のひらではすくえない

 ――どうせ馬鹿なのよ!

 寸前まで強く自分を責めていた。けれども柱が倒れきるより先に、足元が崩れた。
 ちょうど水が流れるように、何のためらいもなく一瞬で。
 塔そのものが振動に耐え切れなくなった結果ではなかった。
 そこに在り続けることに、無理が生じてきていた。
 みんな飲み込まれていった。
 一点へすべるように落ちていく。
 あり地獄のように。
 けれども砂の感触より、空を切る感覚はリアルで、つめたかった。

 城が悲鳴をあげていた。
 塔の崩壊は、その余韻でしかなかった。
 いやいやするように、身を捩るようにしてないている。
 つられて周りの森達も動揺し始めた。
 集まる波動は、そのエネルギを増していき、一点に凝縮して膨らんでいった。
 もうすぐ臨界地点に到達する。
 それは境界だった。





 その頃、ピーターは古い大木の前にいた。
 数年前、ちょうどその場所で、ローズに出会った。
 ティナを抱えたまま、身動きすることもできずに、ただじっと何かを待っていたあのとき、彼はひとりではなかった。
 誰も気づかなかったけれど、気づいてもらえなかったけれど、そのときまで彼の総ては、この樹のものだった。
 彼は愛されているのを知っていた。
 何よりも深く自分が想われているのを、感じていた。
 そして彼もこの樹が大好きだった。
 ・・・忘れていた。
 大切なことは何もかも。
 記憶にふたをして、思い出すことを拒んでいた。
 両親の記憶は少しもない。
 気づいたら、ここにいた。
 ずっと、この場所で生きてきた。
 ローズに出会うずっと前から。
 ずうっと前から。
 ただ、誰も彼に気がつかなかっただけで。

(そろそろお別れをしないといけないの・・・・・)

 かなしいくらい澄んだ声だったと思う。
 樹は生きていた。
 けれども、その頃はもう、ずいぶん生きたあとだったから、うつくしかった頃を通り過ぎて、かなしいやさしさだけがあふれていた。
 彼の心にそっと囁く、その波動はいまにも消えてしまいそうなほど儚かった。

(できることならずっと、こうしていたかったのだけれども・・・・・)

 波のように揺れていた。
 最後の方はほとんど聞き取れない。
 彼のいない場所へと流されていく。

(わたしのなかに閉じ込めてしまいたかったのだけれども・・・・・)

 だったらそうすればいいのに。
 そう、思った。
 貴女のことが好きですと、彼はその樹に伝えたのだ。
 ざわめきが止んだ。
 けれどもそれはほんの一瞬のことだった。

(・・・・・・・・・・・・・・・ ありがとう)

 頬に柔らかな葉の感触があった。
 それが心に届いた、最後の波動だった。


 ――なんで忘れていたのだろう?


 ここ数日で、とてもたくさんのことを思い出した。
 エミリィのこと、そしてこの樹のこと。
 反対に、最近の出来事が波にさらわれるように、遠くの方へと流れていく。
 心が時間とは逆向きに動き出したみたいに、現実は未来へと流れ、過去が今に近づいているようだった。
 どんなささいなことまで、正確にゆっくりと、彼のなかを通っていく。
 まるでいままで忘れていた罪を、償えとでもいっているかのように。

「私と結婚しよう」

 無邪気なローズの声がする。お互い、どんな感情も抱いてなかった頃、冗談でかわしたふたりだけの約束。
 あのとき、たしかに言ったのだ。
 ひとりの手には負えなくなったら、その荷物を共に背負うと。
 その思いに嘘はなかった。
 いまでももちろん、できる限りのことを彼女にしてあげたいと思っている。
 これからもずっと彼女の味方だと思っている。
 彼女が自分を夫に求めるのなら、そうなることは別に問題ではなかった。
 彼女のことが好きだから。でもそれは・・・・この樹への想いと寸分変わらないものだった。
 大切なものはたくさんある。大切な人も、気持ちも、どこにも嘘はないけれど、奪いたいものはこの世にたった一つしかないことに気がついたとき、真実(ほんとう)でもなかったのだと気がついた。
 そして、そんな自分の気持ちを知った以上、中途半端に受け入れることはできなかった。
 残酷なことが、いっけん優しく見えたりする。
 彼女にも、そういうところがあった。

「あなたは自由だわ」

 はっきりと目を見てそういわれた。彼女もまた、自由だった。

「なのに自分で自分の心を縛るのはどうして?わたしが傷つくだろうからなんて、もしそう思っているのなら馬鹿にしないでよ。気づいてないの。自分で思うより自分が正直者だってことに」

