の領域

 ローズの心臓が動きを停止してから、だいぶ時間が経っていた。
 けれどもだれもその場を離れようとはせず、立ったまま、彼女を見守るように囲んでいる。
 ひと、ばかりではなかった。
 波の粒子も、光の襞も、匂いも、海特有のゆるやかな振動さえもが、彼女を取り囲むように輪を描いていた。

「ローズが大切なんだね・・・」

 美恵の口から漏れた言葉に、和矢は小さくほほえんだ。

「この世界が、彼女を必要としているんだな、きっと」

 うん、と美恵は頷いて、けれども少し不満そうな顔をした。

「だったらどうして、こんなふうになっちゃうのかな。そんなに大切なものなら、もっとちゃんと守ってあげればいいのに。神様はちょっと意地悪だわ」

 その言葉に、和矢は意外そうな顔をした。

「神様、信じてるんだ」
「和矢はキリスト教でしょ?信じてないの?」
「特にはね」

 さらりと返されて、あれ・・・と首を傾げる。
 和矢は付け足すように言った。

「家が、とかそういうんじゃなくてさ、個人的にだよ。特に嫌いじゃないけど熱心な信者ってわけでもないってこと」

 なるほど思いつつ、気になって聞いてみる。

「困った時の神頼みはしない主義?」
「そうだな」

 即答された。
 おまけに、逆質問を受ける。

「君は?」

 さらにおまけに、答えるより先に笑われた。

「ああ、するタイプだろうな。うん。すごくそんな気がする」
「・・・・いいじゃない。それがフツーよ」
「――だな。たぶんオレはさ」

 そこまでいって和矢は、視線を幼馴染へと向けた。

「恵まれていたんだと思うよ。むかしから」

 相手は気づかない。さっきからそうして黙って突っ立ったままだ。
 人はこの状態を発作と呼ぶそうだが、生でみるのは初めてだった。
 素朴な疑問が沸いてくる。本当に息してるんだろうか?
 眉ひとつ動かすことなく、透徹した眼差しはただ宙を強く見据えていて。
 きれいだった。
 文句なく。
 美恵は彼に見惚れることが度々ある。
 本当にこの人は、どうしてこんなに美しいんだろうと、思わずにはいられない。
 けれどもきれいすぎるとき、彼は他者の存在を確実に隔離していた。
 美恵の目には、どうしてもそう映った。
 意識をしているのか、していないのか、それはわからなかったけれど、群を抜くというのは、たぶんそういうことなのだろう。

「どういうふうに・・・恵まれていたの?」

 絶対的な美がそばにあっても、美恵の視線はその隣に向けられた。
 彼の言葉を、もっとたくさん聞きたかった。
 和矢はちょっとだけ笑って答えた。

「いつも神様がそばにいたんだ」

 そういった彼の瞳は、少し細められて、やさしくシャルルに向けられていた。
 美恵は一瞬その意味を理解できなくて、けれども理解してからも、ふに落ちない顔でいった。

「言いたいことはわかるけどさ、そういう言い方って好きじゃない・・・・そりゃ、シャルルはなんでもできるかもしれないけど、人間じゃないっていってるみたいで」

 和矢はビックリしたように美恵をみた。

「なんでそんな話?」
「え?そういう意味じゃないの?」

 慌てる美恵を、和矢はあきれてみつめる。
 その向かいでは、ルイが静かにほほえんでいる。

「・・・ルイさんはわかったの?」

 小さな声で美恵が聞くと、ルイはちょっとだけ首を傾げた。

「さあ」
「あ。教えてくれないんだ」
「でも、本人の言葉がいちばん正しいわ」

 うまくごまかされたような気がしないでもなかったが、美恵は和矢の説明を待った。
 彼もまた、うまく言葉になおせないで困ったような顔をしていた。

「改めてだれかに伝えようと思うと難しいけど、さ。信頼っていうか、絶対のものっていうか、要は神様っていうのは、実際に目でみたり触ったりできるわけじゃないから。なんだろうな、絶対大丈夫とか、努力すれば報われるとか、これからいいことあるとか、それを自分に信じさせるための根拠みたいなものだろ。オレはさ、むかしからあいつと一緒にいて、どんなときでも、何があっても、こいつと一緒なら大丈夫だって思ってたんだ。ひとりならできないことでも、こいつと一緒なら絶対なんとかなるって。その絶対が、神様」

