ローズの屋敷の一郭に、魔物が出ると噂されている塔がある。
ときどき、夜のいちばん暗い時刻にまがまがしい声がして、魔物が徘徊しているという誠しやかな噂が国中に流れ、実際その声を聞いたという人も何人かいた。
ちょうど世界がこちら側とあちら側にわかれた頃からこの噂が立ちだしたということもあり、信憑性は強く、そのために退治しようとか、その正体をつきとめようとかする人は現れなかった。
命を奪われるのがおち、放っておけば害もないと、だれもが思ったのである。
しかし例外がひとりいた。その魔物の類に最愛の女性を奪われたと信じている、ピーターだ。
彼はもともとこの屋敷で暮らしており、その塔にも幼い頃、何度も足を踏み入れたことがあった。
もちろん、魔物に出会ったことはない。
それでも欠けた心の一部を求めるかのように、執拗なまでにその塔を調べた。
朝も、昼も、夜も。
けれども結局何もみつけることはできず、しだいにその情熱は自分の内へと向かっていった。
あまりしゃべらなくなり、笑わなくなった。
かすかなほほえみは、以前の彼からは想像もできないほど弱々しく、人付き合いも悪くなり、そんな彼を心配しているうちにふっと姿を消したのである。
だから彼が戻ってきたときは、みんなが喜んだし、ほっとした。
そうしてその塔のことは、しだいに忘れられるようになった。
ローズも、ピーターがあれ以来、一度もその塔を訪れるようなことはなかったので、とっくに忘れてしまったのだと思っていた。
新しい女性をみつけてきたのだから、その態度は頷けるし、彼女にしてもそれは都合が良かった。
なぜなら彼女は・・・・その魔物の正体を知っていたのだから。
今夜も唸り声がする。その塔はかなしみに震えるように鳴いて、悲鳴をあげ続けた。
敷地のもっとも奥深く、だからこそ用事でもない限り滅多に人は訪れない。
魔物が見つかる心配もない。
それでも・・・。
その夜は違った。
塔には、この国に関するあらゆる資料が収められており、それらの書物を目当てとした人物がひとり、その塔を訪れていた。
噂は耳に入っていた。けれども恐れるよりは興味の方が強かった。
そして明け方にも近くなった時刻、
――ガシャン!
生体の声とは違う、無機的な現実味を帯びた音が、暗く静かな塔内に響いた。
彼は追っていた文字から目を離すと、パタンと閉じてもとの場所へ戻し、ゆっくりとその音のした方へと歩いていった。
まるでお姫様だな。
浮ぶのは、そんな皮肉げなつぶやき。塔に閉じ込められた姫君なんて、あまりにできすぎたその構図を、揶揄したくもなる。
けれども最悪の事態を想定し、足早に歩いた。
まだそれは仮説にすぎなかったが、彼はほとんど確信していた。
間違っているとは思えない。けれども、同時に願ってしまう。
まちがいだったらいいのにと。
そんならしくない考えは、扉の前についたときにはすでに消えていた。
仰々しい扉の向こう、魔物の叫びは、いまは喘ぎとなって彼の耳には届かなかった。
そのことに彼はますます険しい顔になり、一瞬の躊躇も見せずにその扉をあけた。
「入るぞ」
中にいるだろう人物に向かって、一応そう断る。
その相手は、ほとんど意識を失っていて、顔は土色に近かった。
彼は慌てて駆け寄ると、床に転がっていた彼女を抱え、ベッドの上へと戻しながらいった。
「おい。しっかりしろ。ローズ!」
苦しみのあまり倒したのだろう、枕もとの棚が無残な姿をさらしている。
中に入っていた本は散乱し、その中に彼女は倒れていた。
耳を近づけると、わずかに息はある。
心臓もまだ動いているようだった。
彼はそれを確認して、ほっと息をついた。
「最悪の事態は避けられたようだな…」
床を見渡すと、種のようなものが転がっている。
拾って手にとると、この国の薬のようだった。何か種子のようだが、彼の膨大なデータベースにも見当たらない。たぶんこの国独自の植物なのだろう。
