酸っぱい想い出

 ひとりの女の子が泣いている。
 それに気づいた男の子が、その子に近づいていった。

「どうしたんだ」

 女の子は顔をあげない。ひっく、ひっくと嗚咽をこらえるようにして、しゃがみこんでいるばかりだ。
 男の子はもう一度言った。

「だれかにいじめられたのか?だったらオレが仕返ししてきてやるから泣くな」

 そうして彼は、思いつく限りの名前をあげていったが、彼女は下を向いたまま首を振るばかりだった。

「タキでもないのか?他に誰かいたっけ。和矢・・・・・なわけないよな」

 自分で言って、彼はさもおかしそうに笑った。けれども、そのとき女の子は顔をあげた。彼の瞳と彼女の瞳がまっすぐにぶつかる。

「お兄ちゃんなんか大嫌い」

 男の子はぎょっとした顔で女の子を見つめた。

「お兄ちゃんなんか、もう帰ってこなければいいのよ。明美をひとりにして、他の女の子とどっかにいっちゃうおにいちゃんなんて、もういらない!」
「・・・・ふぅん」

 彼ははじめこそ驚いていたものの、やがてあきれたとつぶやいて、彼女の隣に座った。

「あのなあ」

 彼女の瞳は涙で濡れている。さびしそうで、迷子のように不安そうな瞳は、怒っているようにはみえない。

「ふつう、キライな男のために涙なんか流さないぜ。いっちょまえにヤキモチか。おまえも女だな」

 彼女はきょとんと隣を見る。

「明美は女だよ。美女兄、いままで明美を男だと思ってたの?」

 美女丸は苦笑すると、そうだな、とつぶやいて、細めた目で明美をみた。

「その対象が和矢ってところが、まだおまえもガキだなって思うけどさ。いつか他の奴にもそういう気持ちを抱くようになるんだなって思ったら、はじめておまえが女に見えたよ」
「・・・ガキじゃないもん」

 どうやらそこだけ気に障ったらしい。美女丸はニヤッと笑って立ち上がると、明美を見下ろしながらいった。

「大人の女は、そんなふうに股広げて座んないぜ。しかもスカート」

 明美はばっと両膝をつけた。

「どこ見てんのよ!」
「見せたかったんじゃないのか」

 悪びれる様子もなく、美女丸はそう言うと、じゃあな、と軽く手をあげて、仲間のいる方へと戻っていった。
 試合は1回の表の攻撃が終わって、これから美女丸達のチームは守備に入る。
 グラブとボールを片手に、ゆっくりとマウンドへあがる美女丸。
 彼のポジションはピッチャーであり、前の試合ではノーヒット・ノーランこそ逃したものの、相手チームをヒット1本に抑え、余裕の完投勝利を手にしていた。
 観客席から悲鳴のような歓声があがる。彼のクラスメイトが応援に来ているのだ。特に女子の数は半端ではなく、クラスメイトどころか、他クラスの人間も、あるいは他校の生徒まで彼に熱い声援を送っていた。

「あんな男のどこがいいんだか・・・」

 明美は幼馴染の特権(?)でベンチに入れてもらっていた。いままで拗ねていたことなんてケロリと忘れて、大人びたつぶやきをもらしている。
 けれども、試合が動き出すや否や、他の女子生徒の誰よりも、熱烈な美女丸ファンと化していた。

「ちょっと!相手バッター!あぶないじゃないの、あとちょっとでホームランになるところだったわ・・・・ねえ?監督さん」
「・・・・・いつか明美ちゃんも、試合に出てみるかい?」

 すっかり監督とも仲良しの明美であった。

「明美はどっちかっていうと、ポンポン持って足あげるのやりたいな。このあいだテレビで見たの」
「ああ、チアリーダー」
「そうそう!それがいい。服がすごく可愛いし、明美なら似合うってお兄ちゃんが」

 そこまでいって、彼女ははっとしたように口を閉ざした。それをみて監督は、優しく女の子の頭をなでた。

「今日はお兄ちゃんと一緒じゃないのか」
「・・・・はるばるフランスから来た彼女とデートよ」
「ほお。和矢もやるな」
「明美のが可愛いもん!」

 彼女はばっと顔をあげると、美女丸の方をみながらいった。

「お兄ちゃん、ひどいよ。約束したのに。一緒に美女兄の応援に行くって。なのに、今朝になって突然、ごめんって、その一言で出て行っちゃったの。負けたらお兄ちゃんのせいだ」

