「おとうさま。あそこにだれかいるわ」
少女はそういって世界の守護であるその大木へと駆け寄っていった。
「こら、そんなに走ってはあぶないよ」
少女は止まらない。すぐにその下へとたどりつくと、驚いたような声を出した。
「おとうさま。男の子がいるの。みたこともない子よ」
ようやく、父が娘のもとへとたどりつく。
そこには、夜のような深い闇色の髪の少年が、茜色の何かを抱くようにして座っていた。
「あなたはだれ?」
少女の問いにも黙ったまま、怯えた様子もなく、ただじっと窺うように見つめ返してくる。
その瞳の色もまた、漆黒。
少女は無邪気に話し掛ける。
「一緒に遊びましょう」
「ぼうや」
その横で父親が、屈みこむようにして膝をついた。
「どこから来たんだい?」
視線をあわせるようにして、そう尋ねてみる。
それでも少年は、目をぱちぱちさせただけで、何も答えなかった。
父娘は顔をみあわせる。
そのとき、悲鳴のような泣き声が響き渡った。
ぎょっとしてみれば、茜色の布が揺れている。
「ぼうや、ちょっとみせて」
のぞきこむと、そこにはまだ生まれて間もないと思われる赤ちゃんが、全身で泣いていた。
「妹?」
それでも、少年は答えない。ただ困ったような目をふたりに向けるだけだ。
そしてすぐに視線を赤ちゃんへと向ける。どうしたのというように。どうして欲しいのと聞くように。
赤ちゃんは泣き続ける。少年はたまらず、ぎゅっと布越しに抱きしめた。
大切な宝物のようにそっと優しく、愛しげに目をつむって。
「もしかしたら、言葉がわからないのかもしれないな」
立ち上がりながら、父親はそういって娘をみた。
「そんなはずないわ。だってあたしと同じくらいの子よ」
「ローズ」
彼は苦笑して娘を見る。
「なんでも自分中心に考えてはいけないよ。おまえと同じ年でも、おまえと同じことができない子だっているし、逆におまえにできないことができる子だっているんだ。人はみんな違うということを、おまえは知らなければならない。そうでなくては人の上には立てないからね」
そこまで言って、きょとんと不思議そうな顔をしている娘に気づいた。
今度は、自分に苦笑する。
まだこの子はこんなに小さいのに、何を焦っているのだろう。
それでも、国を背負うという責任は並大抵のものではなかった。
それを彼女に教えるのは、現統治者として、なにより父としての務めだ。
彼はぽんぽんとやさしく娘の頭をなでた。
「世の中にはな、おまえの知らないことがたくさんあるんだよ。だからこの子が言葉を話せなくてもちっとも不思議じゃないんだ。何か話し掛けてごらん?」
彼女はコクンとうなずくと、もう一度少年に向かっていった。
「あなたの名前は?」
赤ちゃんは泣き止まず、少年はますます困った顔になる。
彼女は自分をひとさしゆびでさして、ローズ、と繰り返した。
すると彼はやっと少しだけ表情をゆるめて、ピーター、と言った。
ぱっとローズの顔が明るくなる。
「おとうさま。ピーターよ。彼の名前はピーターだわ」
父親はほほえんでうなずいた。
「すごいわ。ちゃんと通じたんだ。あたし決めた!」
突然、ローズはそう叫んで父親の方を振り返った。
「ねえ、おとうさま。この子うちに連れて行きましょうよ。あたしが先生になるわ。この子に言葉を、ううん、いろんなことを教えてあげるの。きっとあたしたち、いい友達になれると思わない?」
さすがに、この言葉に父親は驚いた。
けれども、ローズの瞳がいままでになく強い光を秘めていて、そこに彼女の決意がにじんでいて、彼は、自分を説得しようとする娘の強い意志を感じずにはいられなかった。
悪くないかもしれない。
そう思いなおす。
これまで彼女は、様々なことを学んできた。父親からはもちろんのこと、特別の家庭教師が何人かいて、それぞれが専門的なことを彼女に教えていた。
いわば彼女はずっと教えられる側だったのだ。
もちろん、この年では当たり前のことだが、しかし彼女はふつうの子ではない。
将来、この国を背負わなければならない立場にあるのだ。
そういう意味で、人に何かを教えるという行為は、いろいろな意味で彼女を成長させるだろうと彼は思った。
そしてもうひとつ・・・。
《いい友達になれると思うわ》
いま、彼女の周りに、同い年の友人はいない。
そのことについて、彼女が不平不満をいったことはなかった。
さびしいという言葉さえひとことも。
彼は心を決めた。
「そうだな・・・おまえの言う通りにしよう」
瞬間、彼女は顔を輝かせて父親に抱きついた。
いままでみせたこともないような無邪気な笑顔で。
「ありがとう、おとうさま」
そのとき彼は、いままで一度もそんなふうにして喜ぶ娘をみたことがないことに、はじめて気づかされた。
考えずにはいられない。
いままでいったい、どれほどのことを見過ごしてきたのかと。
良き父親であったとは言い難い。
たぶんこれからも。
彼女だけの父親でいることはできないのだ。
この国の父として、国民を守っていかなければならないのだから。
それが父親ではなく、統治者としての彼の選んだ生き方だった。
娘はそんな父親の後ろ姿をみて育った。
そしてその意志をそのまま継ぐことになる。
それはもうすこし先の話だけれど。
「あたしと行こう、ピーター」
そういってローズは手を差し伸べた。
