なんだ、ここにいたのか・・・
そう言って彼は彼女にほほ笑みかけた。
彼女はいつものように、窓辺に近い場所に置かれた、小さな木の椅子に座りながら、何かを読んでいる。彼はゆっくりと近づいて、背後からそっと抱きしめた。
彼女は笑いながら振り返った。
「くすぐったいわ、ピーター」
彼女の笑顔はどんな喜びにもかなわないほど彼の心をしあわせにする。
彼女がそこにいて、楽しそうにしているだけで、彼はもうなにもいらなかった。
「何を読んでるんだい」
彼女は読みかけの本を膝におきながら答えた。
「むかしばなし」
「どんな?」
「この世界のはじまりのお話よ」
彼は少し不思議そうな顔をして尋ねる。
「はじまりって、じゃあその前には何もなかったのかい」
「さあ。―――ただのお話かもしれないし、でも」
そういって彼女は、その本に書かれていることをゆっくりと説明してくれた。
「まだこの世界に何もないとき、つまりあなたのいう、その前には、詩だけがあったの。それはこの世界を満たしていたんだけれど、そのうちに詩が想いを作り出したわ。嬉しいとか、哀しいとか、淋しいとか、あるいは美しいとか、そういう感情が生まれて、それは色へと変わったの。そして世界は鮮やかに染められていった。様々な色が集まって、最初は純粋でしかなかったその色たちは、やがて新しい色を作り出していく。自然に混ざり合い、曖昧という色が幾つも幾つも生み出されていったのよ。その副産物として誕生したのが、私たちのような生命。けれどもまだそのときは、こんなふうに固体ではなくって、木々や風や海に宿る精霊のような存在だったみたい。彼らは純粋と曖昧のあいだに生まれた、とても綺麗で儚い存在と書かれているわ。そのとき世界はもっとも華やかに美しく、自由であった」
彼は黙って彼女の言葉を聴いていたけれど、彼女がそっと言葉を区切って意見を問うように視線を向けてきたので、困ったようにほほ笑んだ。
「考えたこともないな・・・・。気づいたときには、もうこの世界はいまのようだったし、たぶんこれからもこのままだろうから、ピンとこないよ」
「じゃあいま考えてみてよ」
彼女はそういっていたずらっぽく笑った。
「興味あるわ。あなたがどんなふうに答えるのか」
「そう言われてもなぁ・・・」
主導権は、たいてい彼女のほうにあった。彼は弱ったというようにため息をつくと、そっと彼女の膝から本を取り上げる。
表紙には『REGENT』と記されていた。レジェント。伝説。むかしばなし…。
「もう、しょうがない人ね。それならこんな話はどう?」
彼女は本を取り返しながら、覗き込むように彼に顔を近づけた。
触れるだけのキスの後、ふわりとほほえむ。
「月の女神は海の王子と恋に落ちました。けれども月は落ちることはなく、海は地上を離れることはできません。夜になって、日が落ちて、月が昇っているあいだだけ、ふたりの逢瀬は叶うのです。ただ見つめあうだけ。お互いの瞳にお互いを映して、触れることさえ叶わずに・・・」
彼はもう一度彼女に口づける。何度も何度も。彼女はくすぐったそうに笑っていたけれど、やがてふたりのからだは熱を帯び、彼女は彼の腕の中だった。
「オレには耐えられないよ・・・・そんなことは・・・すべて自分のものにしたいと、海の王子は思わなかったの」
彼女はかなしそうに首を振った。
「わからないわ。でもたぶん・・・だれにも祝福されないとわかっている想いを通すほど・・・・彼は自分を見失えなかったんじゃないかしら」
「臆病だな」
「かもしれない。でも・・・」
――でも?
