「ねぇ、リュー、起きてる?」
扉がそろりとあいて、そんな遠慮がちな声がした。
「アッキ?」
「・・・入ってもいい?」
アンドリューはベッドからおりて、扉へと向かう。
そして訪問客を迎えた。
「なつきさんも・・・どうしたの、ふたりとも」
そこには、明美となつきのふたりが並んで立っていて、彼は少し驚いた。
「あのさ、やっぱさっきの話がちょっと引っ掛かって」
なつきが続けて言う。
「それで、結局ピーターの恋した相手って、何者だったのか、わからないの?」
アンドリューはちょっとだけ笑うと、そうだね、といってふたりを部屋へと迎えいれた。
「僕も気になって、眠れなかったとこ。寝ようとして眼を閉じても、少しも眠れないんだ。ちょうどいいから、この際、朝まで話そうよ」
そういった彼の表情は、どこか楽しそうでもあり、なつきは明美と顔をみあわせてクスッと笑った。
「修学旅行みたいね」
アンドリューは声をたてて笑う。
「だって僕達、それに来てるんでしょ」
「そうだっけ」
久しぶりの再会が、お互いの距離を近づけた。
明美とアンドリューはベッドに腰掛け、向かい合うようになつきが、いすに腰掛ける。
「いろいろありすぎて、すっかり忘れてたけど、たしかに修学旅行ってこういう感じよね」
なつきが懐かしそうにいって、小さく笑った。
夜通しみんなで話す。途中で眠ってしまう人もいれば、朝まで元気なくせ、帰りのバスで熟睡する人もいて、ふだんは口にしないことをあえて話してみたりする。そんな他愛のない夜の時間。
「あたしはさ、いっつも張り切ってるんだけど、気づくと寝てるのよね・・・で、朝。なんど悪友に馬鹿にされたことか・・・」
思い出すように明美が言うと、アンドリューがニヤリと笑った。
「君らしいや」
うっと言葉につまり、明美はジロリと彼をにらむ。
「いいでしょ、健康な証拠よ。睡眠薬を愛用してる誰かさんとは違うの」
けれども言ってから、しまったというような顔をした。
墓穴。
これでは余計、彼の不在を思い出してしまう。
ふと、いたわるような眼差しを感じて顔をあげると、なつきが心配そうにみていた。
明美は驚いて、けれどもすぐに大丈夫という顔をする。
平気。まだ我慢できる。だってさびしいのは、あたしだけじゃないもん。
そんな彼女になつきはやさしくほほえんだ。
「そうよね。眠れないってのは、かなり怖い事だわ」
超越した美貌を思い出す。冷ややかな眼差し、その奥にある彼の魂。
「一種の強制終了じゃない?睡眠って。どんなにつらいときでも眠ってしまえばとりあえずはリセットできる。ふつうの人はそれができて当たり前なのに、なにかが狂うとそんな自己防衛本能さえおかしくなったり。そう思うと、つくづく人間って繊細すぎる生命だって気がするわ」
アンドリューは、さびしげな表情をする。
「ときどき思うんだよ、僕。シャルルがたまに・・・・ひどく無理して生きているように思えて、本人さえ自覚ないのかもしれないけれど、余計なお世話だっていわれるのわかってても、もっと楽に生きられないのかしらって、考えたりする。でもそれって、ないものねだりなんだよね。アルディの血を引く限り、その嫡男という立場で生まれてしまった限り、権力の枷から逃れられないんだって。・・ほんとうは穏やかに生きたい人に思えるんだ」
あら、と明美は反論した。
「それって誤解してるよ、リュー。彼に穏やかな生なんて似合わないわ。っていうか、無理よ。あの性格上、ふつうにしてるだけで敵は増えるし、おまけにわがままで策略家なうえ、素直じゃないときてる。なまじっか恵まれてるようにみえるだけに理不尽な嫉妬は買うわ、中傷はされるわ、彼くらい穏やかな生に程遠い人って珍しいんじゃないかしら」
あっけらかんとそういった明美を、アンドリューはまじまじとみつめた。
「君って・・・・」
「なに?」
「いや・・・・すごいなあって」
いってから、弾けるように笑い出す。みればなつきも、クスクスと笑っていた。
「それ今度さ、直接本人に言ってやんなよ。きっと泣いて喜ぶから」
笑いながら、アンドリューが言うと、なつきも同意するように付け足した。
「結果はぜひとも報告してね。どんな反応を示すか、興味ある」
「ちょっと、あんたたちねえ!」
明美はあわてて大声を出した。
「さりげなくあたしを生贄にしないでよ!まだ命は惜しいわ」
「いいじゃない。命がけの恋。憧れるわ」
「・・・なつきさん」
ニヤッと笑うなつきに、明美はベッドから立ち上がると、彼女につめよった。
「そんなに憧れるならあなたに譲るわよ、生贄」
へぇっとなつきが驚いた顔をする。
「譲ってくれるの、理事長。って、あなたのものじゃないけど」
さりげなく、キツイ言葉を吐く彼女を、アンドリューは驚きとも尊敬ともいえる眼差しでみていた。
いままで明美のまわりには、結局は甘い人たちばかりがいて、彼女のわがままを容認していたところがあった。
