と階段の距離

 みごとな月だった。
 もしこの世界でそれを、月と呼んでいいのならの話であるが。
 シャルルがいたら説明してくれただろうか。
 あの天体の名前を。ずっとこの惑星を見守ってきた、衛星であるあの星の名を。
 淡々と事実をただ述べるかのように、感情を思わせない冷えた声で。
 そう思うと、少しだけ彼女の表情がやわらいだ。
 いまごろ何をしているだろう。
 どこにいて、何を考えているのだろう。
 それは、赤い月が呼び醒ました、彼女の中に眠る真摯な想いのせい。
 ふだんはずっと眠っている。
 表に出るのは、ほんの一部分。
 ちょうど表面しか地球に見せてくれない、月という名の衛星のように。
 そして思い出せば取りとめもなく、彼という存在が彼女の中に満ちていった。
 何も知らない。
 たぶん彼女は、彼のことを何一つ。
 一緒に過ごした時間はひと月にも満たない。
 それでもいままで生きてきたなかで、どんな瞬間よりも、鮮明に焼きついていた。
 彼の動作のひとつひとつ。
 彼の言葉の響きや温度。
 自分でもわけがわからなくなるほど、気づけば彼に惹かれている。
 どうしてだろう。
 彼女は少しだけ、自分の気持ちから遠ざかろうとした。
 こんなふうにものごとの中央にいると、巻き込まれてしまう。
 冷静にならなければならないことを、彼女はいままでの経験から知っていた。
 それにはまず、その中から出なければいけない。
 吸い寄せられるように見惚れていた、その空の広さに慄きすら覚えた。
 宇宙がそこにある。
 広く無限といわれている、この世界を守るもの。
 その中に自分がいると思うことは、安心できると同時に、ひどく頼りない気持ちになった。
 距離があまりに遠すぎて、手を伸ばしても何にも触れることができない気がして、ただ冷たさのなかに晒されてるような、孤独にも似たさびしさが襲ってくる。
 そうして思わず、両手で自分を抱きしめた。
 そのとき空から、声が降ってきた。

「NAO か?」

 はっとして振り返る。もちろんその声は、空からではなく、背後からかけられたもので。

「・・・美女丸」
「おまえも眠れないのか」

 そういってちょっと笑いながら、彼女の隣に腰掛けた。
 地上から貝のように巻かれた螺旋階段が続いている。
 彼女はそのいちばん上の段に、座っていた。
 空がよくみえる。

「いつも朝早いのに、夜もこんなに遅くて平気なんですか?」

 素朴な疑問とばかりに彼女が訊くと、美女丸は小さく笑った。

「眠れないのに寝ようとしても仕方ないさ」
「それは確かに…」

 それよりおまえこそ、といって今度は彼がNAOに言った。

「夜更かし娘。いつも遅くまで起きてるだろ。そんな細っこいからだで、よく平気なもんだと感心してるよ」
「ほ、ほそっこいって・・・・」

 NAOはぱっと顔を赤らめた。

「お世辞でも嬉しくないです・・・・全然、ほそっこくないし」

 思わず彼の言葉を繰り返してしまう。
 いままで男の人に、そんなふうに言われたことがなくて、しかも相手が美女丸とあって、NAOの鼓動は高まるばかりだった。
 けれどももちろん、美女丸にそんな彼女の気持ちがわかるわけでもなく、彼は表情を変えることもなく続けた。

「そうか?けどずいぶん軽かったぜ。階段から落ちそうになったとき、全体重をかけたろ。こんなもんなのかって驚いたくらいだ。おまけに手首なんか簡単に折れちまいそうで、ヒヤッとした」

 言われて、無意識に自分の手首をみつめていた。
 まるでずっと昔のような話だが、あのときからまだそれほど日が過ぎてはいない。
 そうしていると、あのとき強く握られた感触が甦ってくるようで、NAOは不自然に眼をそらし、あさってのほうをみながら言った。

「そ、それは・・・・美女丸ががっちりしすぎてるからで、だいいちあたしはそんなに身長もないし、だからそれで重かったらほんとブタさんみたいになっちゃうわけで」

 が、あまりの動揺に、自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
 美女丸は何も言わず、いままで彼女がしていたように両膝に腕を乗せると、わずかに首を動かして視線を上へと向けた。
 NAOの言葉が聞こえているのか、いないのか、夜に見る美女丸は昼間の彼とは別人のように静かで、雰囲気が静謐さを帯びる。
 ちょうど早朝の誰もいない稽古場のように、凛としているのに鋭くはなくて、厳かな雰囲気がたちこめている、NAOは彼の横顔を盗みみながら、そんなふうに思った。