 彼は驚いて彼女をみた。彼女は笑っていた―――――少なくとも彼の目には、そう映った。

「わたしはひとりでも平気なの。でもあの子は・・・・平気なふりをしているだけ。本当はあなたがいちばんよく知っているのではないの?」

 彼は打ち消すように強く首を振った。

「ぼくが求めているのは彼女じゃない。君だ。君とずっと一緒にいたいんだ。なぜ信じてくれないんだ」

 そういうと、彼女はふっと笑みを浮かべた。
 それは、あわれみとも慈しみともいえるような静かな微笑だった。

「信じてないわけないじゃない。あなたが私に抱く想いを、感じないほど鈍感じゃないわ」
「だったらどうしてそんな――――」

 彼女は何かを考えるように黙っていたが、やがて降参、というような顔を彼に向けた。

「ねえ、ピーター。あなたって・・・ううん、ひとってどうしてこんなに優しいのかしら。みていてときどきもどかしくなるくらいに」

 そのとき彼は、瞬きをした。何度も何度も。いまみているものが信じられないというように。
 いま、目の前にある綺麗な彼女の瞳から、透明な雫がこぼれているのが、夢のように思えて。

「なん・・・・どうしたんだよエミリィ」

 彼女は笑っているようだった。それなのに、彼女の涙はとてもかなしい色をしていた。

「いっそのこと冷血漢だったらいいのにね。自分の都合だけ考えて、行動して、それで満足できるような酷い男だったら楽なのに・・・・・・・自分がしてあげられなかったことまでずっと憶えているような・・・責めるようなやさしさなんてなければいいのに・・・・・そうすればあなたは苦しまなくてもいいのに・・・・・そんなあなたを知らなくてもすんだのに」

 彼は驚いて彼女の言葉を聞いていた。まるでさよならをいっているようにしか聞こえなくて、どうして彼女が突然そんなことを言い出すのかがわからなくて、ぼうぜんと彼女を見つめ返すよりなかった。

「――エミリィ」

 彼女は首を振った。

「その名前は忘れて」
「何言ってんだよ!」

 彼女の手首は、彼の手にあまるくらい細い。

「さっきおまえの前ではっきり言ったじゃないか。ローズとの婚約は解消するって。彼女も納得してくれたし、ぼくの妻になることに何の問題がある?」

 ヒクッと、彼女の肩が震えた。けれども彼女は気丈だった。

「わたしはあなたがいなくても生きていけるの」

 小さいけれど意志のある声だった。

「でもあの子はそうじゃない。それだけのことよ」

 否定する間もなかった。そのとき、突然地面がガクンと揺れたかと思うと、何か大きな手のようなものが、彼女をするりと巻き込んだ。

「エミリィ!!」

 バランスを何とか保ちながら、必至に駆け寄るピーターに、彼女は手を伸ばす。

「ピーター!」
「くそっ、なんだよいったい」

 反対側から、彼を押さえつけるような手がのびてきて、動きを封じた。

「離せよ!なんなんだよ、邪魔だ!」

 そうする間にも、彼女の姿が隠れていく。
 まるで突然闇が意志をもっておそってきたかのように、目に見えない怪物が、そこにいるかのように。

「ごめんなさいピーター・・・・・最後に」
「何!?よく聞こえない!何て言ってるんだ、おまえ」

 わずかな間があった。

「・・・・アリータ、よ」

 その言葉に反応するかのように、一瞬、すべてが静止した。
 ピーターを抑えつける力も、ビクリとおびえるように動きを止める。
 彼女はもう一度繰り返した。

「アリータ・エトィン。―――最後にあなたに」

 ほとんど余韻に近かった。
 けれどもぎりぎり、彼は彼女の声を受け取ることができた。
 ・・・・その願いをかなえることはできなかったけれども。





 過去の記憶はより鮮明さを増していく。
 すべてを明らかにせんと、彼の忘却を責めるかのように激しく。
 彼は唇を噛んだ。
 痛みは感じなかった。

 どうして忘れていたのだろう。
 どうしてそんな卑劣な行為を自分に許せたのだろう。
 もしそれが自分を守る為だったと言うのなら、いっそのこと壊れてしまえばよかった。
 この想いごと、粉々に砕かれるべきだったのだ。
 たしかに彼女は連れ去られた。
 けれどもあのとき、彼女は抵抗しただろうか?
 そこに彼女自身の意志は存在しなかったと、勝手に決めているのは誰だ?

 胸が苦しかった。
 それは決して比喩ではなく、からだの構成物質が全部、じくじくと軋んでいた。
 何を信じたらいいのかがわからない。
 何をすればいいのかがわからない。
 ここに存在していることさえ、ただ苦痛でしかなく、それなのに消えてしまえば二度と彼女に会えないと思うと、それだけはできないと思う自分が滑稽だった。
 結局何も変わらない。
 何を思い出しても、忘れていても、なにひとつ、変わっていない。
 あきらめることもできず、捨て去ることもできず、馬鹿の一つ覚えのように求め続けるしかないのだ。
 探し続けるしかないのだ。
 いまはそのためだけに生きている。
 彼女をみつけて、彼女の口から別れの言葉を告げられても、あきらめられる自信はないけれど、少なくとも決着はつくだろう。
 彼女の願いを裏切ることなど、できるはずがないのだから。




『自分の想いに夢中になって、何も見えなくなるのだけが強い想いじゃないと思う。
 相手のことを考えられる、その優しさに愛情を感じてはいけないの?』




 彼は自虐的に微笑んだ。
 だからいまはまだ、生きていよう。
 笑ってさよならを言うために。
 彼女の意志をすべて受け入れ、満たし、かなえるために。


 ――最後にあなたに・・・呼んで欲しかったの。





「・・・アリータ」




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