だから彼女はその中で自由奔放に振舞えたのだが、どうやらなつきは違うらしい。
そんな彼女と明美のやりとりは、新鮮だ。
「だれがシャルルを譲るっていったのよ!イケニエよ!!い・け・に・え!」
向きになって繰り返す明美を、なつきは余裕の笑みでかわす。
「だから言ったじゃない。あなたに譲られるまでもなく、理事長はあなたのものじゃないでしょ」
明美はカッとして言い返した。
「それをいうなら、あなたのものでもないでしょ!」
「そうね」
それに対し、なつきはあくまで冷静だった。
ひとつ間を置いて、息を吐く。
「だれもあたしのものなんていってないわ。あなたの言葉使いを注意しただけよ。大声出さないでちょうだい」
その言葉は、それまでのものより僅かにトーンが低かった。
アンドリューは、人の気持ちに敏感だ。
そんななつきの変化を、明美よりもはやく感じ取る。
「もうやめときなよ、アッキ」
タイプ的に、シャルルと似ているとアンドリューは思った。
表情にこそ出さないが、少し苛立っている。
けれども明美よりも、その言葉の意味をなつきのほうが理解した。
はっとしたように、アンドリューを見る。
そして自分の気持ちを落ち着かせるように、もう一度息を吐くと、目を伏せるようにしてほほえんだ。
「彼は誰のものでもないわ。だからみんなで共有しましょう。彼が誰かを選ぶまで。という結論ではご不満かしら、明美姫」
そこまでいわれて、いやだというほど明美も大人げなくはなかった。
「共有ってのも無理ありそうだけどね。ま、いいわよ、どうせ最後にはあたしを選ぶんだから」
そう付け足したのは、彼女らしいといえば彼女らしかったが。
なつきは苦笑すると、けれどもそれ以上は何も言わず、アンドリューに軽くほほえんだ。
「メッシ・ボクゥ」
アンドリューは驚いたようになつきをみて、やがてはにかむように笑う。
そんなふたりのやりとりをみて、明美は、少しだけ心が落ち着かなかった。
胸の奥の奥に、チクンと針の先が触れたような、微細な痛みを感じる。
けれどもそれには気づかないふりをして、気を取り直すように元気な声で言った。
「話を戻すわよ。ピーターのことを話しに来たんでしょ」
アンドリューとなつきは、明美の方に向き直る。
「ピーターというよりは、エミリィのことかな」
言いながらアンドリューは、からだをうしろにずらして、壁に背をもたれさせた。
「僕、彼の言葉が忘れられないよ」
明美が首を回しながら訊く。
「どの言葉?」
「彼がエミリィと出逢った意味についてさ」
アンドリューはぼんやりと宙を見つめたまま、思い出すように目を細めた。
「彼、言ったんだ。エミリィがなんだってかまわなかったって。ひとであるとか、ないとか、そんなのはたまたまそうだっただけで、大切なのは彼女に出会えたことなんだって。彼にとって、彼女を愛することは、この世界に許されることなんだ。彼女に出会えたことで、自分がこの世に生まれてきたのは間違いじゃなかったって、やっと信じることができたって、そう言ってたよ。僕、それを聞いたとき、絶対ふたりに幸せになってほしいって思った。どうしても幸せになってもらわなくちゃって」
ひとことひとこと、その台詞を心で反芻してから口にした。
彼の言葉は、それまでどれだけ彼がひとりであったか、たとえ周囲に愛されていたとしても、彼の心がさびしかったのかを伝えるのに十分だった。
なつきと明美は、その場にいなかった。
だからこのとき、はじめてその言葉を聞いて、彼の想いを感じた。
壮絶すぎる彼の叫びが、どこからか聞こえてくるようで、三人は息をひそめるようにしてその場に座っていた。
明美はぼんやりと、兄のことを考えた。
つねに自分を守り、家族を気遣ってきた自慢の兄。
けれどもそのせいで、自分のことを犠牲にしていたようにもみえる。
優しくされたことばかり思い出されて、してもらったことばかり思い出して、その逆はみつからない。
それがあたりまえになりすぎていたから。
お兄ちゃんは、そういうものだと思っていたから。
でも、いまならわかる。
それは甘え以外のなにものでもないと。
彼には、自分の兄として以外の、黒須家の長男として以外の、彼自身としての顔がある。
ひとりの男性として、ひとりの人間として、彼はもっと自由になっていいはずなのだ。
いままでは、どうしても頼ってしまっていた。
でもいつかは卒業しなくちゃ。
ひとりでも、ちゃんとやっていけるのを示して、彼自身の人生を歩いて欲しい。
心から愛する人と一緒に。
だってひとりじゃさびしいもの・・・・。
そこまで考えて、明美は思った。
もちろんピーターのことは心配だ。
でも正直な話、それよりなにより、兄にしあわせになってほしい。
いますぐお兄ちゃんに会って、大好きだよって叫びながら、思いきり抱きつきたかった。
・・・なんか泣きそうだ。
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