色の余韻

 それはたとえばこんな風景に似ていた。
 果てしない海がある。
 無限の空がある。
 有限の命がある。
 奇蹟のような月がある。

 そこから涙のように光がこぼれて、海は手のひらとなりやさしく抱いた。
 そして命が生まれ、そこに命が眠っていた。



「あなたは・・・」

 ルイは信じられないといった様子で、そこにいる彼女をみつめた。
 彼女は薄い桃色の衣服を纏っていて、水の中だというのに、濡れてもいない。
 それをいうなら、声を出せるのがそもそもおかしい。
 皆を追って、海に入ったはずなのだから。

「どうしてここにいるの。そんなところで何をしているの?」

 ルイの声はよく響いた。深海に飲み込まれていくかのような余韻を残しながら。
 彼女はルイを覚えていないようだった。
 ぼんやりとした目をルイに向けてはいるが、みてはいないようだ。

  いそがないと・・・・

 彼女の声は振動となってその空間をふるわせた。

  手遅れになってしまう・・・・

 その響きの絶望的なかなしみに、ルイは彼女が泣いていることを知った。
 桜吹雪の中で、たしかに彼女をみた。
 あのときはもう少し顔色が良かった気がする。
 いまの彼女はほとんど死人に近い。
 そのまま海に溶けてしまいそうにみえた。

「え?ごめん、よくわかんない。どうしていそぐの。手遅れになってしまうって、なにが」

 けれども相変わらず、彼女はルイに気づかないようにふらふらと水中を漂っている。
 さ迷っているのは彼女の意識かもしれなかった。

  失われてしまう・・・・

 一定の間隔で届いていた彼女の声は、しだいに小さく、遠くなっていく。

  取り上げないで。私達の大切な――――

 そこで、声が途絶えた。彼女の姿はもうどこにもみえなかった。

 ルイは静かに目を閉じた。
 意識を集中させるために。
 彼女がまだそこにいるような気がしてならない。
 あの不思議の出会いのせいだろうか。
 そのままにはできないような気がして、跡が残った。心の中に強く鮮やかに。
 彼女の儚さはたぶん幻だ。
 こうして強く願う心がある。求める意識は、彼女がとても意志の強い人だから。
 宿命に屈せず、運命に立ち向かおうとするたくましさを、彼女の内に感じずにはいられない。

(・・・やばいな・・・・)

 そんなふうに思って、うっかり彼のことを思い出しそうになったルイは、あわてて首を振った。
 けれどもそれくらいで消え去るほど、簡単な気持ちではない。
 ふだん意識していない分、こんなふうに突然思い出したときは、もう彼女自身にも制御不能だった。
 まだ周囲に誰かいれば、自制心を取り戻せたかもしれない。
 それくらいの自尊心は持っている。
 でもここは海の中。彼女を取り囲むものは、ただ透明な青にも似た薄い色で、音もなく、光は舞うように優しく訪れるだけで、彼女の想いを妨げるものは何一つなかった。
 そしてさっきのゆるい波動。
 ルイの脳裏に余韻として残っている。
 こうなってしまうともう、どうしようもなかった。
 通り過ぎるのを待つしかない。
 それは桜吹雪のように彼女の心を揺らして、鮮やかに染め上げた。
 深紅よりもはっきりと色が浮かんでくる。
 桃色の桜。
 純粋さを隠している分だけ、狂気が匂い立つ様な色だった。

 ・・・・・・・・

 いつからだろう。
 たったひとりの人を、こんなにも心に焼き付けてしまったのは。
 こんなふうに何もかも捨ててしまえるほど、激しい想いを抱いてしまったのは。
 伝える気などないけれど、知って欲しいという矛盾が生じる。
 この気持ちをまったくそのままの重さで伝えることができたなら、少しはあの人をあたためることができるだろうか。
 あの人の心に、触れることができるだろうか。

 彼が夢を否定するのなら、彼女は夢を抱きたかった。


 あ―――――みつけた。


 淡い藍色の向こうに、その人がいた。他の人たちも一緒に。
 自然にルイの表情がほころんだ。
 ひとりじゃない彼を見るのは、とても嬉しかった。


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