きな手の中で

 出会いというものは、常にそれ自身が意味を持っている。
 そして導かれていることに、我々は気づかない。
 人がこの世に生を受ける。
 それはこの世界との出会い。
 成長するにつれ、その心に意志を宿し、我々は自分で道を選ぶことができるようになる。
 自ら求め、考え、行動することができるようになる。
 けれどもたったひとつ、偶然の領域に留まり続けるものがある。
 どんな意志の力でもってしても、操れないものがある。
 それを不幸と思うだろうか?
 総てを、自分の力で動かしたいと思うだろうか?
 誰の力も借りずに。
 たったひとりで、生きたいと願うだろうか?
 ・・・そう。
 我々の力の及ばないこの領域は、いわば優しい補助なのだ。
 ひとりではどうにもならないとき、ひとりではどうしたらいいのかわからないとき、この世界を包み、守ってきた偉大なる力が、そっと手を貸してくれている。
 どんなときでも希望を捨てないでと。
 耳元で囁きかけながら。




「・・・・・・・・・」

 最初、声が出なかった。
 目の前の光景があまりに信じられなくて。
 どうして、そこに、その人が、いや、その人たちが、いるのだろうか。
 明らかに違う空間、色も形も強度も何もかもが、違うのが分かる。
 けれども彼はその中にいる。
 まったく違和感なくそこに。

「・・・・・リュ―」

 彼もまた、驚いていた。
 突然視界に現れた、愛すべきオジの姿に。

「・・・久しぶりだな」

 わずかに目を細めて、ほほえんだ、その瞬間、優しく空気が揺れた。
 おかしなことに、アンドリューの瞳が潤む。
 そんなことすれば、からかわれるのは百も承知なのに、なによりもう幼いチビのリュ―ではないのに、アンドリューは自分の気持ちを抑えることができなかった。

「シャルル!」

 その名を呼びながら、彼に近づく。触れることはできない立体映像のような彼の姿は、皆に囲まれるようにそこにあった。和矢と、美恵と、そしてルイ。もうひとり、彼が両手で抱えている女性にふっと目をやり、アンドリューは硬直する。

「え・・・・・・・・カオル?」
「ローズ、よ」

 隣で美恵がはっきり発音した。アンドリューは顔をあげて美恵を見た。

「カオルの親戚?」
「ある意味、本人だな」

 冷ややかなシャルルの声がかぶさる。彼は視線をゆっくりと、ローズに落とした。
 アンドリューはますますわけがわからなくなる。美恵の横で、和矢が苦笑していた。

「ピーターの婚約者で、ここを、患ってる」

 和矢は自分の胸を親指でさすと、ほっと息をついた。

「これから手術なんだ。けど、ここから出る方法がわからなくて参ってる」

 それを聞いてアンドリューは驚いた。

「だってそこに行けたんでしょ?だったら逆をたどれば戻ってこれるよ」

 だが、言ってから、しまったと顔をしかめた。そんな当たり前のことがわからないわけがない。そうできないわけがあるから、彼らは困っているのだ。
 おそるおそるシャルルの方をみた。どんな皮肉が飛んでくるのか、覚悟はしておいたほうがいい。
 けれどもシャルルには彼の言葉が聞こえていなかったらしく、口を開く気配はなかった。
 代わりにルイが言った。

「私たちも、どうやってここに来たのかわからないのよ」
「記憶喪失?」
「じゃないけど」

 アンドリューの突飛な言葉に、ルイの表情がわずかにゆるんだ。

「元気そうね。リュ―君。おねえさん、嬉しいわ」

 突然話題が変わって、アンドリューは目をしばたかせる。
 それをみて、クスクス笑うルイ。

「曇りばかりの日に、カラッと晴れた青空をみた気分。ところでリュ―君、他の皆も元気?」

 コクンとアンドリューは頷いた。

「ついさっきまでなつきさんも一緒だったんですが」

 彼女は突然、忘れ物をしたと戻っていってしまった。

「他の皆も、この先で仲良くお昼寝してます。みんな疲れてるみたいで」

 本当のことを、アンドリューは言わなかった。信じてもらえないと思ったわけではない。彼らに余計な心配をかけたくはなかったのだ。

「それは良かったわ」

 ルイは同意を求めるように和矢たちのほうを向いた。ふたりとも、安心したというように頷いて、和矢は少し遠慮がちに、リュ―を見た。

「あいつ、明美も・・・・大丈夫か」

 返事をするのに、一瞬、間ができてしまった。

「ええ」

 そうか、と和矢はほっとしたような顔をしたが、アンドリューの間に、気づかなかったとも思えない。あえて質問を避けたのだろうか。アンドリューは、自分の迂闊さに反省した。
 和矢の問いは微妙なニュアンスを含んでいた。無事か、と訊かれたのなら、即座に頷くことができただろう。けれども彼はそうは訊かなかった。だからアンドリューは考えてしまったのだ。
 正直に言うなら、彼女は少しも「大丈夫」ではないとアンドリューは思っていた。
 明らかに無理をしているし、それを隠そうとする努力がみえた。
 でもそれをいえば、彼女の心を踏みにじることになる。
 せっかく頑張っている彼女の努力を、優しさを、無かったことにしてしまう。
 それに、アンドリューは思うのだ。大丈夫かと尋ねられるということは、その相手に、そうはみえていないからだと。これは質問であると同時に、確認であり、応援の言葉だ。