最初、少年は赤ちゃんを抱いたまま、その場を動こうとはしなかったが、彼女が彼の手首をぎゅっとつかむと、驚いたようにローズをみた。
いつのまにか泣き声も止まっている。
彼女はにんまり笑んで、力強く頷いた。
少年はゆっくり立ち上がった。
はじめてみせる、はにかむような笑顔に、ローズも顔をほころばせた。
このときが、はじまりだった。
ふたりはほとんど兄妹のように一緒に育てられ、帝王教育さえ一緒に受けた。
どちらも同じくらい聡明だったが、勝ち気で生まれながらの王女のようにふるまうローズに対し、ピーターは常におだやかで、やさしくて、静かだった。
おとなしいというのではない。行動そのものは無茶もするが、その内にある思いが静かなのだ。
しなやかな柳のように、彼はローズを諌めもしたし、逆に励ましもした。
彼女の孤独を彼だけは知っていたし、彼女も彼の前ではひとりの少女でいることができた。
気づけばふたりは、お互いに知らないことはないくらい、同じ時間を過ごしていた。
一緒にいるのが自然だったあの頃。
理由など必要なかった。
それが当たり前のことだったから。
《花冠というのだそうだ。うまくできただろ》
誇らしげに言って、白い花で編んだ輪をピーターにみせるローズ。
《おまえにやる》
ピーターは目を丸くする。
《こういうのは女の子がするものだよ》
《なんだ、いらんというのか。あたしがこの手で作ったものを》
《そうじゃないけど・・・》
彼は困ったように首を傾げると、その輪を彼女から受け取った。
そして、少し迷ったあと、それを彼女の頭へとかぶせた。
まだ髪質が柔らかくて、ふわふわ風に揺れていた彼女の髪に、その優しげな冠はよく似合って。
ピーターはほほえむ。
《可愛いよ》
ローズはばっと顔を赤くしつつ、彼をにらんだ。
《やめろよ》
《なんで?》
《おまえにあげたんだ》
《だったら僕は、君にあげる》
もらってくれるよね。
そういってにっこり笑った、その笑顔につられるようにローズはしぶしぶといった様子で頷いた。
《・・・じゃあおまえは何が欲しいんだ》
ピーターは首を振る。
《なにもいらない》
《なにも?何も欲しくないのか?》
《うん。いまのままで充分だもの。これ以上はないよ》
そして反対にローズへと尋ねる。
《君は何か欲しいものがあるの?》
彼女は小さく笑った。
《別に・・・あたしもいまあるもので手一杯だ。そのうち、父上から譲り受けなきゃならないものもあるし。手一杯どころか、手不足だよ》
それを聞いてピーターは少しかなしそうな顔をした。
けれどもすぐにやさしいほほえみを浮かべると、彼女の手首をそっと握るようにして言った。
《こんなにちっちゃいのに。・・・足りなくなったらいつでもいって。僕も手伝うからさ》
ローズは驚いたように彼をみて、そしてわずかに顔を赤くしながらぶっきらぼうに答えた。
《おぼえといてやるよ》
まだ男とか女とか関係なかった頃の、ままごとみたいな時間だった。
けれどもそれがあったからこそ、乗り越えられたのかもしれない。
責任という重圧に負けることなく、国民に愛される統治者へと、成長できたのかもしれない。
彼女を心身ともに支えてきたのは、間違いなく彼だった。
気づけば彼女の生は彼で彩られていたのだ。
心も、からだも、記憶も、夢も。
染み付いてしまっている。
だから思い出さずにはいられない。
深みのある低い声。
優しい瞳。
力強い腕。
・・・ああ、どうして・・・・
記憶が濁流のように彼女におしよせて、彼女は過去の光景をみた。
もし彼を好きにならなければ、こんな自分を知ることはなかった。
醜い自分の姿。
彼を得るためならどんなことでもしてしまいそうな愚かな自分。
それをやっとのことで押し留めている。
あの頃のように純粋に彼との時間を楽しめない。
その原因さえ、自分自身の中にあるというのに。
彼女は胸を押さえた。
その痛みが病魔のせいであるのかさえ、もうわからなかった。
どうでもいい。
早く楽になりたい。
本当は耐えられるはずがなかったのだ。
彼が他の女を愛して、結婚して、家庭を築いていく姿など。
みていたくない。
知りたくない。
・・・あたしは弱い人間だ・・・・
悔しくて涙が出た。
「しっかりしろ!」
幻聴まで聞こえるなんて、本当にあたしは―――
「聞こえたら返事をしてくれ、ローズ」
そこまで考えて、彼女ははっと意識を取り戻した。
「大丈夫か!?」
ぼんやりした視界にその姿をとらえて、愕然とする。
これは幻影だろうか、それとも悪魔か。
だとしても・・・だとすれば・・・なんと巧妙な罠だろう。
彼女の目の前には、もう二度と会いたくなくて、この世で一番会いたかった人がいた。
彼女を抱きかかえるようにして、瞳を覗きこんでいる。
闇より深い漆黒の瞳に吸い寄せられた。
「ピーター・・・・・愛してる」
いいながら、腕を伸ばして顔をよせ、ローズはそっと唇を重ねた。
ぼうぜんとローズをみつめ返す。
そんな彼に、彼女はほほえみを返すと、その腕の中でふたたび意識を失った。
彼女の重みを感じる。
それはそのまま、彼女の生命の重みだった。
彼は黙って見つめていた。
動くこともできずに。
「和、矢――――」
はっとして振り向くと、そこに美恵が立っていた。
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