解より生まれるもの

 美恵は図書館に本を返しに来ていた。
 木蓮棟の西に位置するその建物は、古びた木の様相を呈している。
 かといって、昔からあるわけでは、ない。
 中はまさに近代的な設備で、材質も決して木ではなかった。
 そうみえるだけである。

「返却お願いします」

 そういって本を渡すと、図書委員は手馴れた様子でバーコードを照合した。
 ピッと電子的な音がする。

「はい。ご苦労様」

 図書館は7階建てであった。
 一階には世界中の新着雑誌と、書庫入り一歩手前の古い書物が置かれている。
 2、3階は文系用図書であり、様々な資料が取り揃えてあった。
 いや、様々といっては少し失礼かもしれない。
 この世の中で手に入るだろうもの、凡そがそこには取り揃えてあるのだから。
 そして4階より上は、理系用図書である。
 美恵はその階以降に行ったことがなかった。
 けれども難しそうな本ばかりが並べてあるだろうことは、容易に想像がついた。
 この図書館、なにげに広い。
 どれくらいかといえば、東京ドーム5個分、といえばその広さがお分かり頂けよう。
 そしてそれが図書館となっている時点で、この学園の無謀なまでの広さは、疑いようもなかった。
 総合カウンターは正面玄関のすぐ近くにある。
 たいていはここに置いてあるパソコンを用いて検索をかけ、置いてある場所を明確に把握した上で目的の場所に行くことになる。そうでなければ、あまりに時間がかかるのだ。迷子にならないという保証はない。そして親切なことに、各フロアには、ジャンルごとに動く歩道まで取り付けてあった。
 はじめて来ると仰天もするが、使い慣れると、かなり快適であるのがこの図書館の特徴だ。
 なにより使用者のことを第一に考えて作られているということが、使えば使うほどに感じられる構造だった。

「次はなに借りようかな〜」

 美恵は世界の推理小説、というコーナーにいた。
 彼女は本が大好きであるが、周期的に推理小説が読みたい時期が訪れ、いまがちょうどその時期だったのだ。
 それで、推理小説を読みまくっていた。
 ここはどんな本でも手に入るので、彼女にとっては天国のような場所だった。
 だがその次の瞬間、もっと違った意味で、この図書館は天国へと化した。
 つまり、偶然みつけたのである、生徒会長を。

「和矢」

 思わず大声を出して、あわてて口を抑えた。
 さすがに図書室での大声は、マナー違反だ。
 彼はその声に美恵に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。

「和矢も借りに来たの?」

 彼はわずかに笑った。

「明美に頼まれてさ」

 みれば何冊か、日本の小説を手にしている。
 けれどもその他に、明らかに雰囲気の違う1冊を持っていた。

「これは?」

 和矢はその本を美恵にみせた。
 う・・・読めない。

「フランス語?」
「ん。やっぱり原文の方が読みやすいから」
「何の本?」
「パンセだよ」

 聞いたことのある名前だった。
 美恵は少し考えてみる。えっと、なんだっけ、それ。
 そんな彼女をみてクスッと笑うと、和矢は助け舟を出した。

「パスカル」
「ああ!」

 美恵はぱっと顔をあげた。

「パスカルの原理のパスカルね」
「うん。けど、彼は物理学者であると同時に数学者で思想家なんだ、これは思想的な話」
「そういえば聞いたことある。昔の人ってわりとなんでもやってたんだね」

 そう感想をもらすと、和矢はふっと笑った。それは少しかなしげな感じのするほほえみだった。

「どうかした?」

 美恵が聞くと、一瞬驚いたような顔で見返し、彼女のまっすぐな視線に出会って、ほほえむ。

「なんでもないよ。ただちょっと・・・・思い出しただけさ」

 何を、と聞くのはたやすかった。
 けれどもそうしてはいけないような気がして、美恵は黙っていた。
 そんな彼女の前で、彼は自然に笑うと、ただね、と続けていった。

「世の中にはさ、たしかに特別な人間がいて、分野を問わずに文系とか理系とか関係なく、わかっちまうんだ、いろんなこと。だから発見する、もちろんそうやって科学は進歩してきたんだから、それを否定する気はないんだけど、そんなふうになんでも見えて分析することにどれだけの意味があるんだろうな」

