マリウスは森の中にいた。
それは実際に存在する森ではなくて、どこか目に見えない場所にある真っ暗な森だった。
彼の意識は、そこを彷徨っている。
「ここはどこかしら…」
彼はまだ小さな赤ん坊でしかなかった。
濁りの無い目で、曇りなく世界を見つめることができる。
「どこにいけばいいんだろう…」
実際、それを本当に「考えて」いるわけではなかった。
ただ心の赴くまま、行動しようとしているだけ。
マリウスの心はいつも自由だった。
惜しみない愛情を与えてくれる母親に育てられ、彼はしあわせを胸一杯に吸い込んで生きてきたから。
けれども無意識のうちに彼の心は知っていた。
そうやって自分を見守ってくれている人が、もうひとりいるということを。
まだ生まれたばかりの頃、自分に祝福を与えてくれた人がいたということを。
その人がそそいでくれた愛情は、彼の心に優しく光を与えて、いまでもそっと彼を包みこんでくれていた。
月の光のように静かに密やかに。
それを感じるとき、マリウスはとても安らかに眠りにつくことができる。
額をなでてくれる少しひんやりとした手。
神経質そうに細い指先は、何度も何度も彼に触れて、彼に優しさをそそいでくれた。
マリウスは知っている。
その人の心の静けさを。
もう少し彼が成長すれば、それらは記憶の奥に封じ込められ、忘れられてしまうだろう。
無垢のまま生きることはできない。どこかで何かを忘れて、それで釣り合いが取れるのだから。
でもまだ彼は小さかった。だから彼は、その記憶を留めておくことができた。
意識しない心の領域に。その人が与えてくれた、たくさんの想いと一緒に。
彼の秘密を共有するものとして。彼の心に、触れることができた。
――ポトリ
突如、何かが降ってきた。
みるとそれは小さなどんぐりのようなものだった。
マリウスは屈んでそれを拾った。
すると、それが合図でもあったかのように、次から次へといろんなものが降ってきた。
それはキャンディだったり、犬のぬいぐるみだったり、薄い紙で丁寧に作られた造花だったり、あるいは音、だったり…。
「あ」
マリウスはそれを拾った。その音は、ガラス球のような綺麗なケースに入っていて、耳を澄ますと聞くことができた。
聞いたことのある曲だった。眠れないときに、いつもあの人が弾いてくれる曲。
マリウスは彼の奏でる音が好きだった。
きれいになっていくのがわかるから。
自分のなかにあるどんなものでも。
「気に入ってくれた?」
一心に耳を傾けていたマリウスに、そう話し掛けてきたのは、足元にあった新芽だった。
マリウスはぱっちりと目をあけて、まじまじとそれをのぞきこんだ。
「はじめまして」
芽は、そういってちょこんとお辞儀をした。あわててマリウスもそれにならう。
すると芽はキャッキャとはしゃいだ。
「嬉しいな。やっと気づいてもらえた」
え、とマリウスは首をかしげる。
「だってわたし、ずっといたのに、あなたったらちぃーっとも気づかないんだもの」
「ごめんなさい。ぼく」
途方にくれたような顔をして、マリウスが謝ると、いいのぉ、とでもいうようにするりと芽が伸びた。
「ここはあなたの場所だから。わたしの方が侵入者」
「ここって?」
「この世で一番きれいな場所よ」
「ぼくの場所なの?」
芽が頷く。
「あなたのものよ」
マリウスは困った顔をする。
「そういわれても…」
森は暗く、広かった。
「きれいじゃないよ。少しも」
彼の好きな色がない。
輝くような白金の光も、深い慈しみを感じさせる青灰の瞬きも。
「でも音があるでしょう」
そんな彼の心を読んだかのように、うっとりと芽が言った。
「たったひとつでもほんとうがあれば、それだけで大丈夫なのよ。じゃないと、わたしはここにはいられないもの」
「あなたは・・・だれ?」
芽は少しだけうなだれた。暗がりに佇む小さな芽は、それだけでとてもかなしそうで、マリウスの胸がチクンと痛む。
「だれなのかしらね…」
つぶやくように、芽は言った。
「ここが居場所じゃないのは、わかる。あなたの場所だということも、きれいなところだということも。でもね・・・・どうしてここにいるのかがわからないの。でもひとつ間違いないのは、ここはわたしがいるところじゃないっていうことなの」
「・・・そうなんだ。じゃあまいごなんだね。ぼくと同じだ」
「あなたと同じ?」
芽は不思議そうに繰り返して、やがてふふ、と小さく笑った。
「ここはあなたのためだけの場所なのよ。だれも入れない、あなただけの聖域なの」
マリウスは小さく首を傾げた。
「あなたがいるよ。だれも入れないなんて嘘だよ」
「そうね。だからここはきれいな場所だわ」
「いつまでいるの?」
「・・・どうかしら」
芽が力なく頭を垂れるのをみて、マリウスはあわてて言った。
「いつまででもいていいよ。よくわからないけれど、ここがぼくの場所なら・・・」
「ありがとう」
雨が降ってきた。雫が線を描くように落ちてきて、マリウスと芽を濡らす。
なのに全然つめたくなくて、濡れるそばから乾いてきて、やがて大量の水滴を落とした空は、静々とヴェールを脱ぐようにひかり出した。
まぶしくて目をつむる。
もう一度開いたとき、そこにいたのは見知った人たちだった。
輪になるようにして、何かを話している。
マリウスは声を出そうとしたけれど、からだに力が入らず声を出すことはおろか、動くことさえできなかった。
指先ひとつ思い通りにならない。
しだいにまぶたも重くなってきて、必至で抵抗してみたものの、まったく効果はなく、無駄だった。
目をあけていることさえかなわない。
次第に意識が遠のき、気づくとさっきの森にいた。
もう暗くは無かったけれど、彼に話し掛けてきた芽はなくなっていた。
そのかわり、遠くの方に青く広がる湖がみえる。
マリウスは駆け出した。
だれかに呼ばれた気がして、そこに会いたい人がいるような気がして、一生懸命走った。
けれども、近づいたはずの湖は、彼と一緒においかけっこでもしているかのように、気づけばずっと遠くにある。
マリウスはあきらめず、何度も何度も方向を変えてその場所を目指したけれど、いつまでたってもそこにたどり着くことはできなかった。
やがて夜が森の浸蝕を開始する。
彼は途方にくれて、その場にしゃがみこんだ。
もうくたくたに疲れて一歩も歩けなかった。
夜は闇を伴って訪れ、マリウスのまわりにもゆっくりと満ちてくる。
ここがどこなのかも、どうすればいいのかもわからない。
たださびしくて、膝を抱え込んだ。
そのとき。
ふわりと彼の心を抱えあげるものがあった。
音。
いまはガラスケースに入れられていない、むきだしのその音は、マリウスをなぐさめるかのようにぐるぐると彼のまわりをめぐって、涙に濡れた頬を優しくなでる。
その心地よさにようやく安心したのか、やがてマリウスの口元からすうすうと規則正しい寝息が漏れはじめた。音は少しだけ小さくなって、それでも彼がいい夢をみられますようにと、いつまでもいつまでもマリウスをやさしく包んでいた。
わずかに背丈の伸びた芽が、その様子をすぐそばでじっとみつめていた。
|