ベッドから少し離れたところに小さな机があり、その上に水が置かれてあった。彼はその種を口に入れると、飲みやすいように歯で粉々にし、水を含んで彼女に飲ませた。
ついでに、持参した錠剤を取り出したが、結局飲ませはしなかった。
そうしてしばらく彼女の様子をみていると、薬が効いてきたのか、だいぶ様態が落ち着いてきて、やがて彼女はうっすらと目を開くまでに至った。
暗い視界、そこに入ってきたのは、みたこともないひとりの女性。
彼女はまだ夢の中にいるのだと思って、その天使をただみつめていた。
そう、そこにいるのは天使だった。光のような白金の髪と、黄昏を思わせる青灰の瞳をした天上界の使い。彼女は苦笑にも似たほほえみを漏らした。
自分はとうとう死んでしまったのか・・・。
あきらめともつかない微笑は、けれどもどこかで安堵を含んでいたようにもみえた。
「気分はどうだ」
その天使の口調は、淡々としていた。彼女は小さく笑った。
「別に・・・」
彼は冷ややかな眼差しを彼女に向けていた。症状が思わしくないのは、一目みればわかる。
「いつからだ。なぜまともな治療もせずこんな場所にいる。死にたいわけか」
「死んだ人間に、その台詞はずいぶんだな」
「・・・・・・」
彼は何も言わなかった。それを肯定と受け止めたのか、彼女はふっと笑うと、重そうにまぶたを閉じた。
「女じゃないのか・・・・ああ、それとも天使に性別はないのかな・・・・」
ひとりごとのようにつぶやいて、もう一度確かめるように目を開く。そして彼の方を向くと一言、かすれた声で言った。
「はやく連れていってくれよ…」
彼はわずかに首を傾げた。そうすると白金の髪が、夜の中であわい煌めきを放って、さらさらと肩にこぼれた。光が纏いつく。彼を祝福するかのように。
彼女はまぶしそうに目を細めた。
「天使なら、あたしを連れていけよ。そのためにいるんだろ」
「・・・どこに連れて行く?」
「別に・・・・・どこでもいよ・・・・・・ここじゃなければ、どんな場所だってかまわないさ」
ふっと彼の視線が揺れた。彼女を見つめる。まっすぐにその瞳を。いつも自信に満ちたその三白眼は、いまはぼんやりとそこにあって、どこか遠くをみつめていた。
「そのために、治療もせずにこんな場所でたった一人、死を待っていたというわけか」
彼の口調は相変わらず淡々としていた。怒っているわけでも責めているわけでもなく、ただ真実を受け入れようとでもするかのように静かに、その視線は彼女に向けられていた。
「そういうわけじゃ、ない・・・」
つぶやくようにいって彼女は、視線をそらすように横を向いた。
「ただ・・・あたしが死ねば国は滅びるとみなが信じている・・・・本当にそうなるかは知らないけどね、みながそれを信じていれば実際そうなる可能性は高いと思わないか・・・・・・・・・・・・・・・・もしあたしの命が長くないことが知れたらそれこそ国中大混乱だ・・・・・恐いのは伝説なんかよりむしろ、そんな偏った信念なんだよ・・・・・・・・この国を守るべきあたしが、それをしてどうする」
「だが実際、君が死んでしまえば同じことだ。遅かれ早かれ、国は滅びる」
容赦のない言葉にも、彼女はかすかにほほえんだだけだった。
「かもしれない・・・・・けどもし生きていると信じさせることができれば、いつかわかったとしても、それまで滅びずにいた事実が何かを変えるんじゃないかって・・・・無意味な期待かもしれないけれどね、案外それは簡単なことなのさ・・・・いまだに父上が生きていると信じているのを思えば、できないこともない」
「・・・不器用だな」
そのつぶやきは、ひどく自嘲的で、彼は目を伏せると小さく笑った。
「そんなふうに生きているから、心の臓器に負担がかかるんだ。生命の中心であるその部分を、君は自分で傷つけてる」
ローズの指は、無意識のうちに傷痕をなぞっていた。
剣をつきつけられたあのとき、本気で彼が自分を殺してくれたらと、願っていた。
