柔らかな光に白金の髪をなびかせて、彼はゆっくりと近づいてきた。
「どこいってたんだよ」
戻ってきた相棒を迎えながら、そう言うと、彼はかすかに笑って答える。
「その台詞は、オレじゃなく彼女に言ってくれ」
「カノジョ?」
不思議そうな顔をした和矢は、けれどもすぐに後ろからひょっこり現れた人物をみて、納得した。
「ルイ」
そう呼ぶと、彼女は、ふ、と唇だけで笑って応えた。
けれども、その表情がどこかいつもと違って、和矢はその理由をシャルルへと求める。
「何かあったのか」
「――まあね」
「みたところ、楽しい話じゃなさそうだけど」
言ったところで、シャルルがいやに静かな周囲に気づいて、逆に和矢へと質問した。
「ふたりは?」
和矢は手早く事情を説明した。
「だから、おまえ待って、オレも行くとこ」
気楽な顔でそういった和矢に対し、シャルルの反応は深刻だった。
すっと顔が青ざめる。それをみて和矢は驚いた。
「シャルル?」
彼は完全に表情を消していた。
ただ、青灰の瞳だけが異質のもののように存在感を増して、そこにはない何かをみつめるように宙へと向けられている。
およそらしくないほど激しい感情が、そこに浮かんだようにみえた。
が、それも一瞬、やがて彼はつぶやくようにいった。
「早く行こう」
いってるそばから、走り出している。
「おい。待てよ。オレも行くって」
そんな彼の態度に、ただことのなさを感じ取った和矢は、いそいでそのあとを追った。
ルイもふたりについていく。
こちらの世界でも、何か起こるのだろうか。
不穏な空気が森を包んでいくのを感じながら、ルイはかなしみを感じていた。
なぜかはわからないが、理屈では説明できない部分で、わかるものがあるのだ。
胸の奥で小さな波紋が生まれている。
それはいまは目に見えないほど小さいけれど、やがて広がって全体を揺らすだろう。
ふと、ひとりの女性が脳裏に浮かんだ。
狂気のような桜吹雪と一緒に。
ああ、だからかもしれない。
うまく説明はできないけれど。
浜にはたくさんの人がいた。
ふたりの勝負をみようと集まった国民達だ。
ローズの圧倒的優位を疑わない人たち。
だれもが、彼女の勝利をみるために、ここに集っていた。
「ピーター、シャルルさん」
ふたりをみて駆け寄ってきたのは、つい今朝、戻ってきたばかりのカルアとティナ。
「ふたりは?」
シャルルの言葉に、ティナが海の方を見ながら言う。
「あそこよ」
すでに競技ははじまっていて、波間にふたりの姿を確認することができた。
シャルルは表情を険しくする。
「どうしたんだよ、いったい」
グイッとその肩をつかむようにして自分に向けさせながら、わずかに息を切らした和矢が訊いた。
シャルルは黙ったまま、痛いほど澄んだ海の青さをみつめていた。
「おい!」
言おうとしない彼に苛立って、和矢は険しい声を出した。
ビクッとティナが、その声に反応した。
「お兄ちゃん・・・?」
シャルルは小さく息を吐くと、カルア達から離れるように和矢をうながしながら、小声で言った。
「あいつらが不審がる」
「不審がってるのはこっちだよ。さっきからおまえおかしいぞ。何がそんなに心配なんだ?」
言いながら、和矢の表情も険しくなった。
「なんか知ってるのか。美恵ちゃんは大丈夫だろうな」
シャルルはその言葉に、ちょっとだけ笑った。
「溺れなければ平気だろ」
はぐらかされたような気がして、むっとした眼を向ける。
「だったら何だよ」
「それ以外、ってことは、対戦相手しかいないんじゃないの」
ひんやりと冷静なルイの声がした。シャルルはふっと自嘲的なほほえみを浮かべると、腕を組んで視線を海へと向けた。
まだふたりの姿を、確認できる。
「死ぬかもしれないぜ」
シャルルはぽつりとつぶやいた。
重さを感じさせない言葉だった。
それで一瞬、和矢もルイもその言葉を受け流してしまったのだが、もちろん、軽い言葉などではない。
和矢はわけがわからないというようにシャルルをみた。
「死ぬって、何の話だよ。いったい誰が」
「美恵と言って欲しいか?」
「シャルル!」
