れ落ちるもの

 和矢は美恵に気づくと、ローズを腕に抱いたままちょっとだけ笑った。
 動揺すればまだ、美恵は救われたかもしれない。

「ピーターだってさ。オレは相変わらず」
「和矢っ!」

 たまらず悲鳴にも似た声をあげる。
 美恵はわなわなと震えるように和矢をみた。

「いい加減にしてよ。いつまでそうやってごまかし続けるの!?このまま本当のことをいわないで彼女をだまし続けて、それで和矢は満足なわけっ!?」

 これは、本心とは少し違った。
 けれどもまだ、彼女の中に残っているプライドが、遠回りな言い方を選ばせた。

「いいんじゃないの」

 だがこれに対する彼の答えは、彼女の想像以上に確固としたものだった。
 彼の瞳にもう迷いは見られない。
 美恵は愕然とする。

「和、矢…」
「満足かって聞かれると困るけど、少なくともいまは、彼女に本当のことを言うつもりはないよ」

 そういってローズに向けられた眼差しは、とても優しいものだった。
 まるで大切な人を扱うように、そして高貴な人を扱うように。
 そうするとふたりは、もう恋人同士にしかみえなくて、王子が眠れる姫を抱えている、そういう表現がぴったりだった。

「彼女はもう十分苦しんだんだ。それは君だって知ってるだろう?そして彼女はもうすぐこの世と別れなければならない」

 美恵の表情が止まる。
 和矢はあいまいにほほえむと、彼女の驚きを肯定するように頷いた。

「シャルルの診断だ。響谷によく似ているのは、顔だけじゃないってことさ・・・」
「―――そんな」

 そういった彼女の声には、まったくといっていいほど力がこめられていなかった。
 和矢はまだローズをみていた。
 見守っていた、といったほうがいいかもしれない。
 美恵がそれまでにみたこともないほど、彼は切なげな、そして優しげな眼差しをしていた。
 美恵の胸が漣に揺れる。
 ――どうしてそんな眼をするの?
 ――どうしてそんな、愛しいとさえ表現できるような、そんなふうな表情をローズに見せるの?
 一抹の不安が彼女の頭を過ぎった。
 もしかして・・・。
 彼はローズを好きになったのだろうか?
 響谷薫に良く似た、その想いの強さまで良く似たひとを?
 たしかにローズは、同性の彼女から見ても、魅力的な女性だった。
 その太陽のような強さも、内に秘めた月のような狂気も。
 知れば知るほど、彼女に惹かれてもおかしくはない。
 けれども彼女が愛しているのはピーターであって、和矢ではなかった。
 そしてそれを一番良く知っているのは、他ならない和矢自身であったはずだ。
 そうと知った上で一緒にいて、それでも彼女を愛してしまったというのだろうか?
 だとすればそんな愛に・・・・どうやって自分が太刀打ちできるんだろう。
 絶対に報われないと知っていながら、それでも心が求めてしまったその人に。
 無理だ。―――最初から勝負にさえ、ならない。
 視界がぼやけてきた。
 けれども皮肉なことに、その中でも、和矢の優しい眼差しが滲むことはなかった。
 まっすぐローズに向けられているその瞳。
 もうみていたくない。
 ほとんど反射的に身を翻した美恵は、何かにぶつかって腕をつかまれた。

「大丈夫か」
「・・・シャルル」

 気づけば目の前に、心配そうに自分をみつめる青灰の瞳があった。
 彼は目を眇めるようにして訊く。

「どうした」

 たったそれだけだった。けれどもそのときの彼女には、それで十分だった。
 いつもクールでそっけない彼の、その言葉に触れて、思わず、本当に思わず彼女はシャルルに抱きついて泣いてしまった。
 シャルルはさすがに驚いた様子だったが、目の前にローズを抱きかかえる和矢をみて、事情を察したのか、小さくため息をつくと、ぽんぽんと彼女の背中をたたいた。
 それで美恵はますます心が緩んで、わんわんと泣き出してしまった。

