、わかんないよ。お兄ちゃんだって、本当にお兄ちゃんなの?ピーターじゃない保証はあるの?美女兄も、他の皆も、ううん、私自身だって、本物だって言えるの!? 気持ち悪いよ、こんなの。・・・帰りたい」
彼女の感受性は、ほとんど限界に来ていた。
許容量オーバーぎりぎり、あと少し何かがあったら、パリンと割れてしまいそうな不安。
そのことに気づいたアンドリューは、彼女のそばにいくと、彼女の右手を握った。
「・・・リュ―」
「大丈夫だよ。アッキ」
強く、握ってくれる手の暖かさに心が安らぐ。
「みんな、ちゃんとここにいる。シャルルも、なつきさんだって、願いはみんな同じなんだから。気持ちは全部ここにあるよ。そして気持ちのあるところに、人は戻ってくるんだ。それがないと、生きていけないからね、どんな世界だって、それはきっと変わらないんだ。僕はそう思うよ。アッキは?」
ぽろぽろと、明美の瞳から涙がこぼれる。それは安堵の涙だった。アンドリューの、優しすぎる声のせいだった。
「アッキ・・・・・」
「やだっ、ちが」
あわてて目をこする。元気をもらったのに、泣いていたらまるきり反対だ。
「うん。大丈夫。リュ―がいてくれるもん」
泣き笑いみたいな顔で、それでも笑うことができた。それを守りたいと思ってくれる人のおかげで。明美はとびきりの笑顔を、アンドリューにみせたかった。
「ごめんなさい・・・」
ふと、声がした。高い澄んだ声に、聞き覚えはない。みれば長い金髪を腰まで垂らした女性が、申し訳なさそうな顔で立っていた。
「すぐお返しするわ・・・・・本当にごめんなさい・・・・・」
「私からも詫びを言わせてくれ。すまなかった」
隣に並ぶのは、シャルルの姿を持つ男性。
「あの・・・・・・海の神様ですか?」
美恵がおそるおそるといった感じで尋ねると、ふたりは顔を見合わせてほほえんだ。
「確かに。――とはいっても、もう昔の話だけれどね。私たちはこの絵に残る記憶だよ」
「シャルルはどこ?」
端的に、明美が訊いた。
「彼は・・・・」
海の神様は困ったような顔をした。
「ここには、いない」
「ここって」
「頼まれたんだ。彼の精神はとても強靭で、とても私の入り込む隙間などなかった。けれども逆に、彼のほうがこちらの存在に気づいてね、まったくたいした男だよ、交換条件を持ち出してきた。この身体をしばらく貸す代わりに、ある場所へ行かせて欲しいと」
――続く――
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