そんなことを彼がするはずがないと、そんなことさせれば彼を苦しめるだけだとわかっていたけれど、それよりもっと深いところで、本能的な素早さで願ってしまっていたのだ。
あたしを殺してくれと。
だから、あのときの彼女の言葉を、ローズは忘れることができない。
自分のエゴを突きつけられたような気がして、原罪を与えられたような気がして、たとえ死んでもその罪から逃れられないだろうと思った。
弱い心が憎かった。もし病魔のもたらしたものなのなら、この身を捧げて滅ぼしたい。彼を傷つけるくらいなら、こんな命は必要ないと思った。
それでも彼女は・・・・民の為に、生きなければならない。
まだ彼女は、支配者でいなければならないのだ。
それが彼女の選んだ道だから。
ピーターが自分を選んでくれれば、安心してこの世に別れをつげられたけれども、いまはそれはありえないと知っていた。
もう自分には力がない。統治者としても、女としても、大切なものは何も残らない。それが罪を犯した自分への、逃れられない罰なのだろうか。だとすれば、甘んじて受け入れる以外に、何もできることはない。
「なぜピーターに、言わなかった」
まるで彼女の心を読んだかのようなタイミングで、彼はそう言った。
「事情を知れば彼も、君のもとに戻ってきたかもしれない。君は彼との間に子供をもうけ、それで君が死のうと国は安泰だ。君も最愛の彼に看取られて死ぬのだから、本望だろう」
ローズはその言葉に皮肉げな笑みを返した。
「同情で愛情を買って何になる。そのうえ彼をこの国に縛りつけて自分がさっさと死ぬなんて、あいつにどんな恨みがあるってんだ。そこまで自分を貶めて死ぬのは、それこそまっぴらごめんだね。永遠の命をもつ天使にゃ、わからない感情だろうけど」
彼は軽く笑うと、ゆっくりと侮蔑をこめていった。
「たしかに私にはわからないな」
ほほえみは冷たく、嘲りを浮かべた瞳は、刺すように彼女に向けられていた。
「結局おまえは、何も選んではいないということくらいしか、私にはわからない。言い訳にしては見苦しすぎて、いい加減、うんざりだ。おまえのような無責任な統治者に国を委ねなければならない国民に、心から同情するね。きれいごとばかり並べてないで、自分の中の醜さを受け入れたらどうだ」
「な、んだとっ!?」
カッと血が逆上する。ローズは反射的に身を起こし、けれども体力がおいつかずにバランスを崩しそうになって抱きとめられた。
「離せっ!」
その手を払いのけようとするが、力の差は歴然としている。悔し涙に視界がにじんだ。自分の思い通りにならないからだと、そして心。まっぷたつに引き裂かれそうで、その痛みに耐えられない。
「・・・結局女か。泣いて終わり」
冷ややかな微笑だった。それをみながら彼女は思った。
目に前にいる天使は、実は悪魔なのかもしれない。この塔に巣食った魔物が、弱い心に入り込んで、いま自分を内側から揺すっているのだ。まるで自分を試そうとでもするかのように。
だとすれば、結論はひとつしかなかった。
彼女は生まれたときから、ただひとつの道を選んできた。ピーターに出会うずっと前から。
そしていまでも、その道を歩き続けている。
「あたしは、ローズ・ニーベルン。この国の統治者だ」
目の前にある青灰の瞳を、のめり込むように見据えて、彼女はそう言い切った。
「迷ってなどいない。この国の為に生まれてきた命、すべてこの国を守るために使ってみせる!」
強い光を浮かべていた。けれどもすぐにその瞳は閉じられて、彼女のからだから力が抜けていく。彼の腕の中ですでに意識はなく、彼はほっと息をつくと、そのからだをベッドへと戻した。
閉じられた瞼に、囁くように言う。
「そうだよ・・・・迷いは禁物だ」
彼女の身体は、長くはもたないだろう。
この世界ではじめて彼女をみたとき、真っ先に抱いた危惧はそのことだった。
響谷薫に良く似た女性、その病気まで、よく似通っている。
隠し通せてきた方が、彼には驚きだった。