「来てくれたのか」

 和矢がシャルルに気づいて近づいてくる。

「・・・彼女は?」

 シャルルの視線が鋭くローズへと向けられた。
 和矢は小さく息を吐いた。

「医者じゃないからわかんないよ。でもまだ生きてるとは思う」
「誰かさんに似てしぶといだろうからな」

 皮肉げなシャルルの声。

「それで、君の結論はでたのか」

 和矢は不審そうな目を向ける。

「何の話だ」
「忘れたって言い訳は通じないぜ」

 シャルルは浅く笑うと、青灰の瞳で刺すように和矢をみた。

「最終通告はすでに終わってる。十分に時間を与えたはずだ。君はいつからそんな優柔不断な男になった」

 その言い方に、さすがの和矢もむっとしたようだ。

「どういう意味だよ」
「これは失礼。煮え切らないの間違いだった」

 一気に険悪化するふたりの間に、冷たい炎がちらちら燃える。
 和矢は不愉快そうだったし、シャルルは冷ややかだった。

「なんなんだよ、いったい。言いたいことがあるなら、もっとはっきり」

 そこまでいったとき、和矢はふと、自分がいつになく感情的になっていることに気がついた。
 シャルルの言い方が素直じゃないのはいつものことであり、それにはとっくに慣れていたはずだ。
 それなのに、いまは彼の言動ひとつひとつが癇に障って仕方がない。
 どうしてだろう。
 和矢は冷静になろうとした。
 そして自分の心をみつめようとした。
 どうしていま、自分はシャルルと言い争っているんだ?
 それほどたいした理由もないのに。
 小さく息を吐き、気持ちを落ち着ける。それから改めて目に映る光景に意識を向けた。
 うねるような海の中、そういえばここはどこだろう?
 ふつうに呼吸ができ、会話ができ、からだが濡れてもいない。
 その空間に、自分を含めて4人いる。
 ローズは自分の腕の中でぐったりしているし、美恵ちゃんはシャルルにしがみつくようにして泣いている。
 すべてがひとつひとつ、像を結んでいった。
 そしてやっと彼は、自分を苛立たせていた理由に、気づいた。
 シャルルの言葉の意味も。

「・・・・・ああ。わかった」

 つぶやくようにいった。そこには降参という意味もこめられていた。

「結論は出たよ」

 声が真剣味を帯びる。彼はゆっくりとシャルルに近づきながらいった。

「ローズを頼む」
「それだけか」

 チラリと視線を流した。はっきりいえよと、その目が告げている。
 一瞬、間があった。

「彼女を返してくれ。オレのパートナーだ」
「嫌だと言ったら?」

 あきらかに揶揄とわかるシャルルの口調に、和矢はわずかに微笑んだ。

「そのときは、力づくで取り戻すまでさ」
「へぇ」

 軽くつぶやいて、シャルルは美恵に視線を落とす。

「ということだが、オレとしては君の意見を尊重したいね。どっちを選ぶ、美恵ちゃん」

 美恵はぼんやりと顔をあげる。
 いったい二人は何の話をしているのだろう?
 返すとか、取り戻すとか、いったい何を?

「おやおや。姫は混乱のご様子だ」

 クスッと笑ってシャルルは、彼女を自分からそっと引き離すと、クルッと回して和矢の方へと向けさせた。
 対峙する、美恵と和矢。

「・・・・・・・・・・」

 言葉もなく、みつめあう。
 美恵の意識は、どうしても彼の腕の中にいるローズへと向けられた。
 彼の腕に抱かれているローズ。
 その構図に、彼女は耐えられない。

「目をそらすなよ」

 少し焦れたような声がした。
 和矢は、たしかに苛立っているようだった。
 いつものような余裕は感じられない。
 シャルルがゆっくりと近づいて、彼の手からローズを引き取る。
 美恵はぼんやりと、ああよかったと、そのことに安堵した。