強くにらまれて、シャルルは薄く笑う。
「興奮するなよ。血圧があがるぜ」
「誰が死ぬんだよ。なんでそんな不吉なこというんだ!?」
大きくなるばかりの和矢の声に、小さく息をついて彼は答えた。
「ローズの心臓はボロボロだ。診断したわけじゃないから、どんな状況かまではわからないが、少なくともあの状態で遠泳などすれば、間違いなく心臓に負担がかかる。医者の立場で言わせてもらえば、生きて向こうに着く確立の方が低いと思うね」
「なんだって!?」
信じられないといったように眼を大きく見開いた和矢は、次の瞬間、ほとんど反射的にシャルルの襟元を掴んでいた。
「他人事かよ。なんでもっと早く言わなかったんだ。知ってたら最初から」
シャルルは不愉快そうな顔をする。
「最初から、なんだ。こんな勝負はしなかったって?」
「・・・・・・・ごめん」
すっと、和矢の手から力が抜ける。
シャルルは乱れた襟を整えながら、冷ややかに和矢をみつめた。
「止めるなら止めろよ。まだ間に合うかもしれないからな。オレは、彼女の意志を尊重する」
その響きは重く、壮絶な意志を感じさせて、和矢は一瞬、言葉を返すことができなかった。
けれどもやがて自分のすべきことを決めたのか、シャルルに背を向けて、まっすぐに海辺へと走っていく。勝負をやめさせるために。
シャルルはその後ろ姿を、自嘲と皮肉が混じりあうような眼差しで見送った。
「ずるい男ね」
そんな彼をまた、ルイがみつめていた。
「こうなることを、知ってたんでしょう」
「オレが? まさか」
「本当は止めたいと願ってた。でもあなたはそれをできない。だから和矢に代わってもらうことにした。どこか違う?」
彼女も和矢をみつめていた。ふたりの視線は交差することはなく、だからシャルルはかすかな笑みさえ浮かべて答えることができた。
「言ったろう。彼女の意志を尊重すると。自殺志願者をいちいち説得するほど、物好きじゃないね」
「あなたが死んだら、あたし泣くからね」
「・・・・・話の繋がりが見えないな」
「予告よ」
シャルルは小さく笑った。
「そいつは丁寧にどうも」
ルイもほほえむ。
「どういたしまして。たまには怪盗らしいこともしないとね」
そのときだった。
海辺の方から、幾つもの悲鳴が聞こえてきたのは。
ふたりは同時に走り出す。
海に人影は、ひとつしかみえない。
シャルルは唇を噛む。
否定をしないからといって、望んでいるのとは違うのだ。
いくら予想していたことでも、仮定と現実とでは、天と地ほども差があった。
「ちょっと、シャルル・・・」
ルイは目の前で繰り広げられた光景に、ぼうぜんと彼の名を呼んだ。
シャルルは目の前で、和矢が海に入っていくのをみた。
そして先を泳いでいたはずの美恵が、ローズの消えた地点へ、戻ってこようとしているのも一緒に。
「あの、馬鹿・・・」
軽く舌打ちをする余裕はあった。
彼はシャツのボタンをはずしながら、海辺へと近づいていく。
「え。って、待ってよ、あなたまで」
「君はここにいろ」
シャツを脱ぎ捨てて彼は、躊躇なく海へと入っていった。
ルイはあっけにとられ、思わずそのシャツをひろって次々に人を飲み込んでいく海をみつめていたが、やがてはっとして、自分も行かなくては、と思った。
どうしてかはわからない。
けれども何かが呼んでいた。
そうなれば、迷いなど生まれるはずがない。
彼女はせっかく拾ったシャツを、丁寧にたたんで、最後にその襟にキスをするとそっと砂浜に置いた。
ゆっくりと海へ足を踏み入れる。
一歩、また一歩。
水面は彼女の胸まで達したが、それでも足を止めることなく進んでいった。
その中央、皆が向かっているその場所まで。
冷たい水の感触は、むしろ心地よく彼女の肌を包み込んだ。
濡れるというよりは、守られているようだ。
その様子を、砂浜に置かれた白いシャツがみていた。
赤いルージュのついたそれは、彼が残したゆいいつの、この世界への置き土産。
ほのかに薔薇のかほりがした。
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