 それで美恵は、それが何の話なのか、わかった。
 同時に腹も立った。
 なんでいつもそうやって自分じゃない人を、心配するのだろう。
 それをいうなら、彼女にしてみれば、和矢の方がよっぽど心配だ。
 他人の心配ばかりする彼。人のことしか言わない。自分のことは絶対にいわない。
 そんなふうになんでもかんでも自分の中に溜め込んでしまうことに、どれほどの意味があるというのか。
 それを否定はしないけれど、基本は自分だ、まずは自分に優しくして、それから他のことに目を向けても遅くはない。
 人に優しくできること、それはとても素晴らしいことだと思うけれど、自分の本当の願いを閉じ込めてまで、自分を追い詰めるようにして行うくらいなら、しなくたっていい。
 そんなふうにしなくても、十分優しい人なのだから、それ以上を求めても、苦しむだけだ。
 美恵はわずかに和矢をにらんだ。彼女にしては珍しいことだった。

「いいのよ、それはそれで」

 自然と言葉が強くなる。彼にわかって欲しい、それ以前に、気づいて欲しい。
 あなたを見ている人がいることを。
 あなたを心配している人がいることを。
 いつもいつも他の人の心配ばかりして、胸を痛めて、傷ついて、でもほほえみを絶やさない彼。
 冗談ではない。自己完結しているのは、あなたの親友ばかりじゃないじゃないのよ!

「たしかにね、そういう人はいるんだと思うわ。そしてそうだってことは、すごく大変なことかもしれない。でもそれはそれでいいのよ。個性と同じ。人がすべて同じように生きることはありえないんだから、そこにある大変さは実はあまり変わらないのよ。そんな自分を認めて生きて、そのあとで人々が彼の名を伝えていくのなら、その業績の恩恵に預かるのなら、それがその人の生きた証で、それはもう他の誰にもできないことだもの。少しくらいのペナルティがあったって、全然不公平じゃないわ」

 和矢はいつになく強い口調でいう美恵を、驚いたようにみつめていた。

「なに、怒ってるの・・・」
「怒ってないわよ!」
「そうはみえないけどなぁ・・・」

 苦笑してそういう和矢が、美恵には焦れったくて仕方がなかった。
 あなたが悪いのよ。いつも変わらないから。
 その笑顔のポーカーフェイスは、いつ崩れるの!?
 私の前では崩してくれないの!?
 こんなに、あなたのこと、心配しているのに、その気持ちさえ、全然伝わらない。
 腹立たしくもあり、それ以上にかなしかった。
 彼が笑う度、その笑顔に何度も救われたけれど、
 あんまりいつも彼が変わらず優しいから、そんな姿に泣きたくなった。

「ああ、そうだ、礼をいわなきゃな」

 話を変えようとしたのか、無意識なのか、和矢は突然そんなことをいって、ほほえんだ。
 彼女はその意味がわからず、首を傾げる。

「なんのこと?」
「オレを選んでくれたこと」

 無造作に放たれた言葉に、美恵はぼっと赤くなった。
 そういえばあれはもう、ほとんど告白に近かった。
 今その話を持ち出されたってのは、何か意味があるんだろうか。
 そう思って無言でみつめる美恵の前で、和矢は優しげな眼差しを向けている。
 このままでは心臓がとても持たない。そう思って美恵はたまらずいった。

「あ、あれはね」
「わかってるよ」

 クスッと笑って、和矢はまぶしそうに目を細めた。

「美恵ちゃんは本当に優しいな」

 え?
 なんのことかわからず戸惑う美恵の前で、和矢は表情ひとつ変えずに、世間話をするような気楽さで言葉を続けた。

「オレがあいつのこと心配してるって、わかってたから、オレの名を出してくれたんだろ。おかげで一緒に行ける事になって、すげえ嬉しいよ。心から感謝してる。サンキューな、美恵ちゃん」