 美恵はなんともいえない気持ちで彼の言葉を聞いていた。
 言っていることはわかる。とてもよくわかる。けれどもここにきて、再びふたりの絆をみせつけられるのは、嬉しいけれど少し寂しい。
 そんな彼女の気持ちを、知ってか知らずか、ルイがからかうようにいった。

「それにしても和矢ってばずいぶんメルヘンチックじゃないの。いつも神様がそばにいた、なぁんて」
「バッ・・・・違うよ」

 カッと顔を赤くして、ルイをみる。

「おーおー。赤くなっちゃって。可愛いわねー」

 一瞬、むっとして何かを反論しかけた和矢だったが、やがてふっと皮肉げに笑うと、そのまま視線をルイへと向けたままでいった。

「同じ台詞を、そのまま本人に言ってやれよ。このセリフを最初に口にしたのは、オレじゃなくてシャルルの方だからさ」
「・・・え・・・・・」

 それを聞いて、ルイの顔からすーっと表情が消えた。信じられないといったように和矢をみて、それからゆっくりと、シャルルに視線を移す。
 ・・・おかしな気持ちを感じた。
 ルイは思わず自分の頬をてのひらで挟んだ。
 発作中の彼が、とても無防備に見えた。

「ルイさん?」

 美恵がどうかしたのと聞いてくる。
 どうもこうもない。
 いままで感じたことがないほど、彼が・・・いとおしかった。
 それ以外の言葉がなかった。
 ふわふわの毛布にすっぽりくるんで、そのままうしろからぎゅうっと抱きしめてあげたかった。
 生きている感じがしないほどだというのに。体温を感じないいまの彼に、あふれるように心が溶けていく。

「どうしたんだ、熱でもあるみたいに顔が赤いぜ」

 不思議そうな顔で和矢が訊いた。
 ルイはごまかすようにコホンとセキをひとつついて、さりげなく視線を彼から離した。

「別に。どうもしないわ。ちょっと暑いだけ」

 からだよりもこころのほうが。

「それより、いつまでこうしているつもり? 医学的なことはわからないけれど、少しでも早い方がいいんじゃないの」

 動揺を振り払うようにことさら冷静な声を出すと、つられて和矢の表情も真剣になった。

「そうだな。けど生き返らせるったって・・・方法も手段もわかりゃしない。考えても答えがでることばかりじゃないし・・・」

 それが誰に向けられているのかは、明らかだった。

「でもあきらめるわけにはいかないじゃない!」

 美恵が叫ぶように言う。

「大丈夫。きっとシャルルなら」

 そのときだった。
 シャルルの身体を覆っていた張り詰めた空気の膜のようなものが、ふっとやわらいだのは。

「やっぱりこれしかない、か・・・」

 形のいい唇からつぶやきが漏れる。皆がいっせいに彼の方をみた。

「シャルル」

 彼の視線がゆっくりと動く。
 それまで一点にのみ向けられていたせいか、その眼差しは、まだ少し硬さを感じさせた。

「方法が、わかったのか」

 和矢がそう聞くと、皆の期待のこもった眼差しの前で、自嘲的に笑って目を伏せた。

「可能性がゼロじゃないというだけだ」
「それでもないよりずっといいよ!」

 すかさず美恵が言ったが、それには答えず、視線をゆっくりとローズへ向ける。

「いちばんいいのは、彼女に決めてもらうことなんだけどね」

 クスリと笑んで、跪きながらローズの頬に指を伸ばし、そっと触れた。
 まだあたたかかった。
 それが生命のぬくもりなのだと、いまは信じるしかない。
 彼は黙祷するように目を閉じた。

(・・・連れ戻されたいか)

 訊くまでもなかった。
 それでも、認めるわけにはいかないのだ。
 死は結果であって、選択するものではない。
 医者として、そんな結末は認められない。

 ――医者として?

 どこかで聞いた台詞だと思った。そして瞬時に思い出す。
 自嘲の波は楽々と彼を掠い、底まで彼を連れて行き、過去の光景を彼にみせる。
 まるでつきつけるように。

 そういえばあのときも・・・この顔だったな。

 皮肉としかいいようがなかった。
 あるいは、運命なんてチャチな言葉が必要だろうか?

 彼は、確認するようにゆっくりと目をあけると、立ち上がりながら言った。

「基地に戻る」

 たった一言。

「何のために?」

 慎重に、和矢が尋ねる。シャルルは揶揄するような口調で答えた。

「神の領域を侵しに、さ」



 青灰の瞳は、食い入るように深く自分の罪を見つめていて、暗い影を宿していたけれど、それに気づくものはいなかった。







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