明美は緊張していた。
ついに恐れていた瞬間がやってきたのだ。
目の前に仁王立ちしている美女丸がいる。
彼女は目つむった。
ざっと腕が動く気配がして、ぶたれる!
と思った瞬間、彼女はわずかに震えた彼の声を聞いた。
「よかった…」
強く、つよく抱きしめられる。
まるでその無事を確認するかのように、美女丸は彼女を自分の胸にぎゅうっと押し当てた。
てっきり怒られるとばかり思っていた明美は、思ってもみなかった彼の態度に驚き、けれどもそれは彼の持つ体温のあたたかさのせいで次第にゆるんで、変わりにそれまで感じないようにしてきた心細さとか不安とか、そういうものがゆっくり押し寄せてきた。涙腺も一緒にゆるんでいく。
美女丸はゆっくり彼女を離すと、肩に両手をのせて屈みこむように死、まっすぐに瞳をのぞきこんだ。
「約束しろ。もう二度とオレの前からいなくなるな。和矢が戻ってくるまで、ずっとオレの目の届くところにいてくれ。いいな?!」
必死さが伝わってくる、彼の声。
明美はしゃくりあげながら、うん、と頷いた。
「ごめんなさい美女兄…」
彼はふっと笑うと、ぽんぽんと頭をなでた。
「もういいさ。無事だったんだから」
その言葉に、明美は罪悪感を感じずにはいられなかった。
いままで味わった事もないほど、それは大きくて、むしろ怒られたほうがすっきりしたと、こんなふうになってみてはじめて思う。
「ずいぶんと差をつけてくれちゃって」
そういって美女丸をみたのは、横にいたなつきだった。
「まぁったく、あたしの立場はどうなるのかな。美女丸。ぎゅうって抱擁、してくれないわけ?」
からかうようにいうと、美女丸はむっとしたような顔で彼女をみる。
「こんなときによく冗談が言えるな。死ぬほど心配した身にもなってみろよ」
「・・・じゃあどうして怒らないの」
明美の言葉に、彼はじぃっと彼女をみたが、やがてかすかに首を振るとため息をついた。
何も言おうとしない彼の代わりに答えたのは、後ろの方でなりゆきを見守っていたNAO。
「そのレベルはとっくに超えたんですよ。最初はそりゃあ大変だったけれど」
じろっとにらまれたが、気づかないふりをした。
「えっと。ですね。だから怒ってないとか心配してないとか、思わないで下さいね。そんな段階は最初の数日で終わって、あとはもう、生きていてくれればいい、無事でいてくれればいいって、そればかり皆で願ってたんです。もちろん私も・・・・・・ほんと、良かった・・・・」
そういって彼女は、心の底から安堵の息をもらした。
それを聞いて明美は、なつきと顔を見合わせ、ふたり同時に頭を下げた。
「勝手な真似してごめんなさい」
「反省してるわ・・・・あたしが、止めるべきだったのに・・・・でも、ありがとう」
その言葉に空気がすぅっとやさしくなって、皆の緊張がゆるむ。
なにごともなくてよかった。
いまはもう、それだけで充分だった。
明美は気持ちを落ち着かせるように、大きく深呼吸して、それから改めて久しぶりに再会した彼らを見回した。
思えば学園にいるときは、美女丸にだって毎日会っていたわけではない。アンドリューも同じ、NAOに至っては、この修学旅行で知り合ったくらいだ。
それなのに、馬鹿みたいに懐かしさが込み上げてきて、離れていた時間の長さを思わされた。
「変なの・・・」
なつきが、ん?と首を傾げる。彼女も初対面に近かったが、いまはもう、戦友のような気持ちである。
「四六時中一緒にいたわけでもないのに、離れていた数日がすごーく長く思えるの」
そういうとなつきは、ああ、と笑いながら頷いた。
「本当だね。でも、ま、それは本能みたいなものじゃない」
「ホンノウ?って、野生とか食欲とか、そういう意味での?」
「んー、まあ、そうだね」
「なんで?」
その話を聞いていたNAOが、そういえば、と口を開いた。
「何かの本で読んだことあります。ふつうとは違った、一種の極限状態と呼ばれるような、生命の危険にさらされたりすると人は、子孫を残そうとして、近くにいる異性と恋に落ちようとする、とか。それは生殖本能に基づく、自然な行動というふうに説明されていました。そういうことでしょうか?」