 ふうむ、とひとつうなずいて、監督もまた、美女丸に目をやった。ひとりめはピッチャーゴロ、ふたりめは大きなライトフライ。そしていまはツーストライクまで来ている。

「三振だな。明美ちゃんがそういう限り、あいつは勝つさ。そういう男だ」

 それが予言でもあったかのように、美女丸の投げた球は、迷いもなくキャッチャーミットへと収まった。

「ストラーーーイク。バッター・アウト!チェンジ!」

 審判の声が澄み渡った青空によく響く。快活な笑顔の美女丸が、ベンチへと戻ってきて明美の隣に座った。

「餅は焼けたか、ヤキモチ娘」
「美女兄、すごい汗」
「ん。おお、サンキュ」

 明美から受け取ったタオルで汗をぬぐうと、美女丸は、両腕を縁にかけ、気持ち良さそうに空を仰いだ。

「たしかにあいつは馬鹿だよな。オレのノーヒット・ノーランを見逃すなんてさ」
「え?!」

 驚く明美に、美女丸はニヤッと笑って見せた。

「この試合で決めてやる。借りは早めに返すのがオレの主義だ。まあみてな」

 監督は右のこぶしでぱこんと美女丸の頭をたたいた。

「ってーなーー。監督、何するんですか」
「気合入ったろ」

 そういって監督は、ニヤリとからかうように美女丸を見た。

「女の子にいいとこみせようなんざ、百年はええよ。ガキが」
「なっ・・・・・そんなんじゃ」
「言い訳けっこう。ほら、次の打席はおまえだ、さっさと行ってこい」
「・・・・わかりました」

 負に落ちない顔の美女丸は、それでも自分のバッドを手にすると、バッターボックスへと向った。
 もちろん、黄色い声援とともに。

「有限実行かあ。つきあわされるのも大変だってこと、あいつ、わかってんですかねぇ」

 キャッチャーの石垣君が、同意を求めるように監督の方を向く。監督は髭をさすりながら、とぼけた声で返事をした。

「なーんも考えてねぇさ」
「ですかねぇ」

 そんな会話を横に聞いていた明美は、ふと、奇妙な感覚を覚えた。
 言葉にすれば、それは違和感。
 あたしは、ここで、何をやっているんだろう?
 もちろん、美女丸の応援だ。それは間違いない。でも・・・・本当に?
 バッターボックスで美女丸は、一球目をファールにしていた。
 本当にあそこにいるのは、美女兄だろうか?
 ・・・馬鹿なことを!
 明美は自分で自分を叱った。
 何を考えているのか、自分でも、わからない。
 なぜこんな意味のない思考をしているのか、わからない。
 ここに彼がいたら、きっと分析してくれるのに。
 ・・・彼って、だれ?
 そんな人、明美は知らなかった。
 少なくとも、そのとき美女丸の応援をしていた明美は、知らなかった。
 でも本当は知っているのだ。
 その人が誰なのかを。
 この世でいちばん逢いたい人を。
 知っているのだ。
 ・・・自分は、知っている。
 ・・泣きたいくらい・・・・知っている・・・・



「―――み、明美、起きろ」

 遠くで声がした。
 とても懐かしい声だった。

「――キ、目を覚まして、アッキ」

 優しい響きだった。

「・・・・・ちゃん。あけみちゃん」

 心配そうな声だった。
 そして、耳元で微かに空気が動く。

「脈拍も正常だ。熟睡してるだけだよ」

 冷ややかで繊細な指の感触。
 ピク、とまぶたが震えたのがわかった。
 ああ、もう自分は目を覚ましている。いままでのは全部夢だ。
 そして、ここにいる人たちは、みんな。
 現実だ。
 だから、勢い良く起き上がった。
 瞬間―――――クラリ。