原因は幾つかあるだろうが、たぶんいちばん大きいのは、みなが彼女を健康だと思いたがっていること。隣国の例もあり、自分の国だけは違うと、本能的にそう思っているのだ。だから気づかない。気づきたくはないから。彼女自身、それを知っていて、うまく利用していた。
剣の腕は随一で、一見だれがみても健康そのものにしかみえない。
着々と病魔が体内を侵していこうと、彼女の強い意志が、それを隠し続けることを可能としていたのだった。
彼はほっと息をついた。感心する。この細いからだのどこに、その激しいまでの熱情を隠しているのかと。
心とからだは切り離せない。どんなに困難なことでも、心の底から求め、やり抜く意志を持ち続ければ、それは病魔の侵攻さえ遅らせることになるだろう。実際彼女は本当なら、もうこの世にはいなくてもおかしくはない。
けれども・・・。
そんな彼女の唯一の隙が、ピーターだった。
統治者としての意識が、女性としての弱さに負けたとき、彼女は病魔にも敗北することになる。
支えているのは、自分がこの国を守るのだという、ただその一心であり、少しでも亀裂が入れば、途端に病気は悪化するおそれがあった。
彼はそれを阻止しなければならない。いま彼女を失うことは、たしかにこの世界の均衡を大きく崩す事になるだろう。彼女には悪いけれど、彼の目的は他にある。生きていてもらわなければ困るのだ。
・・・自分に治すことは可能だろうか?
ふと、そんなことを思ってみる。しかしすぐに首を振った。とにかく時間がない。必要な装置や医療器具は、基地に戻ればないこともなかった。けれどもこの国の人間が、自分達と体内まで同じ構造をしているとは限らないし、たとえ外側からそうみえたとしても、決定的な違いがあるかもしれない。それらについて調べるためには、時間が足りなすぎた。
行き当たりばったりの手術などありえない。彼が行う手術とは、助けるためにするのであり、やってみればいいという問題ではないのだ。無駄にメスを入れるのはかわいそうだ。
そこまで考えて彼は、参ったと首を振った。
これ以上の思考は意味がないと判断し、部屋を出る。
呼吸も脈も落ち着いていたのをみると、さっきのは一時的な発作だったのだろう。
いまのところは大丈夫そうだが、もし彼女がなにか大きなダメージを受けたりしたら、最悪の事態も想定しないわけにはいかなかった。
花嫁候補を決める催しは来週。
何事も起こらない保証はどこにもなかった。
彼女はもう、ピーターのことをあきらめている。
それを思えば、いまさら花嫁候補を争うなど、何の意味もない。むしろからだのことを思えば、やめておいたほうが無難であった。
けれども、彼女のプライドがそれを許さないだろう。
支配者としての自尊心や、女としての意地が絡み合って、いまさらあとには引き下がれない。いま彼女は、それに勝利する事しか考えてはいないのだ。逆をいえば、そうすることでしか、ピーターを奪われた傷を、癒すことができずにいる。
その気持ちが、彼にはよくわかった。
だからこそ、やめさせることはできなかった。
彼女はその大会で勝利する権利がある。
・・・実際は、彼女に優勝してもらうわけにはいかないのだけれども。
彼は自嘲せずにはいられない。そう、彼女の優勝を拒もうとしているのは自分。彼女の誇りをかけた戦いを、その真の意味を知っていながら、それさえ彼女から奪おうとしている。まさにエゴイストとは、おまえのためにあるような言葉だよ、シャルル・ドゥ・アルディ。
そう冷たく言い放って、自分をいつになく遠くに感じていた。
もうすぐ朝になろうとしていた。薄い光が漏れてくる。彼は気怠げに目を細めて、その光を窓越しにみつめた。
だけど、ローズ・・・・。
久しぶりに思い出した、切ない想いが、彼の心をゆるくする。
その戦いに勝ったとして、それはむなしい勝利だと、思い知らされるだけじゃないかい?
忠告というには、あまりに優しすぎる言葉だった。
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