なつきは感心したようにうなずいた。
「まさに、的確な例えをありがとう、よ」
ふぅむ、と明美は腕を組みながら考え出す。
「ってことは、問題は時間じゃなくていまの状況ってことなのね。でも恋が生まれる可能性かあ・・・・ちょっといいこと聞いたかも」
最後の方はごにょごにょとひとりごとのように付け足した彼女の表情は、どこか嬉しそうだった。
つまりそれは、彼にしてみたって例外ではなく、いまのこの状況は、彼女にとって絶好の機会ということだ。
そう彼女は思い込んだのだが、すぐに決定的な問題にぶつかった。
「シャルルがいない!!」
思わず声に出して、皆の視線を集めたのにも気づかず、彼女はがっくりと肩を落とす。
全然駄目じゃン!いくらなんでも本人がいなきゃ話は進まないわ。早く彼と再会しなくっちゃ。それも、非日常的な劇的な場面で、そうねぇ、・・・。
彼女はもともと想像力豊かな人間であり、こういう類の話は得意だった。
むくむくとイメージが膨らんだ。
そうね、やっぱり命の危険が不可欠ね。たとえば、あたしは塔に閉じ込められていて、そこから出られずにいるの。・・・だめだ、全然危険じゃないわ。それじゃ火あぶり・・・はさすがにやだしぃ・・・あっ、そうよ、悪者につかまって、無理やり結婚させられそうになるの。それであたしは抵抗して、塔に閉じ込められる。毎日泣いて暮らすあたし。そして結婚式当日の日の朝。どこからともなく彼が現れるの。うーん、でもそれじゃロマンティックじゃないわね。神出鬼没であやしいわ。どうせなら見張りをばったばったとなぎ倒して、バタンと音をたててドアをあけて欲しいわ。で、はあはあ息を切らして、真剣な表情をしてて、ふっとあたしと視線が合うの。ものもいわずにみつめあうふたり。いつしかその距離は縮まって、やがて耳元で彼の声がする。彼は言うのよ。苦しそうな声で。『他の男に奪われると思ったとき、自分の本心に気づかされた。明美、君は幼馴染なんかじゃない、あまり近くにいて気づかなかったけれど、本当は―――――』
「―――ん、明美さん!」
よだれをたらさんばかりの表情をしていた明美は、その声にはっと現実に呼び戻された。
思わずアゴを甲でぬぐう。
「あら・・・・」
気づけば皆がじぃっと彼女に注目していた。
美女丸は、またか、とでもいうような冷ややかな目をし、NAOとなつきは反応に困り、アンドリューはしょうがないなぁというふうに苦笑い。
きゃあっ、恥ずかしい!
と、思った彼女だったが、そのときはじめてメンバーの不足に気づいた。
「あれ、ピーターとルイさん、それにマリウスは?」
するとその場にいた全員はいっせいに顔を見合わせ、大仰なため息を漏らした。
アンドリューが、フォローするように口を開く。
「いまその話をしてたんだよ、アッキ。ピーターからこの城の話を聞いた後、別行動にしたんだ。お互いのためにもその方がいいってことになって。ルイさんは」
「彼のところへいったんですって」
抜け駆けよね、とぼやくようになつきが言えば、NAOも小さくだけど頷いた。
「私もあとから聞いたんです。美女丸にだけ、言い残していったみたいで」
悔しいのは、彼のもとへひとりで行ったことか、それとも彼ひとりに言い残していったことか、けっこう微妙だったりする。
「おまえらがついていくとか言い出すからだろ」
女性陣の態度に苦笑しつつ、美女丸はそういって、遠くに視線を馳せた。
いま皆がいるのは、古城の庭園の泉のほとり。
天候は極めて良かった。
青い空が続いている。
「彼女は知らせにいったんだ・・・・マリウスが消えたことを。いちばんつらい役目じゃないのか」
そういって目を細めた彼を皮肉るかのように、その庭園は憎らしいくらい光があふれていた。
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