「さっきから、どうしたんだよ。少しおかしいよ。美恵ちゃん」

 しかしそのとき和矢の言った台詞が、どこか虚ろだった彼女の心を突いた。
 それはほとんど核心と違わない。彼女にとっての、譲れないその想いに。
 おかしい?・・あたしが?
 何かが、美恵の中でプツンと切れた。

「・・・それはあなたの方じゃない。和矢」

 低く響く声だった。

「おかしいって?あたしが?いつ!?――冗談じゃないよ、信じられないよ、和矢。そんなに人の気持ちに鈍感なんて思わなかった。何がおかしいの?どうおかしいの!?好きな男に・・・心底惚れてる相手にさ、他の女を目の前でそんな大切に扱われて、自分がいないもののように扱われて、おまけにキスまでしてるところを目撃して、それでも平気でいられるって言うんなら、そっちのほうがよっぽどおかしいじゃない!!」

 そのとき和矢がみせた表情は、痛み、というものに近かった。
 わずかに目を細めて、苦しそうに。
 美恵はそんな彼の表情を見逃すほど鈍感ではない。
 けれども一度口から出た言葉をいまさら撤回する気もおきなくて、それまでひとりで抱えてきたことを全部、息が詰まりそうな想いを全部、彼に対して吐き出した。

「そうね。・・・おかしいかもしれない。あたしは和矢が思ってるような優しい女でもなければ、心だってちっとも広くなんかなくって・・・・あなたの心に入り込んだひとに、ものすごく嫉妬して、・・・・シャルルにまでそんな感情を抱いて、・・・馬鹿みたいって思ってるわよ」

 もういい、というように和矢は小さく首を振り、美恵に近づく。
 それ以上言わせることは、ますます彼女を傷つけてしまいそうで、追い詰めてしまいそうで、それをやめさせたくて和矢は、彼女を自分の胸に押し当てるようにしながら言った。

「わかったから、美恵ちゃん。落ち着いて」

 すぐそばで和矢の声がする。
 低くてしっとりとした彼の声。
 けれども彼女はそれにさえ気づかないのか、彼の腕の中で、ぽつりぽつりとつぶやくように、言葉を続けた。

「だって・・・仕方ないじゃない・・・どんなにいい子でいようって思っても・・・広い心を持とうって思っても・・・感情がついていかないんだから・・・・・でも信じてよ・・・・平気なふりしてる自分がいちばん惨めだってこと・・・・だれより自分がいちばん感じてる」

 和矢は彼女の顔をあげさせると、濡れた頬に指で触れた。
 いつもきらきらと笑顔をみせる彼女の涙に、胸が痛い。

「信じるよ…」

 つぶやくようにそういってから、和矢はもう一度言い直すようにはっきりといった。

「信じてる。だから泣くなよ。おまえのこと、信じてるから。いまも、これからも。どんなときでも。絶対。何があっても。ここで誓ってもいい」

 まっすぐに彼女の瞳を見て、その中に自分の誓いを刻み込むかのように、和矢は言った。
 せっかくとまった涙が、再び彼女の頬を濡らす。

「ありが・・・とう」

 うまく発音できなくて、彼を見上げると、和矢は少しぶっきらぼうに答えた。

「だから泣くなっていってるだろ」

 そんな彼が、とても彼らしくて、美恵の表情が泣き笑いみたいに崩れる。
 そのときだった。シャルルの切羽詰った声が響いたのは。

「嘘だろ・・・」

 ふたりは同時にシャルルのほうを振り返った。
 彼はローズの胸元に耳をあてている。

「どうしたんだ、シャルル」

 和矢の問いかけに、やがてシャルルは静かに振り返ると、小さく首を振った。

「心臓が止まってる」

 白金の髪が一筋、陶磁器のような頬にこぼれ落ちて、その凍りついた美貌を静かに覆っていた。







≫BACK