平らな水面をみつめていた。
いままで映し出されていたものは、一瞬にして水飛沫の中に掻き消えた。
まるで自分の動揺をそのまま反映したかのような、突然のノイズ。
じっとみつめながら、最後に聞こえた言葉のことを考えていた。
マリウス・・・。
たしかになつきは、その名前を口にしていた。
はっきりとは聞き取れなかったけれども、そこに彼はいなかった。
彼だけではない。他のメンバーの姿も、だれひとりとみつけられず、もしかすると他の部屋にいたのかもしれないけれど、そもそもあそこは基地の中だったのだろうか。
いろいろな可能性を考えてみる。けれどもどれもただの空想にすぎず、何が本当なのか、何が起こっているのかを知ることはできなかった。
思えば彼女を・・・妹を、自分は待たせてばかりいるような気がする。
ときどき彼女を泣き虫とからかうが、それはもしかすると、自分がそうさせてしまったのかもしれない。
大切な彼の家族、守るべきそれらの人たちを、けれどもあまり家にもいないで自分は、本当に守ってきたのだろうか?
いまみた明美の笑顔が思い出された。
笑っていた。彼女はちゃんとやっているし、自分がいないからといって泣き続けるような子供ではもうなかった。それはつまり、彼の保護を必要とする時代はとっくに卒業し、からだばかりではなく心も、正しく成長しているということだ。
和矢はその笑顔に、違和感をおぼえた自分を恥じた。よく考えればわかることなのだ。もう自分のあとをくっついていた幼い妹はいないのだと。なのにどこかで思ってた。彼女が泣いているんじゃないかと。
うぬぼれてるよ。
凛とした彼女の声が脳裏に響く。そんなの、うぬぼれだよ。・・・。
和矢は目をつむる。本当だ。ずいぶんと自惚れた兄貴だ。もうそんな関係はとっくに終わったのに、寄りかかりすぎているのは自分じゃないか。
しずしずと水面は彼の表情を盗んでいた。うつむいた彼の顔、閉じられた彼のまぶた、わずかに開いた唇、そして震えるまつげ。
風が吹く。森全体を揺らすかのようにざわりとひとふき。
それは彼をなぐさめると同時に、彼女の訪問を告げる合図でもあった。
「だれかいるのか?」
驚いたような女性の声。少し低くてかすれるような、ローズの声。
「ピーター?」
背中に彼女の気配を感じて、和矢はピーターに戻った。
「やあ、こんばんは」
振り向いて、ほほえむ。そこにはかなしみなど微塵もなくて、彼はただ静かにそこに立っていた。
「おかしな場所で会うな」
ふっと笑ってローズが言う。彼女は寝巻きに薄いヴェールを纏っただけの姿で、和矢は心配そうに目を細めた。
「夜は冷えるよ。寒くないの?」
「・・・眠れないんだ」
彼の言葉が聞こえていないのか、そういって彼女はほほえんだ。
昼間とはまるで別人のような表情をみせられ、和矢は少し戸惑った。
「・・・だからって、こんな夜中に森に来るのは危ないよ」
軽く笑う。
「無用の心配だ。この世界であたしを脅かすものなんてないさ」
自信に満ちた口調。けれどもその瞳は、まるで反対の感情を宿して、彼に向けられていた。
憂いを帯びた瞳のなかに、激しさと同じ場所からうまれる脆さがつまっていて、同時に告げていた。
もしあるとすれば、それはおまえだよ、ピーター。
和矢はドキリとする。すべて見透かされるようなその瞳の透明さが、まるで生きている人間のものとは思えなくて。
もし魂というものが目に見えるなら、きっとこんなふうにみえるのかもしれない。
宝石なんてきれいな言葉では足りなかった。もっと切実で、もっと危うくて美しい。
「何をしていた?」
その言葉に、ふっと緊張が解けた。そこにいるのはいつもの彼女で、和矢は夢からさめたような気がした。
「あ、ああ・・・ちょっと、散歩」
その言葉に、ローズは皮肉げな微笑を浮かべた。
「それこそこんな夜中にか。あの女に追い出されたのならあたしがさらってやるから、遠慮せずにいえよ」
「サンキュ」
クスッと笑ってそういうと、ローズもニヤッと笑って応じた。
「あたしゃ広い心の持ち主なんでね」
「知ってるよ」
「・・・・」
意外な返答に、不審そうな顔をする。和矢は上を向きながら、知ってるよ、ともう一度繰り返した。
「みんなが君を愛してる。だれも君を悪く言う人はいない。オレがいままで聞いたのは、君の幸せを願うものばかりだったよ。それは君が、同じようにこの国の人たちを愛してきたからだろ。広い心をもってなけりゃ、そんなことはできっこないよな」
息がつまりそうだった。ローズは、けれども気づかれないように心の中で深く深呼吸して、あいまいに頷いた。
「よく、わかってるじゃん」
彼女の言葉にしては、歯切れが悪かった。
「ローズ?」
和矢はそれを敏感に感じ取る。彼女はなんでもなさそうに笑って、冗談っぽくいった。
「けどそれは、この国の支配者としてのローズ・ニーベルンという女だ。あたしじゃない」
ふっと視線を向けた和矢は、そこに彼女の華奢な背中をみつけた。
薄い衣が、たよりなさそうに揺れている。
「それに結局」
そういって彼女は、背を向けたまま、ゆっくりと歩き出した。
「皆を愛するのは、誰も愛さないのと同じことだよ・・・・・・おやすみ、ピーター」
和矢はつらそうに目をつむった。自分はピーターではないけれど、あんなふうにかなしそうな背中をひとりにしておくのは、たまらない。そばにいてやりたい。強がる必要はないのだと、そういって安心させてあげたくなる。
けれどもそれは無理な話だった。そんな中途半端な優しさを彼女は求めていないし、だいいち、彼女が本当に助けて欲しい人は、自分ではなくピーターなのだ。
「・・・なにやってんだよ・・・あいつは・・・・」
そのときはじめて、和矢は彼を責めたい気持ちになった。
いままでその心をよく理解し、助けてやりたいと思ってきた彼だったけれど、このときばかりはピーターに対して、同情の余地を感じることができない。
夜の天体の薄い光のなかで、水面に映る自分に気づいた。
同じ顔をした男。だからだろうか、こんなにざくざくと心が棘立つのは。
「ひどい男だな」
そのつぶやきが、だれにむけられたものだったのか、もはや彼自身にもよくわからなかった。
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