あのとき彼女は何と答えたのだろう。
ピーターは思い出そうと記憶に思いを馳せる。
そのときにはもう、いま自分が夢をみていたのだと気づいていた。
まだ彼女がいなくなる前の、もっとも幸福だったときの記憶。
その中はとても居心地がよかった。
彼女の香りを、彼女の吐息を、まるですぐそばに彼女がいるように感じられるから。
けれども、そこに閉じこもっていてはいけないと警告する自分がいた。
夢の中にいれば、たしかにずっと彼女といられるかもしれない。
なにもふたりを脅かすものはなく、いつまでも、いつまでも、自分が望む限り、一緒にいられるかもしれない。
しかしそれは死にも似た幸福だと、彼は知っていた。
彼女に出会うまで、彼がずっといた場所とよく似た、偽りのしあわせ。
海が凪いでいるのだ。穏やか過ぎる安らぎは、ともすると幸福の仮面を被っていたりする。
何も知らないで、その中で生きるのも悪くはない。けれども、一度知ってしまったら、それまでのすべてを覆されるような出逢いを、飢えるような想いを知ってしまったら、もう戻れない。
彼は捜し求めなければいけない。彼女のためではなく、自分自身のために。
そのときふと、彼女の言葉が風のように通り過ぎた。
『でも、想いをはかれる天秤なんてないわ。王子がどれくらい女神を愛していたかなんて、だれにもわからないもの。自分の心を失えないほど、なりふりかまわず彼女を奪って逃げられないほど、彼女を大切に想っていたのかもしれない。彼女のしあわせを、願っていたのかもしれない。自分の想いに夢中になって、何も見えなくなるのだけが強い想いじゃないと思う。相手のことを考えられる、その優しさに愛情を感じてはいけないの?』
――そうだ。探しているのは自分のためなのだ。
彼はゆっくりと目をあけた。そこには暗い闇が広がっているだけで、彼女の姿は幻にさえ現れることはない。
――もしかしたら彼女は、自分を待ってはいないかもしれないけれど・・・
そっとしておくのが優しさなのかもしれない。彼女の言うように、我を忘れて探すのは、あるいは愚かな行為なのかもしれない。ただ彼女に会いたいという、それだけの想いに突き動かされている自分は、自分勝手でわがままな、幼い子供と変わらない。
遠くの方に月が見えた。赤い月だった。
彼女が泣いているような気がした。強い人だった。少なくとも自分よりは、物事を深い部分で知っていて、愛している人だった。笑っている顔ばかりを思い出す。拗ねた顔も、怒った顔も愛らしかったけれど、たった一度だけみた彼女の涙は、かなしいほどに綺麗だった。
月の女神がこぼしたという涙。
自分を見失うことなく、いまでも王子を愛し続けている、気高くも優しい女神の恋。
彼女が話してくれた物語には、続きがあった。
『月の女神様はとても強いお方だったから、いつも気丈に振る舞って、泣き言ひとついわなかったの。でもたった一度だけ、愛しい人に触れられない、その哀しみが涙となって零れてしまった。ひとしずくだけ、ぽつんと』
『海の王子は彼女の涙を受け取った。わかるでしょう? このときが、ふたりが触れ合った、最初で最後の瞬間だったのよ。女神自身じゃなかったけれど、もともと彼らは純粋と曖昧が混ざり合った存在だった。その中で純粋な部分だけがしずくとなってこぼれ落ちたんだもの・・・その前にあったのは詩から生まれた想いだけ・・・奇蹟はそのとき起こった』
『いまのような固体としての生命が誕生したのは、そのときと言われているわ。それ以上の奇蹟はないだろうって。月の女神と海の王子のあいだにうまれたというわけではないけれど、愛の結晶という意味では同じなんだと思う』
『――最後はね、こんなふうに締めくくられているわ。曖昧と純粋の間に生まれた精霊たち。お互いの中にある純粋が触れ合ったとき、生まれ落ちたのは混沌だったって・・・・』
この世でたったひとりと決めた相手を
あきらめなければならないと知ったとき
いったいなにを思うのだろう?
星のない夜、たったひとりで彼は月を見ていた。
命のように揺らめく、紅い月を。
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