「・・・無事にみつかってよかったですね」

 彼と会話をしたくて、NAOはそう話し掛ける。
 美女丸は、ああ…、とつぶやくように答えると、小さく息を吐いた。

「ったく、あの馬鹿には昔から心配ばかりさせられるよ。どうしてああ自分勝手なんだかな、絶対和矢が甘やかしすぎたせいだと思うんだが、あいつにいわせると、どうやらオレも同罪らしい」
「でもわかります。あたしにも妹達がいるから。やっぱり結局は可愛くって、許せちゃう」

 美女丸は、まったくだというように頷いた。

「悔しいが、認めざるをえないな。自分でも意外だった。絶対あいつを怒ってやろうと、二度と馬鹿な真似をするなときつく言うつもりが、あきれたことに・・・無事な姿をみた瞬間、すべてがどうでもよくなっていた。われながら信じられん」

 心というものは、どうしてこうも理性を裏切るのだろと、思わずにはいられない。
 それでもいまはただ、ふたりの無事に心から安堵するばかりだ。
 だから表情がやさしくなる。NAOはまだふたりがみつかる前、やはり眠れずに起きてきた美女丸と話したときのことを思い出した。
 あのときは、もっと追い詰められていたような、ギリギリのところに立っているような眼をしていた。
 いまは違う。心がゆるんだ証拠だ。
 そんな美女丸を見ているのは、とても嬉しかった。

「NAO」

 ふいに、名前を呼ばれた。みれば彼が自分をみている。

「は、い…」

 彼女を見つめたまま、美女丸はちょっとだけ笑って言った。

「サンキューな」
「・・・はい?」

 何を言われているのかわからなくて、きょとんとした顔のNAOに、美女丸はもう一度小さく笑うと、視線を空へと戻した。

「あのときも・・・・眠れなくて外に出たら、おまえが先にいて、こうして空をみてたよな」

 NAOは美女丸の言葉に驚いた。
 彼もまた、自分と同じことを思い出していたのを知って。
 なんともいえない気持ちになる。
 感動、といえばいいのかもしれない。
 ちょうど同じときに、同じことを考えていたことに対する、安堵にも似た喜びを感じる。

「ふたりともみつからなくて、自分でも手がつけれないくらい荒れていた。けどおまえは、そんなオレに何か言うわけでもなく、下手な励ましさえなくて、正直、救われたよ。ありがとな」

 NAOはその言葉の優しい響きに胸を打たれながら、恥ずかしそうに俯いた。

「そんなこと・・・・だってあなたは充分すぎるほど、責任を背負っていました。何か言う資格なんてありません。何もできない自分が歯痒くて、ずっと情けなく思ってました・・・ごめんなさい」

 美女丸は驚いたようにNAOに視線を向ける。

「なんで謝るんだ?情けないなんて、そんなふうに思うなよ。何かすることだけが大切なわけじゃない。おまえが頑張ってふつうに振舞ってるのみてさ、オレ、思ったんだ。こういう頑張り方もあるんだなって。何もしないことで、相手を励ませることもあるんだって、おまえに教えられた」
「そんな・・・・・オーバーな・・・・・・」

 真っ赤になって俯くNAOに、クスッとからかうように笑うと、美女丸は身を起こし、背伸びをするように両腕を伸ばした。

「あーあっ。ま。とにかくみつかってよかったよ。問題は山済みだが、まずは一件落着だ」

 そうしてすっと立ち上がる。瞳に笑みを滲ませて、NAOを見下ろしながら言った。

「ってことで、オレは行くけど、おまえは?」

 NAOは、ぼぉっとした顔で、首を振る。
 とてもじゃないが、眠れそうにない。

「そっか。じゃああまり夜更かしすんなよ。おやすみ」
「――おやすみなさい」

 ひらりと軽く手をふって、美女丸は階段を降りていった。
 広い背中をぼんやりみつめながら、NAOはさっきまで考えていた事を思い出そうとする。
 けれども、赤い月がからかうように彼女を見下ろしているばかりで、少しも考えがまとまらなかった。

 あの月まで、距離は遠い。
 近くに見えてもたどり着かない。
 彼の残した空気が、まだそこに留まっている。
 階段は地上へと続いている。
 天と地のはざまで、彼女は薄い闇をみつめていた。
 月が明るすぎて星はひとつもみえなかった。
 








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