「みんな、元気です。和矢さんたちも元気そうで良かった。早くこっちに戻ってこれるといいんだけど・・・」

 胸に僅かな痛みが走った。シャルルが戻れば、彼女は喜ぶだろう。久しぶりに心の底からの彼女の笑顔が見られるに違いない。無理しての、安心させようとしてのものではなく、心からの笑顔。それをアンドリューはしばらく見ていない。

「もう〜なんでこうしてみえているのに届かないの!?」

 痺れを切らしたように、美恵が手を伸ばす。アンドリューはそれを捕まえようとするが、空を切ってしまうだけだ。
 気づけば皆が必至に、手を伸ばしていた。そのどれも、アンドリューは捕まえることができなかった。ただ、シャルルだけがいまだ何かを考えているようで、身動き一つしなかった。

「シャルルも手を出してよ!」

 少しむっとしたように、アンドリューは叫んだ。

「こっちに戻りたくないの!?」

 その声が聞こえてはいたようで、シャルルはわずかに目を眇めると、冷ややかに言った。

「意味のないことは、しない主義でね」
「なんで!」

 アンドリューはかぶせるように問い掛ける。シャルルは面倒そうに口を開いた。

「明らかに空間が違う。座標が一致しない限り、接触は不可能だ」
「そんなことない!」

 苛立ちが、アンドリューを襲う。冷ややかな美貌、怜悧な瞳、そして明晰な頭脳。彼の言うことは正しいのだろう。アンドリューは数学も物理も天文学も苦手だけれど、彼の言わんとしていることはわかった。けれども、だからあきらめろと、彼はそういうのだろうか? 理論的に不可能だから、どんなに努力をしても無駄だと、そう言いたいのだろうか?

「できる! 絶対できるよ。戻ってこれる。僕が引っ張ってあげるから!」

 いやだ。そんな考えを認めるのは、絶対いやだ。
 アンドリューは強くシャルルの瞳を見据える。

「僕を信じてよ、シャルル。シャルルの言うことは、いつも正しいかもしれないけれど、でも正しいことですべてが決まるなんて、そんなふうに思うのは間違ってる。むかし、話してくれたよね。アーサー王の剣の話を。あのときシャルル、言ったじゃない。人は肉体とそれを司る精神を持っているって。そのふたつを使えば、たいていのことはなんとかなるものだって。片方だけを誇示しても、剣は決して抜けない。両方がそろってはじめて、人は夢を叶えることができるんだって。いま僕は、シャルル達に戻ってきて欲しいって、心から願ってる。全身全霊でだよ!だからシャルルも願ってよ!そしたら絶対、僕はシャルルを連れ戻せるから」

 シャルルは驚いたようにアンドリューの言葉を聞いていた。
 昔と少しも代わらない無垢な魂と、その瞳の色。
 自分と似た青灰の瞳。なのに、それが見つめるものは、まったく違う。
 彼の目には、輝かしい世界が映っているのだろう。
 愛と優しさに支えられた、どんな哀しみも寂しさも、希望と喜びに変えることができる、そういう世界が。

「絶対、か・・・」

 つぶやくようにそう言った。その言葉は、彼の信じないもののひとつだったが、アンドリューの口から漏れると、そういやなものでもなかった。

「自信家だな」

 皮肉気に、笑う。

「いいだろう」

 本気で信じていたかと聞かれれば、彼ははぐらかすように言うに違いない。さあね、と。
 シャルルは静かに微笑んで、ローズを和矢に手渡すと、あいた右手をゆっくりとアンドリューに差し出した。

「こっちに戻りたいって、強く願ってね。心の底からだよ!」
「注文が多いな」
「そんなことばっかりいって。失敗したらシャルルのせいなんだから」
「想いが足りないって?」

 揶揄するように言って、シャルルは斜めにアンドリューを見据える。唇には誘惑にも似たほほえみを浮かべて、瞳に込めるのは、彼への、思い。

「この手に君を抱きたいよ。ちびのリュ―」

 アンドリューは心の中をシャルルでいっぱいにした。もう10年以上も、彼と一緒にいるのだ。誰にも負けない。シャルルを連れ戻す。それができるのは、いまここにいる僕だけだ――――!!



(会わせてあげて・・・)

 ピリ、と紙が破けるような音がした。

(この気持ちは・・・・本物だから・・・・)

 パリン。ガラスの割れる音がする。

(・・・・痛い)

 ドクッ――――――。
 魂の鼓動が空間を崩すように揺らした。


 凄まじいエネルギーの集合体が押し寄せてくる。
 その壁を壊そうと、全身全霊をこめて。
 それはアンドリューの思いなのか、それともシャルルの、和矢の、美恵の、ルイの、あるいはもっと他の人のものなのか。
 熱く、大きな力だった。
 彼の理性に反発するかのように、熱を浴びせ掛けるように、挑戦的に、挑発的に。
 強く願えば、望みはすべて叶うとでもいいたいのか?
 アンドリューの台詞が、彼に昔の自分を思い出させる。
 夢は自分次第で叶えることができると信じていた過去。
 いまはもう知っている。
 そのために捨てなければいけないものの重さを。
 結局は選択の結果なのだ。
 たしかに叶えることはできよう。
 けれども、その代償は、彼の望む夢、そのものであった。
 だから選ばなかった。
 選べなかった。
 空間に満ちるこの熱さは、まるでそのときの彼を責めるかのように、ねっとりと心に纏いつく。


「――邪魔だな」

 形のいい唇から、不愉快そうな声が漏れた。  




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