「あれれ・・・・」

 頭の後ろ側を支えられる。

「馬鹿。突然起き上がる奴があるか」

 一瞬、夢の続きかと思った。けれども彼の声は、夢の中よりずっと低くて、

「―――美女兄」
「おそよう」

 はっきり区切って、美女丸は笑う。

「どこでも良く寝る奴だな。その間に、みんな帰ってきたぞ」

 それで慌てて、目を開いた。焦点が合うと、そこには、この星に来た時と同じメンバーが、揃っていた。

「美恵ちゃん!」
「ただいま、明美ちゃん」

 ひっしと抱き合うふたり。その横には和矢。

「・・・・元気そうで、良かった」

 明美は兄の方を向いて、にっこりと笑った。

「おかえり。お兄ちゃん」
「ん。ただいま」

 兄妹の再会は比較的和やかに思えた。が、しかし、明美は意味ありげな笑みを浮かべて美恵と兄を見比べる。

「で?妹のあたしに何か報告は?若い男女がふたりっきりで数日間・・・・何もなかったなんていわせないわよ」

 ふたりは思わず顔を見合わせたが、和矢はいたずらっぽく笑うと、明美に近づいて耳打ちした。

「結婚した」

 なるほど、と明美は大きく頷く。お兄ちゃん。やるじゃない。そうか、ふたりは、けっこん・・・・・・・・

「ええっ!!? け、ケッコン〜!!?」

 その言葉に、NAOがぎょっとする。

「誰が怪我をしたんですか!?」

 それを聞いてアンドリュー。

「え?怪我!?だったら早くシャルルに」
「なんだ?どうかしたのか?」

 混乱が混乱を呼び、一気に騒がしくなったところに、落ち着いて、と冷静なルイの声が響いた。

「何を言っているの、あなたたち。だれも怪我なんかしてないでしょ?」
「だってNAOさんが」
「だって明美さんが」

 視線がいっせいに明美に注がれた。

「な、なによ、あたしがいつそんなこと」
「さっきたしかに、血痕って」
「え、だからそれはお兄ちゃんが」
「和矢?!」

 誤解が誤解を招き、今度は和矢に視線が集まった。

「おまえ、怪我してるのか?」

 勘弁してくれと、大きなため息をつく和矢。

「いたって健康、元気」
「健康優良児の見本って感じだよね」

 隣で美恵がチャチャを入れた。

「ほんとね」

 笑いながら同意する、ルイ。話題についていけない、その他の人たち。・・・・あれ?
 ルイは首をかしげる。

「なつきさん、遅いわね。忘れ物って、いったいどこまで」
「あ!!!」

 今度は、アンドリューの大声が響く。

「なんだよ、次は」

 降参のポーズの美女丸に、アンドリューはすみません、と謝ったあと、こう続けた。

「僕、なつきさんのいる場所、心当たりあります。きっとシャルルのところだ」
「知らない」

 注目を浴びる前に、冷ややかにシャルルは言い切った。

「そのシャルルじゃなくて」

 アンドリューはあわてて言い直す。

「あのシャルル?」

 笑いながらNAOが答えると、ジロリとにらまれた。・・・恐い。

「じゃなくて、えーっと、さっき偶然見つけた部屋に、シャルルそっくりの肖像が」

 そこまで言った時、シャルルは動き出していた。

「案内しろ」

 それでぞろぞろと、一行の大移動が始まったわけだが、遅れをとってしまった明美は、列のいちばん後ろで不機嫌まるだし状態だ。愚痴を言いたくても、リュ―は一番前で、その後ろにはシャルルがいる。とても本人のいる前では言えない。熱い抱擁もおかえりのキスもできなかったなんて、そんなこと・・・。
 でも、期待して当然じゃない?
 明美は信じていた。
 幼馴染が、やっとの思いで再会を果たしたなら、それまで気づかなかった想いに気づいて、ふたりはめでたくハッピーエンド、これぞラブストーリーの王道じゃないの、と。
 愚痴のひとつやふたつ、いってもバチは当たるまい。
 そして彼女の不満は、そういう展開にしなかった、作者へと向けられるのだった。

 王道を無視するなんて、物書きの風上にもおけない人ね!
 文章が下手なのは仕方ないとして、せめてしっかりラブストーリー書きなさいよね!
 ラブシーンのない話なんて、砂糖を入れ忘れたゼリーみたいなもんよ!
 まずくて食べられないったら・・・・



(反省しきりの作者であった―――――かは定かではない)
 





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