 ・・・・・・・・・・・。
 美恵はとっさに二の句が告げなかった。
 まさかあのときの指名を、彼がそんなふうに受け取っていただなんて、思いもよらなかったのだ。
 フツーは思わないだろう。
 好意があるから、もっといえば好きだから、だから一緒に来て欲しいって思ったんじゃない!
 なんであたしがそこまで気を使わなきゃいけないのよ、馬鹿和矢!!
 そう心で叫んで、けれどもいまさら何をどういえというのか、彼女に残された道は頷く以外にはなかった。
 美恵はなんとも複雑な気分で、ぎこちないほほえみを浮かべた。

「・・・喜んでくれて嬉しいよ。たしかに和矢がシャルルを心配してるのは、わかったしね・・・」

 でも本当は違うんだってば。ねえ、わかってよ、和矢。こっちを見て!
 祈るようにみつめる美恵の視線を、和矢は感謝の気持ちを込めて受け取ると、はにかむようなほほえみを浮かべていった。

「あいつ、自分のこと何も言わないから、周りにいる奴がみてて、気にかけてやるしかないんだ。今回の突然の修学旅行は、明らかに異質で、その裏にどんな意図があるのか読めなくてさ、一緒にいってやりたかった。だから君がオレの名前を出してくれて、本当に感謝してるんだ。これで一緒に行ってやれる。傍にいなけりゃ、気づいてやることもできないし、ましてや助けてやることもできないもんな」

 彼について話す和矢は、いつもよりずっと柔らかい、自然な表情をしていて、少年のように純粋で無邪気な瞳をしていた。それはたぶん、彼に出会った当時から、その気持ちが少しも変化していないからだろう。心が遡るのだ、彼と過ごした長い年月を越えて。
 いつになく饒舌に話す和矢が、美恵にはまぶしかった。
 嫉妬よりも嬉しさが勝った。
 こんなふうに信頼しあえる友に出会えることは、そうあることではない。
 そしてたぶん、彼と同じ程度の気持ちで、相手もまた彼を大切に思っている。
 名実ともに、彼女の唯一にして最大のライバルである人。
 ふたりの絆はだれにも断ち切れるものではないと、思った。
 たとえ神様でも、それが運命だとしても、絶対に、斬ることはできない。
 なぜならふたりの強い心が、それに勝る力を持っているからだ。

「一緒に、行こうね」

 気づくとそういって笑っていた。和矢も嬉しそうに頷いて笑い返した。

「ああ。よろしくな、パートナーさん」

 右腕を差し出す。そしてふたりはがっしりと握手を交わす。

「あたしはもう、生徒会長って呼ばないわ。和矢って呼んでいいでしょう?」
「もちろん。じゃあオレはなんて呼べばいいかな」
「美恵、でいいわ」

 そういったとき、なんだかとても懐かしい気持ちがした。

「オーケー、よろしくな、美恵」
「うんっ。しっかり守ってあげるからね」

 元気良くそういうと、和矢はビックリした顔をしたけれど、やがてふっと笑うと、その大きな手をポンポンと美恵の頭にのせた。

「頼もしい相棒だ。けど、女を守るのは男の役目だぜ」

 クスッと笑って、手を離す。けれどもそこだけ熱をもっていて、美恵はぼぉっとしていた。
 一瞬見せた彼の不敵なまでのほほえみが、鮮やかに胸にやきついて、はなれない。

「あれ、どうかした?」
「う、ううん、なんでもない」
「そう? じゃあ、オレ、そろそろ行くよ。これ借りてこないといけないし」
「わかった。あたしは、もうちょい探していくよ」

 心の温度を冷まさないことには、なにもできそうになかった。

「じゃあ、またね」

 そういって歩き出した彼の精悍な背中をみつめながら、美恵はほぉぉっとため息をついた。


「だ、だめだ・・・・反則よ・・・・あんな表情するなんて・・・・」

 果たして修学旅行中、心臓がもつだろうか。
 命の危険より、そちらの方が心配な美恵だった。


「風に当たってこよう―――」



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